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グレゴリー・ケズナジャット『単語帳』を読んで言葉について悶々と考える
東京・神楽坂の居酒屋で僕が出会ったのは、同じ母語で、さらに同じ方言を話すマルコムだった。傷心旅行中だという翻訳者のマルコムは、彼の要望から日本語で僕と会話する。現在は仕事もプライベートもほとんど英語の僕と、モフモフの翻訳につまずいたことをきっかけに言語と自分の関係に違和を覚えるようになったマルコム。分厚い単語帳を持ち歩き、旅行する目的とは? 第二言語の習得と個をめぐる短編小説。
※ちょいネタバレあり。
母国語の英語に縛られていると感じたマルコムは、第二言語の日本語を使うことで解放される。どういうことか。
たとえばマルコムが幼児期に覚えた”アップル”という単語。
アップルの意味はりんごだけでない。マルコムが母国アメリカで両親と食べたアップルの記憶。聖書に出てくるアップル。はたまた落ち込んでいる時に食べたアップルの記憶など、アップルという単語には、マルコムがアメリカで経験してきた全てのアップルと結びついている。彼はそれを言葉に縛られていると感じていた。
第二言語である日本語を覚えた時、マルコムははじめて言葉から解放されたような気持ちになる。日本語の”りんご”と彼の経験はどれも結びつかず、純粋な”りんご”としての意味しか持たなかったからだ。
ところがどっこい、日本に住み、日本語での生活が続くと今度は日本語からも縛られるようになる。うん、当然だね。
しかもマルコムが日本語を覚えた時期は、彼の人生においてとても辛い時期だった。たしか彼女と別れたとかなんだとか、そんな感じだったと思う。
マルコムが川という言葉を使った時、川を覚えた時の辛い記憶が否応なく想起される。仕事が辛い時にみた川や、別れた彼女とみた川。川という言葉を、ただ純粋な川を指す言葉として使うことはできなくなってしまった。
そこでマルコムが考えた解決方法は「言葉の意味を上書きする」
彼は日本語を覚えた時に使っていた分厚い単語帳を片手に、傷心旅行にでかける。
美しい川を目にして「川、川、川……」と呟き、一度おぼえた意味を新しい印象に上書きしようというわけ。はたして、マルコムの言葉上書き大作戦は成功するのか……?
という話なんだけど、言語学を少しかじっている人ならこの話に違和感を覚えるはず。
言葉ってそういうものじゃないよね?
言語学では言葉と記号は明確に分けられる。
記号は標識のように意味と直接つながっている。『一時停止』の標識が表現しているのはもちろん『一時停止』。それ以上でも以下でもない。一方、言葉はどうだろう?
たとえば「咳をしても一人」
この「一人」が表現している意味は、単純に人間の人数だろうか?
もちろん違う。
「一人で咳をした」
「選ばれた一人」
「おれ一人だけ弁当」
まあなんでもいいんだけど、とにかく「一人」が表現できる意味(ニュアンス)は多岐にわたるということ。
つまり言葉は記号と違って、意味と直接つながっているわけではない。言葉が表現しているのは“存在”で、そこには様々な意味を持たせられる。
言葉はただ存在だけを指し示している。意味は言葉を使用した瞬間に生成されるのであって、はじめから固定されてあるものではない。つまりマルコムが言葉と繋がった過去(意味)に囚われているというのは言語学的にはおかしく、上書きもなにも、そもそも言葉に意味は乗っかっていない。マルコムは言葉を記号として解釈しているらしいね。
と言ったら『単語帳』批判に聞こえるかもしれないけれど、僕が書きたいのはここからです。
ポッドキャスト番組『それって哲学?ラジオ』、通称『それ哲ラジオ』でのジャック・デリタ回。そこで話題に上がっていたのは「言葉は脱構築可能か?」という話。(この番組、やたら難しいけど超面白いからおすすめ)
脱構築がなんであるのかは面倒臭いのでさておき、デリタが言っていることをざっとまとめると、
「話し言葉(パロール)と書き言葉(エクリチュール)のどちらが優れているのか?という議論には意味がない。なぜなら言葉には再現性がある。たとえば「私は生きている」と生きている人が言った場合、もちろん意味はわかる。しかし本人が死んでいたとしても「私は生きている」の意味はわかる。つまり言葉は再現可能なもので、会話での言葉であろうが、書かれた言葉であろうが、そこに優劣はない」
何言ってるんですかね。まあ、まとめた僕が意味わからんと思ってるからあしからず。要するに言葉は脱構築可能ってことらしい。へえ〜〜。
何が言いたかったのかというと、さっき僕が言ったことと同じ。意味は言葉を使用した瞬間に生成されるものなので、どこでどんな形で使われようが、意味を規定することはできない。だから話し言葉と書き言葉を比べるのは無意味っていうわけ。
しかし、そこで『それ哲ラジオ』のパーソナリティが言ったのは、
「デリタの主張はわかるけど、東洋哲学ではこの論は通用しないんじゃないかな? だって仏教の禅問答では、本人が生きている状態ではないと「私は生きているとは言えない」と答えるはずだから」
え? なになに? これは興味深いな。
デリタが活躍した舞台は西洋哲学。もちろん彼の研究対象も西洋的な言語理論だ。一方、東洋哲学での言葉の概念はちょっと違う。
東洋ではなぜ本人が生きている状態でないと「私は生きている」が文として成立しないのだろう。
※以下、個人的解釈になります。
東洋の場合、言葉は世界や身体感覚と繋がっているから、切り離すことはできない。なので死んだ人間の「私は生きている」は成立しない。インドのある民族では言葉が現実化するという信仰があったり、日本の言霊の概念もそう。東洋の場合、言葉は存在だけでなく感覚や物語と直接繋がっているので、安易には使えないというわけ。
漠然とした表現しかできないけれど、言葉は自分の外にあるもので、使うには言葉に付随する物語も引き受けなくてはならない、という感じなのかなあ。たぶんね。だから東洋の言葉は、西洋と比べて記号的な側面が強いと言える。
実際、漢字は象形文字の一種で、山の形や川の形から成り立っている。ソシュールの言語理論では「言葉の音や形は意味と関係しない」という、恣意性っていう言葉の条件みないものがあるけれど、こと象形文字には当てはまらない。漢字は直接意味を表現しているから、アルファベットと比べるとかなり記号に近いというわけだね。だからあんなに沢山あるのかな。
はい、『単語帳』の話にもどります。
マルコムの陥った言葉に縛られるという感覚。これはかなり東洋的だ。彼が日本に渡って日本的な生活に慣れたことで、思考も日本的(東洋的)になったのかもしれない。そう解釈すると納得だね。
言葉には魂が宿るというか、言葉を放つには責任が伴うというか、そういった言葉に込められた物語を重視するのが東洋人なのかも。だから感覚に背いた言葉は言えないんだな。縛られてるねえ。
僕も東洋人だから、言ってはならない言葉は安易に使わないようにしよう。責任が伴うからね。
……ちんこちんこレボリューション