村田沙耶香『コンビニ人間』感想
『コンビニ人間』の話に入る前に、少し前置きを。
JGバラードの怪作『クラッシュ』では、自動車や電車などに性的興奮する人間が描かれる。いわゆるフェティッシュというやつ。なにこのヘンタイ、大っ嫌い!なんて思うかもしれないけれど、そもそも人間は何にでも発情する生き物だ。異性を好むストレートが特別に健常なわけではなく、両親を見て育った結果、異性を好きになる人が比較的多いというだけ。つまり性的発情の対象は生まれもった性質ではなく、後天的に社会によって教育された性質だということ。歴史的にも、同性愛が普通の社会も多いでしょう?なので同性愛者をある種の病気だと思うのは大間違いで、ストレートだって立派な性的錯綜なわけです。
バラードが考えた機械フェチも突拍子のない話ではなく、テクノロジーが社会に浸透した現代では、機械も性的対象になるのではないか?というバラードが考えたありえなくはない話だ。ただし、この『クラッシュ』を読んでいると本当に気持ちが悪くなるのは確か。僕も読んでて何度も吐き気がしました…。
フェティッシュだけでなく、感覚では生まれもっての本能だと思っていたものが、実は社会によって規定されていたというケースはかなり多い。マルクスや構造主義を知っている人なら、社会のシステムがどれほど個人の在り方を変えているのか理解していると思う。
少し前置きが長くなってしまった。そろそろ本題に入りましょう。
村田沙耶香の『コンビニ人間』も同様、コンビニという環境(社会)が、普通の人よりちょっぴり多めに人格に浸透してしまった人のお話だ。コンビニと一体化したような主人公の思考はビョーキにしか見えないし、バラードの『クラッシュ』同様に超キモい。
なぜ彼女はそこまでコンビニが人格に浸透してしまったのか?それは彼女が元々変わり者で人間関係も極端に希薄だった為、普通の人よりも教育される余地が多かったからだと思う。そんな彼女にとって、コンビニでの人間関係、価値観が彼女が外界のすべてだった。そりゃ浸透しても仕方ない。結果、コンビニが彼女の人格に大きく結びつき、取り外せないレベルまでになってしまったのだ。コンビニ人間、爆誕である。
彼女の思考回路は、一般的な人から見ればキモいと思う。では自分はどうだろう?性的嗜好が生まれつきだと勘違いするほどに、人間は自分の人格がどれほど社会に規定されているのかに無自覚だ。教育によってインストールされた価値観や欲望を“自然”だと思い込み、自発的に行動しているつもりでいる。彼女がコンビニに教育されたのと同じように、僕らも社会に教育されているのではなかったか。彼女をキモいと思うのは、ただ自分と似たような価値観や欲望を持つ人が周囲に多いからマイノリティをキモいと思っているだけだ。フェティッシュだってそうでしょう?
こう言えば社会に人格に規定される事がまるで悪い事のように聞こえるかもしれないけれど、僕個人としてそれが人間だと思うので否定する気はさらさらない。むしろ、まるっきり社会に影響を受けていない人の方がよほどの異常に思える。コンビニ人間の彼女も、完全なコンビニ人間になった時の事を「初めて私が人間として誕生した瞬間」だと言っていた。社会で生きる人間にとって、社会が人格を形作る事は人間としての条件なのだ。
ただし、コンビニ人間や機械フェチみたいな、ズレすぎた人格形成を肯定するのはさすがにちょっぴり躊躇するかな。この辺りの善悪判断は微妙な問題だから、明言はできないところ。というか、こういった話に善悪の価値判断を入れる事自体が無意味だと思う。
という事なので善悪は一旦置いておくとして、この作品を読んでゾッとしたりキモがったりするって事は、程度の差こそあれ、コンビニ人間の感覚をどこか理解できてしまうからだと思う。だって僕らも十分に社会の影響を受けているわけだからね。普段は気付かない社会の浸透を否応なく感じてしまうという意味で、この小説はすごいし、考えさせられる。正直、バラードの『クラッシュ』よりも現代人には身近な感覚のはずだ。