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闘う女でありたい/『風よ あらしよ』

『風よ あらしよ』を読みました。

女性活動家、伊藤野枝の生涯を綴った小説で、基本的に野枝の視点から描かれていますが、時折語り手が周囲の人々に移ります。

家族やパートナー、
『青鞜』の面々、
同志や友人、
最終的に野枝を粛清した憲兵も
次々と、心の内を語ります。

こういう形式の小説、好き。

別の視点から同じ事柄を見つめると全く異なる話に結実するという発見と、この多種多様な人々の独白を1人の作家が描いているというある種の戦慄を覚えるからです。

物事の、ほんの一端を見ただけで安易に善悪を断定してしまいがちな愚かなわたしたちに、この100分の1でも想像力が備わっていれば…と夢想してしまいます。

しかし、野枝の生涯は凄まじい。

文庫本は上下巻で全800頁強という長編ですが
ひと息つくような安穏が、いっときも訪れないのです。

『風よ あらしよ』という題名に違わず
彼女自身が烈風、いや暴風のような人なので
共感も同調も、簡単には出来かねる…

けれどもわたしは
この小説で描かれる野枝が、好きです。

何故なら、闘っているから。

明治・大正の時代に庶民出の女として生きる限り、決死の覚悟で自ら行動を起こさない限り、否、起こしても、自分の思う通りになることなんてほとんど無い。
世間がついぞ見たことの無い、従属しない女に対して烈しい逆風が吹きすさぶ中、それでも流れに身を任せたり諦めたりすることなく、なにくそ、とあくまで歯向かう姿勢を見せ続ける。

かっこいい、と思うのです。

一方のわたしは
しがない事務員で
逃げられることからは逃げ
やさしい夫に甘えくさり
子どももいないから
守るべき者もおらず
好きな言葉は「平穏無事」。

自発的に抗議の声を上げたり一致団結して革命を起こしたりするタイプでは全然ないので、一見したところ野枝とは真逆、のように思えます。

けれどもその実、わたしは弱きを助け強きを挫く熱い心を秘めていて、時折密かにその精神を発揮しています。

闘う人を、何もしないで嘲笑う奴が、一番嫌い。
それはきっと、わたしと野枝との共通点でしょう。

残念なのは、野枝に最後まで同性の盟友がいなかったこと。
『青鞜』の面々とはいっとき友人関係を結ぶも、彼女の奔放な生活を受け入れられずに去ってしまい、心からの理解者はついぞ現れなかったこと。

今の時代なら、強固なシスターフッドを築ける相手が見つかるだろうに。
当時とは異なる種類の烈しい逆風もまた、襲ってくるだろうけれど。

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