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【最終話考察】「デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション」 意外と気付かれていない18話の解釈とは?

アニメ版の考察です。
最終話18話ラストあたりの屋上のシーンで
"空から聞こえる門出とおんたんの声"
これは一体何なのか?を考察します。
ヒューマンドラマとしての面白さは他の皆様にお任せしておいて、SFの観点で切り込みます。

壮大なSFたる仕掛けがここにある!ご都合主義なんて言わせない!といった肯定的な内容になります。答えのみ知りたければ目次の2.からどうぞ。


1.ご都合主義と呼ばれがちなマルチバース"モノ"

まず話の大枠をまとめます。
門出が自殺→おんたんやり直し
世界崩壊→門出、おんたん死亡→門出父やり直し
侵略なし→門出、おんたん成長→やり直さない?

極端に単純化するとこのような流れです。
(ここに生まれる葛藤にこそ、視聴者を惹きつけるのですがそこは今回はあえて触れません)

「もしも、あの時…」と誰もが考えた事のある人生リセット物語です。時間を遡るので、タイムリープ"モノ"とも呼べると思います。
もう少し細かく分類すると、その中ではマルチバース"モノ"になります。

バックトゥザフューチャー1は世界線は一つであるため、主人公のマーティーは存在が消えちゃいそうになるわけです。
ゆえにマルチバースでは無い方です。

また私の好きな映画で言うとターミネーターシリーズはマルチバースとして当てはまりそうですね。ターミネーターは利権や監督が入れ替わるたびに前作までを無かったことにする点が、メタ視点的にもマルチバースです笑。

つまり、マルチバースは誰かの主観が世界の全てであり、ご都合主義と批判されがちです。
"誰かの主観"というのが、主人公であったり、作者、監督だったりするわけです。

その様な中、如何に受け取り側にご都合主義と感じなくさせるか?のテクニック競争を繰り返している現状があると思います。
"夢オチはダメ"とよく言われますが、大きく捉えて夢オチもマルチバースモノに含まれるでしょう。主観で見れば夢も現実も区別がつけられないのですから。

そんなご都合主義の部分はある程度目を瞑るのがマナーとして受け入れた上で物語を楽しむわけですが、読者や視聴者の目はどんどん肥えていきます。
あの手この手で奇を衒ってみたり、理屈を捏ね回すのが2024年現在のタイムリープ"モノ"しかりマルチバース"モノ"の現状だと思います。
マーベル作品を筆頭に続くマルチバースの展開手法はまだまだ衰える事をしりません。

ですがこのデッドデッドデーモンズデデデデデストラクションは、それらと一線を画す美しい構造を持っている事を解説します。

2.OPの"SHINSEKAIより"がアンサーに


今回のデッドデッドデーモンズデデデデデストラクションはマルチバース特有のややこしさや理屈は一旦置いておいて、メッセージ性やキャラ作りに専念した作品だと思います。なのでSF要素はおまけとしてみても面白い。
しかし、18話で世界が一変しハードSFとも捉えられます。

18話は何だか浮いてますよね。
漫画にあり映画版にはない展開だそうです。
強引なハッピーエンド?と一見非難される方もいるようです。
逆に好意的に取れば、頑張った門出とおんたんへのご褒美的な後日談。
実はそのどちらでもない、もう一段、二段と深層に入れるSF要素がつまっているのです。

18話でやっと到達した様に見えた平和な世界の中、ビルの屋上で門出とおんたんが戯れていた時に聞こえた、自分自身の声。

おんたんと門出の声の主は誰なのでしょう?
そしてどこから聞こえたのでしょう?


これこそが完璧なシフターが辿り着いた世界から発せられたものになります。
門出の父がシフトマシンに乗る前に、"いずれもっと完璧なものができる"というセリフがあり、伏線が張られていました。
その完成したシフトマシンで門出やおんたんはどこにシフトしたかと言うと、マルチバースの更に上位次元のSHINSEKAIです

無限にあるマルチバースを俯瞰する位置にあるSHINSEKAI。どの世界線にも属す事なく、全ての世界線を見ることができる神様の様な視点とイメージすれば良いと思います。

父がシフトマシンに入った際、一時的に迷い込んだと真っ白な彫刻の世界は、おそらくSHINSEKAIの入り口に近いのでは?
また、門出とおんたんに導かれた並行世界だとも解釈できます。"ここに行って!"と言わんばかりに地球に指差してましたし🫵

また何より、アニメの主題歌のタイトルは「SHINSEKAIより」です。原作者である浅野いにお先生による作詞作曲。
歌詞を追うとSHINSEKAIがどう言うものかが想像できます。
曲名の通りに門出とおんたんは、全ての世界線を俯瞰できるSHINSEKAIより、二人の平和な日常を選んで眺めているのです。

つまりはこの18話で描かれる一見平和な世界線は、アニメで描かれたおうらんと父のたった2回のシフトで"偶然"たどり着いた場所ではなく、無限の並行世界の中から"必然的"に選ばれた2人の"絶対"理想の世界を見ているのです。

そもそも、たった2回のリセットで、理想の世界にたどり着いてしまっていたら、それこそご都合主義ですよね。人間の業をとことん追求していくスタイルの浅野いにお先生が、SFだからってそんなご都合主義を許すとは思えません。


