「住みにごり」考察 新しい笑いの哲学
この漫画はすごい!今一番期待する漫画。「住みにごり」の内容を一言で言えば風刺の効いたギャグ漫画です。
ですがただのギャグ漫画と侮るなかれ。そんじょそこらのヒューマンドラマでは、このギャグ漫画のドラマ性には敵わないのです。
そもそも一見しただけでは、新規性に溢れすぎているためギャグ漫画と思えないかもしれません。
そこで"いかなる新しさがあるか"この記事で解説していきたいと思います。
まず下ネタ多めで、人間のイヤ〜なところを突っついてきます。"浴室にて、裸の還暦の両親のイチャイチャ"…こんな光景を見たい人がいるでしょうか。
つまりは読む人を選ぶ漫画です。ただ、それだけで避けるのは非常にもったいない。勇気を持ってオススメしたいのです。この漫画はスゴい!と。
少しでも興味があればまずひと段落着く6巻まで読んで欲しいです。あらすじなどは調べれば出るので特に書きません。もしまだ未読であれば、目次の3.からはネタバレがありますのでご注意ください⚠️
1.作家性の塊。ギャグの鬼。
初見で全く話の展開が読めないのはもちろんのこと、その上何度読み返しても面白いです。
特徴としては登場人物の欲望やプライドを、矛盾するままにシンプルに描いています。
・未来が不安だからこそなにもできない
・大切だからこそ壊したい
"愚かな行動にこそ、アイデンティティがある"
と言わんばかりに、自らの矛盾を見て見ぬ振りをして突き進み、泥沼化していきます。
愚かな行為をどんどん重ねて重ねて…いつ何が起きてもおかしくない、不穏な空気がずっと漂い続けている…そんな作品です。(6巻までずっと)
そんな全員の欲望やプライドがひしめき合い、無法地帯のままに膨れ上がっていくのに、6巻で綺麗に集結してしまう構成力はまさに最高傑作のコントであり、これを作りあげる感性や技術に感動を覚えました。思わず"スゴい!"と声に出してしまう程に読後のカタルシスを味わえます。
なぜこんなにもカタルシスを感じるのか?
もう少し深掘りします。まずはキャラ作りについてです。
幅広い層を狙った漫画では多くみられる"親切な説明"や心理描写の補助線"はほぼありません。言い換えれば、描写は鋭く無駄が一切ない。
キャラのデザインは、ギャグ漫画がベースなだけあって強烈です。言語化しにくい悪意が、より際立ちます。
誰もが先入観を抱いてしまうような特徴的な絵で、読み手の頭の中でシンプルにキャラの初期設定がされていきます。
こいつはやべえ、こいつは腰抜け、こいつは可愛い、こいつは…etc.
見た目で与える先入観という初期設定を、度が過ぎるほど補強したり、逆に唐突にぶっ壊したり…それらを繰り返すことで登場人物全員が一言では語れない、リアルな人物になっていくのです。読み進めるほどに、みんな生き生きとしてくるのが感じられます。
登場人物みんなが作者本人の生き写しなのではないかと思うくらい作品の中で生きていて、そこに唯一無二の作家性が感じられます。
登場人物の記憶が苦手な自分でも、10人程の登場人物をきちんと覚えられました。
ただ、絵柄は不安定で1巻と6巻では変化が激しいのですが、あまり問題はないです。
登場人物みんなが物語の中でアイデンティティを持って生き生きしているから、誰だっけ?なんてことにはなりません。
ちなみに父親は個性的で悪意のある禿げ方をしているのですが、こちらは絵柄が安定していないわけではなく、禿げ具合の変化が激しいだけです。
"いつ頃の回想シーンなのか"と言うのが、禿げ具合で読み取れて面白いです。いや切ない。
2.お笑いが暴力を超えて、救いになる話
まとめるとコントと述べたとおり、全てお笑いに帰結します。
もしこれが"お笑い"に帰結しなければ、どんどん不安で苦しくなるでしょう。
不穏な空気に取り囲まれ、どこにも接地しないメリーゴーランドのように、浮遊したまま、思考がグルグルと回ってしまう。
そして、家族という閉塞感に息が詰まって…。
だけど最後は笑いで締める。
つまり、もうどうしようもないほどにどん詰まりな人生になっていっても、最終的には
"マジか、そんなアホな、フフッ"
とお笑いにしてしまえば、なんだか受け入れられるのです。
お笑いこそがこの作品の救いになっています。
愚かな行動に意味を見出そうとする事自体、メタ的に愚かな行動であると気付かせてくれます。それがわかっていも人間は、後付けで意味を考えてしまうのですが。
喜劇の本質がここにあるんじゃないかと考えさせられました。
3.新しいお笑いの哲学
⚠️これ以降ネタバレ結構含みます。
日本でしばらく流行っている"わかる人には分かるインテリお笑い"でもありません。もちろん冷笑でもないです。
もっと原始的で素朴なお笑いです。
うんこが面白い小学生が笑うような、そんな純朴な面白さなのに作家性が際立っているのです。
人を攻撃してしまう笑いではあるのですが、最後は救いにもなる。多くの漫画ではギャグはエッセンスとして使われますが、この漫画はギャグが最も大事なところで使われます。
6巻のクライマックスについて話します⚠️
一巻のフミヤの登場時のボロボロのパンツ。これがまさか一番の見せ場で使われるとは、思いもよりませんでした。
"ゴムだけで繋がるボロボロのチャイナドレス
風パンツは、一体いつ破れるのか?"
