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日本への茶の伝来~春はあけぼの 茶は南方の嘉木なり~

「茶は南方の嘉木(かぼく)なり」とは、「茶経(ちゃきょう)」の一番、最初の文言で、陸羽(りくう)という人が唐の時代に書きました。

南方の嘉木とは、チャが中国南西部原産の木だということです。

茶経は、チャの起源に始まり、製茶道具、製茶法、飲茶道具、飲み方、産地などが書かれているそうです。

当時は、8世紀頃ですが、既にお茶の文化が形成されているのが分かります。

ここで紹介されているお茶は、餅茶・末茶・粗茶・散茶の4種類

基本のお茶は、餅茶(へいちゃ)と言って、生葉を蒸して臼でつき、型にはめて日干した後に、串にさして火で焙ってから保管し、飲む時は、焙って、粉にして、篩にかけて、熱湯に入れて、塩を混ぜて撹拌し、最終的に茶碗に移して喫するそうです。

当時は、餅みたいにペタペタついて、固めて乾かす「固形茶」が主流だったんです。

末茶は、抹茶のように粉にしたお茶らしいです。
粗茶は、枝丸ごと収穫し、作ったお茶らしいです。
散茶は、釜炒りされた茶葉で、固形茶と違って、散らばってぱらつくお茶らしいです。

昔のことなので、本当のところは分かりませんが、8世紀頃は、4種類のお茶が作られていたことは確かです。

また餅茶に、ネギ、しょうが、なつめ、ハッカ等を一緒に入れて煮込むこともあったようです。

このころ、日本は平安時代で、最澄や空海、永忠によってお茶が唐から輸入されました。

日本では、平安時代以前からお茶を栽培したり、乾燥させて飲んでいたらしいのですが、確実な文献が見つかってはいないそうで、文献の中に初めてお茶が出てくるのは平安時代の「日本後紀」とのことです。

ただ、平安時代に、お茶文化が拡大したかというと、そうではなく、天皇など上流階級だけが中国文化として楽しんだり、儀式で使っていたようです。

外国の文化が日本に浸透するほどまでには、餅茶の魅力が無かったということですかね…?

もしかしたら、清少納言に「をかし」認定されて枕草子に書かれたかもしれないのに、惜しい事をしました。

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