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無視という名の気遣い
東京の人は冷たい、と言われます。
上京して道端で困っていたとき
誰も話し掛けてくれなかった。
立ち止まってもくれなかった。
無視された。素通りされた。
しばしば、そのような発言を耳にします。
例えば電車の乗り換えの際、あの人は困っている…のかな?という微妙な感じを醸している人のことを、見ないようにして通り過ぎる人は、東京においてとても多い。確かに多い。
でもだからと言って、素通りした人のことを冷血人間だとか、忙しすぎて人のことに構っている暇がないとか、関わり合いになりたくないんでしょなどと決めつけるのは、早計だと思うのです。
だってそれ…
気遣いとしての「無視」かもよ?
***
わたしはいつも「目立ちたくない」という願望を胸に、日々を送っています。通勤途中でちょっと具合悪くなったときなんかも、ひっそりと1人で休みたい。構わないでほしい。
そういう人間に、東京というのは便利な街です。
こちらがその辺のベンチや植え込みの端っこでしばし項垂れていても、皆さんわたしの願い通り、どんどん通り過ぎて行ってくれますから。
丸の内や銀座や渋谷のメインストリートを歩くと、自分が透明人間になったのではないかしらと錯覚することがありますが、注目されることを厭う者としてはその感じが、とても心地いいのです。
街角で初めての最新機器に接したとき、これは…どのように操作すべきものであろうか、と立ち止まり、傍にある看板に目を通しているときなどもわたしは内心「お願いだから話し掛けないでくれ」と祈っています。
積極的な気遣いこそ正義と信じる人は、「お困りですか?」「この機械は…」などと説明を始めてしまったりしますが、わたしとしては有難迷惑というか、たぶん読めば分かると思うから、こちらが「どなたか案内の方は」という雰囲気を出すまでは放っておいてほしいなと思うのです。
東京は色んな場所から人が集まってくる街。
比較的、自分と違う他者に大らかな街です。
奇抜な服装や髪型をしている人がいても「そういう人もいるよね」と割合みんな、素通りします。
そこには「構ってほしい人もいるだろうけど、放っておいてほしい人もいるだろう」という前提があるように思うのです。
だから、困っている「かも?」くらいの感じだったら、そっとしておいた方がいいかなと判断し、敢えて話し掛けず、立ち止まらず、ジロジロ見ないようにしている人も多いのではないか。
それは無視という形の「気遣い」なのではないか。
愛情という名の支配があるように
歓迎を模した拒絶があるように
無視に見える気遣いは、確かにあります。
無論、全部が全部そうではないし、単純に面倒だから足早に通り過ぎる人もあるでしょう。
うっかり優しさ出したら、キャッチとか勧誘に捕まる確率も高いしね。
でも、東京人だからってみんなが冷たいわけじゃないよ。
それを証拠に、眩暈を起こして倒れこんじゃった人とか血を流している人とか、確実に助けるべき人がいたら、寄り集まって話し掛けたり救急車を呼んだりということを、ちゃんとみんなするんだよということを、わたしは声を大にして言いたいのです。