子ども、かわいくない考
年若く未熟である、つまり子どもであるという一点だけで「かわいい」とは言い切れないと感じてきました。
だって、どう考えても個体差がある。
かわいいのもいるけど
かわいくないのもいる。
(そして、かわいくない方が多いという印象)
そのことでコンプレックスも味わってきました。
子どもをかわいいと思えないなんて
要は自分がお子ちゃまなんだよ
大人になりきれないってことでしょ
いい歳してるくせに
…確かにそうです。
庇護者になる素質も覚悟も、わたしには無い。
一方で、わたしは子どもも大人も自分もひっくるめて「人間」と捉えているフシがあり、その間にあるらしい境界線を、はっきりとは引いていないことに思い至ります。
今日は、そんなお話です。
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ときどき、幼い子どもが主張するロマンやプライドを笑い、吐き捨て、軽視する人に遭遇すると、不思議な気持ちになります。
なぜ?
相手が子どもだというだけで、その真剣な思いを軽んじ「そんなことで」と一笑に付すことに、抵抗を感じないのだろうか。
なぜ、自分にはその権利があると信じて疑わないのだろうか。
…と考えたとき、そうか、この人は大人である自分と、年端のいかない子どもとを、分け隔てて捉えているのだなと感じたのです。
大人の尊厳は重要視すべきものだけれど、子どものそれは一過性の、取るに足らない些末なものだと捨ててしまえること。
それは即ち、大人に「なりきった」ことで当事者性を失った、ということなのかもしれません。
わたしはどうやら、子どもとか大人とか、上とか下とかの感覚が鈍いようです。
わたしはわたしという人間だと認識しているので、例えば人妻とか熟女などとカテゴライズされることを好みませんし、それを理由に愛でられても褒められても、まったく嬉しくありません。
若かった頃も、若者と表現されることに違和感を覚えました。わたしは、若い女の子じゃなくて、わたしなのにと。
また、わたしは夫のことを滅法いとしく思っており、彼の一挙手一投足に目を細めていますが、それはただ夫という一個人に限ったことであって、40代男性をみんなかわいいと思っているわけではありません。
(そして、かわいくない方が多いという印象)
「子どもならみんなかわいい」というのは、この辺りの理屈に近いように思います。
相手の年齢に関わらず、わたしは人間として、一対一で向き合いたい。
かわいいと感じるか否かは、その後の話です。
…
ただ、「子どもはみんなかわいい」論者が間違っているとは思いません。
そう思う人の多い社会の方が、子どもたちにとっては安心。
わたしみたいなのは、少数派でよいのです。
その感覚は、想像することしかできませんがたぶん、グリーンイグアナならみんなかわいい、と感じるわたしの気持ちと相似関係にあるのでしょう。
でもそれはその人の主観というか個人的趣味の範疇であって、他者に押し付けるのはやっぱり、どうかしてると言えるだろうなと思うのです。