3.僕らは門出やおんたんと18話を見る



もう一層解釈を深めていきます。メタ構造としても見ていきたいと思います。つまり、神様の視点であるSHINSEKAIとは、我々アニメの視聴者の世界とも捉えてみるのです。

自分で好きな小説や映画に入り込んでは、自分の好きな様に物語を解釈することこそ、SHINSEKAIのアナロジーと捉えられるのではないでしょうか?ある意味で僕らも物語上でのシフターになっているのです。

そして、当たり前ですが、誰もがどんな物語でも自由に作ることもできるのです。その物語とは無限の並行世界の一つであり、心の中に住み着いた門出とおんたんの行く末を自由に描くことだってできます。
あなたならどんな世界線を選ぶでしょうか?

奇想天外なんでもありな世界線が無限にある中、門出とおんたんの二人が選んだのは、いそべやんで永遠と描かれるような何の変哲もない日常でした。
いそべやんという、読者から見たら非日常的な存在が居たとしても、いそべやんの漫画の中では、何の変哲もない日常が繰り返されるのです

…いやいや、そもそもSHINSEKAIで"生きる"ってどういうこと?と思うかもしれません。

それは100年前の人類には想像もできない感覚でしょうが、エンタメに溢れかえった現代、自分の身体を離れ、自分自身がエンタメに溶けてしまう感覚は少しは理解できてしまうと思います。
もう、このアニメやこの小説の世界に浸っているだけでいいや!と願う瞬間があったり。
ただ願ってたはずが、ふと本気で信じ込んでいる瞬間があったり。

このままSNSやバーチャル空間のテクノロジーが発達して、もしも、自分の好きな人生を客観的に選んで行く世界が実現したらそこで生きたいですか?
自分の人生をまるで長編映画の様に、観客として眺めるのです。

それとも、そんな世界がやってきても、これまで通り自分の一つだけの人生を主観的に生きたいですか?

というSF的提案です。

4.まとめ:非日常の中で、選ばれる日常


まとめです。最後に全部の悲劇がリセットされる、一見ご都合主義のハッピーエンドと捉えられそうですが、それはこのアニメの表面を見ただけです。
そもそも表面的なマルチバースだと受け取れば、自分たちさえ良ければ良い世界に移っただけで、残酷な世界線が消えたわけではないと言うモヤモヤも残ってしまいます。

最終話である18話の日常は、"都合よく"普通の日常が送れている訳ではないのです。
2回リセットしたらたまたま普通の日常がやって来たのでハッピー!ではなく、奇想天外なんでもアリな無限の並行世界の中から、門出とおんたんが二人で選んだ世界なのです。
そんな神様の次元まで到達してまで、選び取ったのが、いそべやんの漫画の中のような、永遠に繰り返すような何の変哲もない日常であり、それこそ何ものにも変え難い"絶対"になったのです。

それは大きな非日常をついつい期待してしまう我々の人生において、日常の中に転がる見過ごしがちな非日常を改めて見つめ直す機会をくれるのでした。

そしてこの壮大な仕掛けを…

・どこからともなく聞こえてくる門出とおんたんの声
・少しの伏線(シフトマシンの更なる開発)
・"SHINSEKAIより"というOP
・地球を指差す暗喩🫵
・"いそべやん"や"ずんだッチ"というパロディ(僕らの現実との並行世界化)

このような間接的な要素だけで、マルチバースの更に高次元の世界を、我々の現実とのメタ構造で表現していった見事なSFであると捉えました。


また、映画版でSHINSEKAIの話や平和な日常編がないのも、映画自体がマルチバースの一つだとメタ的に捉えれば辻褄が合ってますよね。

マルチエンディングは数十年前からありますが、一般的には世界線は同一次元のものでした。
それから次元を上げて、全ての世界線を俯瞰する神様視点を作品内に取り込み、そこにメタ構造まで含ませた最先端SFであり、既存のマルチエンディングとも一線を画します。

簡単に言うと浅野いにお先生は
"君たちも、好きに解釈すれば良い。現実さえも門出とおんたんが見ている無限の並行世界の一つだし、それ全部正解だから"
と読者や視聴者に向けて言っていると思います。
客観性を取り込んだ事で終わることのないデデデデの世界。

今後AIが発達したら、アニメの最終回は個人の好み合わせたエンディングを生成するようになるかもしれません。
"他人ではないのが自分"という具合に空集合的に自分自身を捉えれば、自分だけの物語というのは自分自身とも見做せるわけです。
そして、主観と客観に分けられる前の原体験を物語で作り出せる未来を先取りして「漫画、映画、アニメ」とこんな大掛かりにやり遂げた、その原点がこのデッドデッドデーモンズデデデデデストラクションから始まっているとしたら、これは凄い作品だとは思いませんか?

もし、この作品を"SFで良くあるご都合主義のラスト"だと片付けてしまう人が居ましたらこの話をしてみてください。数あるマルチバース"モノ"とは一線を画しており、最先端のSFとしての完成度は"絶対"なのです!

追記:
考察の続編です。
侵略者ってなんであんなに弱すぎるの?という点についてSF視点で妄想してみます。興味が湧いたらご一読を!


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