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私の水滴は石を穿てるほど強固ではなさそうだ~駆け込み三番街~

継続は力なり。
塵も積もれば山となる。

どんな小さなことでも根気よく続けていれば大きな成果が得られる、といった慣用句はいくつもあるが、そんな中で私が最もイメージしやすいものとして、『水滴石を穿つ』という言葉である。
軒先からぽたぽた落ちる雨のしずくのような小さなしずくでも、長い間ずっと同じところに落ち続けると、硬い石に穴をあけてしまうことがある、という昔ながらのたとえが語源となっている、まあ簡単に言えば継続は力になるということだ。

こんなことを書いているからには、私自身の中にも誇れるような水滴があるのだろうという話になるが、ああ、困ったものだ、水滴のすの字も浮かんでこないではないか。
これまでの人生、まだ20数年ではあるが、これといった大きな壁にぶち当たることなく、周りの人間と運と、そして正常な人間でいたいという理性が歯車のように絡み合い、今日の今までを過ごしてきた。
私の水滴を鑑みて皆さんの教訓にでもしてくれや、などといった大層なことが言えるはずもなく、ましてや肩書も何もない状態でなぜこんなことをつらつらと書いているかということだが、今私は一つの壁を目の当たりにしている。

そう、私からは目に見える水滴がなかなか落ちてこないということである。
別に自信を卑下しているわけではない。出てきた言葉は喉の奥に秘めて花粉症の飲み薬とでも一緒に流し込んでくれればいい。
『水滴石を穿つ』を例にあげると(既にあげているが)、落ちてくる水滴が溜まっている水のたまりのようなものが石より少し上にあるはずだ。もしくは小さな川のようなものでもあり得る。
今大人になった私と同世代の方々は、これまで成し遂げてきた経験やそれに紐づく努力でたまりには水が溜まっていることだろう。
その水の垂らし方も、そしてその水を使ってどうやって石を穿つかも、あなた方は大方理解している。
コツコツとキャリアを形成していく人間、自分が本当にやりたいことを具現化し、それを生業にしている人間、石の穿ち方はそれぞれであれど、彼らの石は確実に、そして正確に彼らが思い描く形に削られている。
私の周りにはこういった人間がありふれている。
そこで私だ。
これまで毎日優雅なティータームで一日一日を過ごしてきたのかというほどに、水滴を落とせるたまりもなければ、たまりがないからに水滴の落とし方も赤子の如くままなっていない。
今の私は、自身のキャリアを形成すべくいくつかの課題(ここでは石だな)にぶち当たっているのだが、それらをどう穿てばいいのか、そしてそれらを穿つための水滴のもととなる水をどうやって溜めればいいのか、優雅にモーニングトーストを口に運びながら考えているわけだ。
アホだな、見事に阿呆だな。
人に聞かれれば自分なりに努力はしていると答えるのだろうが、そもその自分なりとかそんな汎用的かつ保守的な言葉で片づけている時点で阿呆なのだから、本来は寝る間も削って、身を粉にして向き合い、そこで初めて努力と言われるところを、私は好いてやまない睡眠と、そして優雅なモーニングトーストを優先してしまうのだから、こちとら困ったものなのだよ。

長々と阿呆だの困っただの半ば自身に対しての愚痴を公に広めながらも、書きたかったこととしては、自分の人生なのだから、人と比較することなく、自分がやりたい時にやりたいことをやればいいのだと、そう阿呆な筆者は問いたいのだろう。
なぜ結びが雑になったかって?
モーニングトーストなんぞ口に運んでいる場合ではなく、やるべきことをやれとモーニングトーストが私に語り掛けてきたからだよ。
うるさいと一度は皿に戻してみたものの、そうか、君はその程度で物事をないがしろにするのだね、とあたかも私のことを知ったような口調でののしり始めるものだから、そう来るのなら私も黙ってないよと、徐にこの文章に終わりを告げてやったわけだ。

たまにはトーストの言うことにも耳を傾けてやってもいいかなと、阿呆なりにも傾聴してみたのだ。

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