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【本要約】浅田彰『構造と力』②
本編を始める前に、ふたつ言っておきたい事がある。まず、できるだけ専門用語は使わない。本書は専門用語のオンパレードなので、僕みたいな弱者が読むと「これ何の意味だっけ?」と行ったり来たりで全く進まないからだ。
もうひとつ。この要約では『構造と力』と同じ順序で説明しません。あくまで分かりやすくを最優先に、ひとつに統一した脈略に沿って説明しようと思う。『構造と力』では各章が独立していて、それぞれ単体で成立するように書かれてあるが、その為に度々内容が重複するきらいがあった。ただしそのおかげで各章の不明な部分が後に明かされるという、ちょっとしたミステリ要素がエンタメ的面白さになっているのも確か。しかしここで僕が本書に倣ってトリッキーな仕掛けをすると、たちまち大混乱になる事請け合いなので、そこは割り切ってばっさりいきます。
2、象徴秩序
「人間は過剰である」全てはここから始まった。現代思想において、人間と動物は明確に分けられる。その違いがこの「過剰さ」だ。
動物は何かに相対した時、その反応はある程度決まっている。天敵と遭遇→逃げる、眠たくなる→眠る、毒キノコ→食べない、みたいに。何かに対して、機能的な意味合いしか見出さないわけだ。しかし人間は個人によって反応が様々だ。眠くなっても働く人がいれば、食べすぎる人もいる。挙げ句の果てには自殺だってしてしまう。なぜか?
これは人間は何かに対して、機能以上の意味を勝手に汲み取ってしまうから。例えば毒キノコに対して、動物は自分にとって有害か無害か以上の意味を持たないのに対し、人間は「妖しい美しさ」とか「気味の悪さ」といった、機能以上の意味を汲みとってしまう。これが過剰さだ。
自然界の秩序は、その世界の存在各個が機能的に結びついた結果の集合だ。それぞれが機能としての振る舞いしかしないので、放置していても一方に偏ったりせずに、ある程度は安定している。一方人間は過剰なので、放ったらかしにしておくと何をやらかすのか分からない。人間のやらかしについては歴史を見ても、身の回りを見ても一目瞭然。だから自然界にない、人工的なルールを自ら課して秩序を保つ必要があった。人間って可哀想だね。
これで自然界の秩序と人間の秩序は、イコールでない事は理解できただろう。この人間の秩序の事を“象徴秩序”という。専門用語は出さない約束だったけど、象徴秩序は超重要な概念なので、これだけでも覚えておいてください。
この象徴秩序を明らかにしたのが構造主義だ。代表的なのはレヴィ=ストロースだけど、彼に限らず構造主義はその生成過程までは考えられなかった。生成過程が明らかになるきっかけを作ったのが後のジャック・ラカン。彼の精神分析が哲学に転用されて、はじめて象徴秩序の生成過程が分かってきたという哲学史の流れがある。なので時系列としては先にレヴィ=ストロースらの構造主義について説明するのがお決まりなんだけど、この要約ではラカンによって明らかになった、象徴秩序の生成過程に沿って説明しようと思う。多分こっちの方が分かりやすいからね。ではさっそく、古代中世から近代に至るまで、象徴秩序の変遷を順を追ってみていこう。
まず一対一の状態を想定してみる。下の図は動物の場合。さっきも説明した通り、機能的な相互関係したもたないのでスッキリしている。
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次の図は人間。人間は過剰なので、互いの認識にズレがある。機能以上の意味を汲みとってしまう人間は、それぞれが主体として振る舞おうとする。自分が主体になるならば、相手を脇役に貶めなければならない。
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なぜ主体として振る舞おうとするのか?これもラカンなんだけど、人間は自分の全体像を鏡を通してでしか見出せないから、らしい。
これは発育の遅れが原因ではないかと言われている。人間は視知覚だけが先に成熟してしまい、幼児は自己をひとまとまりの状態で見る事ができない。その結果、幼児は自己を「寸断された身体」と感じ、常にそのイメージに悩まされることになる。幼児が鏡を見て喜ぶのは、鏡の中に理想の全体像を見るからだとラカンは言う。これが大人になっても続くって言うんだから厄介ものだ。
さて、鏡というのは何も本当の鏡だけを指すわけではない。他者も同様だ。
人間の一対一の話に戻るけど、この場合は相手が鏡の役割になる。自分をひとまとまりに知覚できない人間は、相手に自分の全体像を見せてくれる、鏡の役割を強いてしまうのだ。その結果、闘争状態に突入してしまう。何だか殺伐としているね…。
じゃあもっと人数を増やして、社会を形成してみよう。
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一対一の闘争が全体に広がり、さらにカオスな状況になってしまった。各々が主体を我が物にしようと戦い、周りの人を脇役に貶めようとする。ここは俺かお前かバトルが全域で繰り広げられる戦場だ。一人を取り出して見てみよう。
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自分の全体像を捉えようとすると、相手に鏡の役割を強いることは先ほど話した。社会では周囲の全員が鏡になるわけだから、この図のように個人が複数の顔を持つ事になる。全員が同じ自分を見せてくれればいいんだけど、鏡に映る自分の姿は、それぞれで違ってくるからさあ大変。結果、複数の顔を持つ無頭の怪物が誕生してしまう。
この主体を奪い合う闘争の世界では、どのように象徴秩序を保っているのか。ここで登場するのがモースで、彼が見出した負債の運動によって象徴秩序はかろうじて保たれている。
この世界の住人たちは、互いに“贈り物”を交換し合っている。Aの人がBの人に何かを贈り、Bの人はCの人に何かを贈る。この伝言ゲームのようなプレゼントの連鎖運動、これが贈与の円環だ。こう聞いたら何だか優しくて平和な世界に感じるが、現代思想において贈与の概念はなかなか穏やかではない。贈与の本質、それは相手に負債を負わせ、主体を奪おうとする行為に他ならないからだ。
贈与の行為は”女性“に例えられる。なぜ女性なのか、それは後ほど言及するので、ひとまずそういうものだと了解してほしい。女性について、ニーチェはこのように語っている。
「女たちは従属する事によって圧倒的な利益を、のみならず支配権を得る方法を心得ている」
つまり贈与は与える事によって奪う行為なのだ。なにを?支配権、すなわち主体だ。ニーチェはこれを“贈与の一撃”と呼んだ。贈与の円環を回すという事は、主体の奪い合いを円滑に回し、象徴秩序を保つ手段なのである。
最後まで言及を避けてきたが、この”贈り物“は具体的に何を指すのだろう。食糧、道具、お手伝い、まあ何だっていいんだけど、中でもとりわけ重要だと言われているものがひとつある。そう、”女“の交換だ。これこそレヴィ=ストロースらが研究した、かの有名な”近親相姦の禁止“であるというのは言うまでもない。
(女性をモノのように言ってすみません)
さあ、ここまでが原始の社会だ。一見、贈与の円環によって象徴秩序は保たれたように見えるけど、あくまで”かろうじて“の域をでない。これが崩壊し、古代中世になるとどう変化していくのか?そのキッカケは、とりわけ穏やかならぬものだった。ちょっとだけネタバラシすると、
全員一致でただひとりを犯し殺すこと
これである。