ヴェネツィアのため息橋
観光客は必ず訪れる橋
総督宮殿と後側の建物を結ぶこの「ため息橋」は、この街を訪れた人が「とりあえず行く」場所のひとつです。
この橋がよく見渡せるパーリア橋では、「ため息橋」の写真を撮ろうとする人々を必ず見かけます。
1589年ヴェネツィア共和国は、新しい牢獄を総督宮殿横に建てることを決定します。それでこの新しい牢獄と、総督宮殿内にある裁判所をつなぐ橋が必要になりました。
構造は、警備上の安全を第一に考慮され、空中で屋根のある渡り廊下式の橋になっています。一方外観は、イストリア産の白い大理石の素材で、優雅な装飾が施されています。
橋の設計は、この新しい牢獄やリアルト橋の設計などを任された建築家、アントニオ・ダル・ポンテの孫(甥の可能性も)である、アントニオ・コンティーノによるもので、1600年に完成しています。
「ため息橋」の名前の由来は、この橋を通るであろう、刑を宣告された者のため息を空想した地元庶民が、そう呼んだことからついています。
19世紀には、多くの文筆家がこの「ため息橋」にイマジネーションをかきたてられ、ハーレクインロマンス的なお話がたくさん生み出されたのでした。
『悪名高いヴェネツィアの「十人委員会」(政府の重要決定機関)により、無実で投獄された善良な若者の、愛しい人との別れ』の物語が、最後の涙を落とす場所として、この橋を舞台にまことしやかに描かれました。
19世紀当時、すでにヴェネツィア共和国はなく、現実の場所と作り物が物語の中で混ぜられ、人々の涙を誘い人気を得たため、歴史的根拠のないフィクションであるにもかかわらず、しっかりと信じられてきたのです。
実際のヴェネツィア共和国は、罪人に弁護士をつけた最初の国のひとつでもある、司法制度の先進国であったのですが、共和国崩壊後のヴェネツィアは、反論しようとする気力さえもう持ち合わせていなかったのです。