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人生は長いおままごと、なのかも/村田沙耶香『ハコブネ』

わたしは基本的に「ただのわたし」として生きています。

でもときどき、わたしこれ、この感じで合ってるのかな、この方向性で大丈夫かな、と揺らぐことがあります。
何かしらの、役割としての存在を求められるときです。

例えば…

両親の娘として
近所のおばさんとして
取引先の事務員として
隣家の嫁として
友人の妻として
先輩社員として

儀式系は、特に顕著ですよね。
結婚式やお葬式、お祭りだとか卒業式なんかも、悲喜こもごもの「それっぽさ」が必要になります。

お父さんお母さん、今までありがとう!とか
卒業してもずっとずっと友だちだよ!とか

そういうとき、わたしはどう振る舞うのが自然なのかがよく分からないので、何となくの感じを演じています。
周りの様子も注意深く観察して、自分が変に目立ってしまっていないか、浮いていないか慎重に見定めます。

でも世の中には、わざわざ意識せずとも娘や嫁やおばさんや、その他諸々の感じを当然の如く堂々と振る舞える人がいますよね。

そしてその感じをうまく踏襲できずに
ウロウロしている他人を捕まえては
「あんたには人の情ってものがないのか」とか
「冷たい人間だよまったく」とか
非難するわけです。

冷たいとか温かいとかではなく、どう接するのが正解なのか探っている段階なのかもしれないのに、よくそうやって自分のタイミングと価値観で、自信を持って人を断罪することが出来るなと、感心してしまいます。

村田沙耶香著『ハコブネ』を読み始めています。

2人の語り手からの目線で、物語が交互に展開する仕組みです。
1人目の語り手は、性別違和を持つ若い女性(生物学上)だったので、2人目もそれに近い悩みを抱えている人なのか、それとも全く別の切り口なのか…と思っていたら、2人目は自分を「星の欠片」で「肉体である以前に物質」と認識している人でした。

次元が違う。

「別の切り口」なんていう、やわな違いではない。
さすが村田沙耶香…

わたしは地球と一体になっている感覚はないし、他者の中の水分が巡り巡って自分の上に降りてくる、みたいなことを考えるとちょっとオエッとなる感覚の持ち主ではあるけれども、基本姿勢が「ただのわたし」である感じが、2人目の語り手と共通するな、と思います。

わたしとしては別にどうでもいいし好きにしたらいいんじゃないと思うけれども、先輩社員としてはここは一声掛けるべきであろうか、と思って行動を起こすとき、わたしは絶賛「先輩社員」を演じ中です。
でもそれが終わったら「ただのわたし」に戻る。

子ども時代に度々行ったおままごとと同じ。
その時々でお母さんや赤ちゃんや、兄や妹や犬や、それぞれの役割を演じて「やーめた」となったら自分に戻る。

自信を持って人を断罪出来る人は「おままごと」から退出することなく、求められる役割に躊躇なく没入できる人。

そういう人生って、どんな感じなんだろう
と思います。

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