置かれた場所で咲けたらいいけど
誰かの言葉にとやかく言うなら
せめて一回は相手の主張に耳を傾けるべきだ、
という持論があります。
一方、たまにヤホーのコメント欄を覗くと、こういったコメントが散見されます。
たった数千字の記事に目を通すだけの労力すら割く気が無いのなら、そもそも反論する資格、ないんじゃないの。
相手の言い分をすべて聞かずに言葉尻だけ捕らえて攻撃するのは、フェアじゃないんじゃないの。
と、思うのです。
そして、該当するすべてのコメントにそう返信したいという衝動に駆られる
…
けれども、そこまで明白に無駄な行いをしている暇はないので、ため息と共にそっと閉じます。
やっぱり、ヤフコメなんて見るもんじゃない。
***
『置かれた場所で咲きなさい』
って、割と独り歩きしがちな言葉ですよね。
ミッション系大学の学長・理事長を勤められた方が書かれた本のタイトルで注目を集めた、アメリカの牧師さんの詞の一節です。
日本には古くから御恩と奉公精神がありますし、武士の切腹や戦時中の特攻を「昔のこと」と片付けられないほど過労死が多く(だから英語でも「karoshi」と言うらしい)お上の言うことに従い続けて命まで差し出してしまいがちな国民性ゆえに、響くものがあるのだと思います。
置かれた場所が地獄だったらどうするんだ!とか
茹でガエル現象を助長している!とか
危険を感じたら躊躇せずに動くべきだ!とか
怒っている人をよく、お見掛けするのです。
(ドラマ「いちばんすきな花」でも、「できれば最初から咲ける場所に置いてあげてほしい」とのセリフがありました。)
確かに、仰る通りです。
でも、実際にこの本を読むと、「置かれた場所で咲」くというのは、何が何でも動かずに気合ですべてを飲み込め、我慢しろ、と言っているわけではないことに気付きます。
例えば、急な異動や昇進を言い渡されたとき。
深く考えることなく「最悪だ、左遷だ、やってらんねえ」と不貞腐れたり、「わたしにはそんな大役向いてない」などとすぐ断ってしまう前に、まずは落ち着いてよく考えてみたらいい、そうしたら自分なりに輝ける方法が見つかるかもしれませんよ、という内容なのです。
それはそれで、仰る通りです。
タイトルや、書き出しだけを読んで脊髄反射的に「それは違う」と反論する人たちには抵抗がある。
でも。
と、わたしは本を読み終え、閉じたところで本音を炸裂させました。
「そりゃあ、あなたはたまたま周囲の人間に恵まれたからいいですよね」
「セクハラ・パワハラのオンパレード上司とかいなかったでしょ」
「下界には、周りにバレないようにしつつ、攻撃なのか無邪気さの表れなのかギリギリのラインを狙って攻めてくる、地団駄踏みたくなるくらい嫌な奴もいるんですよ」
置かれた場所で頑張れば咲ける人はいいけど、やっぱり無理だと思ったら移動しようよ。
人間だし
令和だし。
わたしは全文読んだ上で、結局のところそう思いました。