そんな本当にしょうもない事に全身全霊で焦点を当てた喜劇。
6巻中盤あたり、物語のクライマックスでゴムが切れてひらりと舞い落ちるチャイナパンツ、意味不明なのになぜか美しい伏線回収に感動を覚えてしまいました…。
被せておばあちゃんケーキのショートコント。
6巻分のラストを飾るには、あまりにもしょうもないショートコントなのですが、それ自体が末吉という人間の全てを凝縮しているようで美しさすら感じられます。
この作品を面白がるにはある程度の読解力や想像力が必要ですが、お笑いに関してはしょうもない事が多いのが、また良いところなんです。
どんなに落ち込んでしまった時でも"フフッ、しょうもな!"とお笑いに変える力。これは人生の教訓にもなるくらい力強いメッセージ性があり、それに気づかされた時の強烈なカタルシス。
笑ってられない状況であっても、自分自身をメタ的に見て笑って済ます。許さなくても納得しなくてもいい、ただ"笑って済ましちゃう"。もう自分ではどうしようもない絶望の淵に立った時に使ってもいい究極の処方箋です。
人生を悲劇から喜劇に180度転換させてみる、それが幸せとは程遠くても、せめて笑いに変えるたくましさ。そんなたくましさを持ち合わせてないのなら、ただただ話を逸らして、隣に転がってるくだらない事に目を向けるだけでいい。
自分の悲劇なんて放っておいて、漫画を読んで喜劇に浸ればいいんです。それからは、そこで区切りをつけて、また新しく始めればいい。人生は喜劇なのだからと。
希薄で殺伐とした現代を生き抜くための哲学書なのだと私は思いました。それともバイブルでしょうか、知らんけど。
結論を言ってしまえば全てが喜劇なのですが、せっかくなのでもっとキャラを深掘りしてみたいと思います。人物の深掘りと喜劇とのギャップが大きいほど面白さにつながると思うからです。
キャラの深掘りをするならまず主人公からとしたい所ですが、この漫画、主人公は誰でしょう?
とりあえず家族の中でも一番最初に目立つキャラである"兄のフミヤ"に焦点を当てます。
4.悲劇のヒーロー!フミヤ
1巻の裏表紙解説にもあるとおり、怪物と呼ばれるフミヤは35歳引きこもりニートです。
"最初はオモシロおじさん登場!"の様に描かれています。
ギャグ漫画としてみればそう言うキャラで通りますが、冷静に見ると三人兄弟の1人だけ発達障害をもっていそうで。境界認知というグレーなところかもしれません。
もし自分の家族に境界認知の子がいたら…。
親は将来を心配して子供時代を日々悩み続けてしまった。
ですが悩んでも解決できなかった末に、みんなが全てを諦てしまった。その結果としてあんな関係性になってしまった悲劇。
あまりリアルに想像したくないですが、一番近くにいる家族だからこそ、そんな残酷なこともできてしまう気がします。
そんな中、姉だけがフミヤに対してまだ優しいのもリアルです。姉は家を出て、もう当事者意識がないから優しいのです。
それが偽善だと捉えることもできるかもしれませんが、姉の距離を取った行動を攻めることはできないと思います。姉は自分の力で離れたのに、引け目を感じてしまう程に家族の束縛力はどうしようもなく強いのです。
あの優しさは贖罪ともとれます。
本当は家族みんなが、様々な問題を抱えてるくせに、一番わかりやすいフミヤを元凶だとしています。
全てうまく行かないのは"お前のせいだ"と言わんとばかりの冷たい目線。ずっとそんなストレスに晒されて生きていたら、正常で居られるわけがありません。
5.フミヤのラブレターの涙腺破壊力
そんな中、1巻の後半で突如現れた優しいヒロイン、モリタさんを好きになってしまいます。
いきなりラブレターを渡そうとするのは、ストーカーの様な危うさを覚えました。
益々、フミヤのヤバさが際立っていきます。
しかし、その後の回想シーンでラブレターを書いてるフミヤの姿で読み手の心を抉りにきます。
このページを見た時、私は涙が溢れました。
裸のフミヤが、不安の混ざる真剣な表情でラブレターを書いているのですが、チラッと見えるラブレターの内容は以下の通りです。
