うすもや罪悪感の中を、歩いていく。
たとえば、様々な能力が人より劣ること
たとえば、子どもを欲しいと思えないこと
たとえば、薄情で怠け者であること
言わなきゃよかった一言を思い出して
伝えればよかったあれこれを思い浮かべて
あれは余計だったかな
もう一歩踏み込めばよかったかな
電車の乗り換えをしながら
あるいは家に帰る道すがら
わたしはいつも、うっすらとした罪悪感の中を歩いているような気がします。
その靄は、例えば子どものときに火事の体験の為に乗ったあの車の中よりは薄いけれど、でもすっきりと晴れた山の上のように見通しがよくなることもありません。
いつだって。
楽しいときも、嬉しいときも。
うすもや罪悪感。
なんでこうなのだろう、と思います。
驚くほどあっけらかんと正直な人とか、眩しいほどの天真爛漫さをごく自然に身に纏った人とかと接すると、この人たちは確かにわたしと同じ時代を生きているけれども、たぶんわたしとは見えている世界が違うのだろうな、と思います。
きっと彼らもそれぞれに抱えているものがあるだろうし、完全に翳りのない人なんていない、とは思えども、たぶん常にうすもやの中を歩いているわけではないだろうな。
この世界は信用に足る、と思えているのだろうな。
自分は尊重されるべき人間であることを疑っていないのだろうな。
人の良心をそのままの形で受け取れるのだろうな。
それは、確かな世界だろうな。
…
でも、わたしは常にこのうすもやに包まれているからこそ、今のわたしになったのかもしれないな、とも思うのです。
苦しみを感じている人の痛みを、ときに本人よりも早く察知することができるし、楽しそうに笑っている人が心の中に重い哀しみを抱えているかもしれないことを想像できる。
大きくて強い声に引っ張られそうになったとき、本当にそうだろうかと立ち止まることができる。考え続けることができる。
わたしはたぶん、これからもこの完全には取っ払えないうすもや罪悪感に包まれながら、この世の中を慎重に、ゆっくりと歩いていくのだと思います。