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面倒くさい奴と言う勿れ
「ミステリと言う勿れ」というお話があります。
ポアロやコロンボや古畑やジェシカおばさんなどが好きで、且つ物事の真髄について考え込む癖のあるわたしには、もってこいの作品です。
夫が原作マンガをダウンロードしてくれたら読むし、ドラマのテレビ放送があれば録画して観るくらい、好きです(基本受け身)。
先日もテレビで映画版が放送されていたので、観ました。
お正月って、ちょっと見たいなと思っていたドラマの一挙放送とか、M-1で面白いなと思った芸人さんの他のネタとか、地上波初放送の映画とかを流してくれるから嬉しい(基本受け身)。
ところで、「ミステリと言う勿れ」の主人公である、整(ととのう)くんという、一般人なのにやたら事件に巻き込まれる男子大学生は、しばしば「面倒くさい奴」と評されます。
たとえば、自分の汚れ物を人に洗濯されたり、人の家で、あるいは人と一緒にお風呂に入ったりするのが嫌、という具合に郷に入りても郷に従わない態度を示すと、大抵こう言われるのです。
「なんか…面倒くさいね」
わたしもまた、世間では正しいとされていることに対して「本当にそうだろうか」と自分の内面を見つめ始めたりするタイプなので、多数派意見への波乗りが得意なタイプの人たちから散々、同じ評価を受けてきました。
「なんか…面倒くさいね」
でも、本当にそうでしょうか。
いわゆる「面倒くさい奴」を
「面倒くさい」と言って郷に従せようとする人も
また「面倒くさい奴」なのではないか。
なぜ、多数派のあなたは人を面倒くさい/面倒くさくないと評価「する」側で、少数派の我々は評価「される」側なのでしょう、と思うのです。
…
わたしは前々から、多様性を「認める」という表現が好きではありませんでした。
だって、多様性というのは既にそこに「ある」もので、誰かに「認めてもらう」ものではないと思うから。
なぜ、多数派のあなたは「認めてあげる」側で、少数派の我々は「認められる」側なのか、と思うからです。
同じですね。
映画版「ミステリと言う勿れ」での「女の幸せ」についての整くんの意見が話題になったようですが、これ、整くんを若い男性にした原作者の設定の妙だなと改めて、唸りました。
女性が自ら「女の幸せを勝手に決めるな」と怒るより、若い男性が外野から疑問を呈する形の方が、より広範囲の人々に響くでしょうから。
人を「面倒くさい」と評する前に、自分の面倒くささについても思いを馳せる。
お互い面倒くさくて人生大変だねと笑い合う。
わたしは、そんな風に人と関わっていきたいなと思うのです。