これは…不意打ち…。怪物とされるフミヤが書く文章はあまりにも普通でした。この不気味な漫画の中で、初めて正常なのです。
そう、にごりなしに。
好きな子と上手く話せないから手紙を書く。そんなのは小学生や中学生なら純粋に綺麗なことなのに、35歳だから、引きこもりだから、不細工だから、ストーカーだとなってしまう。
そんな事はフミヤ自身も薄々分かっていながらも、勇気を出してラブレターを書きました。
愚かな行動ばかりを重ねている家族たちにはできない、勇気ある行動をフミヤは選びました。
ですが、この勇気を知ることができるのは読者だけで、結局誰にも存在すら知られなかったラブレター。怪物は怪物のままです。
短く切ない片思いと失恋でした。
その裏で同時進行される末吉とモリタのセックス。母になだめられるフミヤ。
そして最後は"釘打ち祝福メッセージ"でお笑いで落とす。
その後のフミヤの叫びは映画「エレファントマン(1980)」を思い起こさせる程衝撃的です。
初読では鬼畜すぎる展開の残酷さに心を痛めましたし、皆殺しの夢が一巻冒頭に出ているのもあって、これはフミヤが何かしでかしてもおかしくないと思ってしまいました。
しかし、家族の全貌を知った上で読み返すと、妙に納得できてしまい笑えるのです。
フミヤの唯一の決め台詞
「おまえら、しょうもないねん」
につながっていくのですから。
ここまでで2巻。語り出したら終わらなそうです。
6.おまけ解説。おやすみプンプンと並べて。
この漫画を勧めたら、"おやすみプンプンに似ている"と感想をもらいました。確かに家族をテーマにしており、ギャグも絡めている点が良く似ていると思いました。両作品とも絶望的に重たい物語。
ですがせっかくなので違う点を少し考察します。
"人生には絶望が2回あるという説"が私の中にあるのですが、住みにごりは2度目の絶望を描いていると思います。("絶望が2回あるというのは東京事変のインタビューが元ネタです。詳しく知りたい方は以下リンクをどうぞ)
1度目の絶望というのは若さの延長にあり、世の中と自分とのズレに絶望する事と私は捉えています。
おやすみプンプンはいわゆる1度目の絶望期の話です。プンプンという僕が中心であり、僕を取り囲む世界とのズレが絶望へと追い込んでいきます。そのズレを理解してくれる仲間を探し求める。
だけれどそのズレは人それぞれで完全には分かり合えない。それを受け入れて成長するか、それを受け入れられず破滅するかのどちらかになります。
世の多くの作品は1度目の絶望期にフォーカスする事が多いと感じます。そちらの方がドラマ性を持ちやすく、エネルギーに満ち溢れているから。
たかたけしが尊敬してると言う押見修造の作品の「惡の華」や「ぼくは麻理のなか」も1度目の絶望期を書いている印象です。生きづらさの負のエネルギーが膨大で、10代から20代で読んだらトラウマ級の作品です。
それらの膨大なエネルギーや強烈なメッセージ性をもつ1度目の絶望に対して、2度目の絶望というのは、内に秘める絶望であり、正体がわからないんです。
小さく、しょうもないものであったり、恐らく空っぽなだけのこともあるのです。
まあ人生こんなもんだろうと思ってたはずなのに気づくと空いていた穴。
いつからあったのか、どのくらい大きいのか、正体不明で輪郭さえもつかめない穴。
気づいた時には、すでに体半分が落ちていて、孤独にもがくしかないのです。
「住みにごり」は、そんな人生の2度目の絶望を描こうとする珍しい漫画であると思います。
1度目の絶望の物語は、それを乗り越えて、良くも悪くも成長するパターンが多いですが、2度目の絶望はどうなるんでしょうか?成長なんてのはとうの昔に終わっていて、もう発酵するくらいしかなさそうですが…今後の展開が楽しみです。
最後は抽象的な話になってしまいましたが、考察はこのくらいにしておきます。
この記事が面白かったらまた漫画を読み返してみてください、そして笑って泣いて、考えて。
また次の新刊が出たら、他の家族にも焦点を当てていきたいと思います。たかたけし先生、素晴らしい作品をありがとうございます!