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【感想文】ぼくは勉強ができない/時差ぼけ回復

こんばんは!
まだまだ暑い日が続きますが、今回は夏の終わりに感じることを
とある小説を引用して語っていきたいと思います。
それは、『ぼくは勉強できない』という小説の中にある
“時差ぼけ回復”という章についてです。
私はこの小説と高校一年の時に出会ったのですが
この章に出てくるある人物がなぜ自死を選んだのか
それが分からずとてもモヤモヤしたのを覚えています。
4年ほど経った今、発言の意味、とかその受け止め方が腑に落ちた気がするので
ちょっと考察してみたいと思います。

魅力的な目次が並ぶ

 この『ぼくは勉強ができない』という小説は
小説家の山田詠美さんが平成八年に書かれた小説で未だに読まれ続けている青春小説です。
【新潮社の100冊】でキュンタくんとかいうロボットのキャラクターが
「シビレル本」として毎年紹介しています。
シビレルかどうかは人それぞれだとしても笑
自分にとってはエンタメ性だけではなく
考えさせられる本でとても面白いです。
 タイトルだけ見ると、ただの尖ったヤツ..と言う印象を受けますが実はそうでも無くて誰もが通る心理的なアレコレって感じで身近なお話が多いです。


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1.片山の話の意味とは?

以下考えさせられる原因となる
片山の話です。

人間とは、本来、二十五時間を1日の周期として生きる動物だというのである。それを二十四時間に合わせていくと、どうしても、一時間の時差が出る。その一時間を、それでは、どのようにして解消していくのか。普通の人間は、食事や仕事や遊びなど、日常の動作を繰り返すうちに少しずつだまして、小刻みに時間を振り分けて行く内に、つじつまを合わせていくそうだ。しかし、中には、それが、どうしてもできない人々がいる。そういう人たちが、体をだませずに不眠症になったり、日常に起床をきたすのだそうだ。

山田詠美『ぼくは勉強ができない』新潮社,1993年,134貢

その後、片山は
「ぼくは生まれた時から時差ぼけなんだよ」
と続け、主人公らを困惑させました。

時差ぼけとは本来海外旅行に行った際に
体のリズムがずれて日常に支障をきたすことを指します。
生まれた時から時差ぼけ、とはどういう意味だったのでしょうか。


本文中で片山が生前「考えるとは、どういうことかってのを考えるんだよ(p127)」と言っていた場面があります。
例えば誰かと楽しく話している間に流れている時間のことを、私たちは深く気にしたりはしません。その会話が終わってから「楽しかった」で流すことが普通ですよね。

けれど、片山にはそれが出来なかった。
その楽しい時間が終わってから、とかその最中に「自分は今楽しいのか」について考えてしまう。そのことに悩みを抱えていました。
本当にその時間が過ぎていく中で「楽しい」と思えていたのなら、そのままその時間のことは「楽しかった」で流してしまえばいいのに、彼にはそれをすることが出来ない。
一度「楽しかった」ことを確認して、自らの手で「楽しかった」と考えることによって、彼の中の二四時間がやっと進む。

この「時差」が一時間ならまだいいけれど、きっと片山が自殺を決意する寸前はこの一時間が膨れあがって、二時間にも三時間にもなってしまっていたのだと思います。
つまり、これが、回復することの出来ない時差ぼけだったのだろうと考えました。

これは確かに他人には理解できない苦しみだなって思いました。

2.時差ぼけを感じる人、感じない人

 一通り心情の変化があった後、主人公が友人にお葬式で泣いたかどうかを質問する場面があります。

「おれ?おれは泣かねえよ。女子は盛大に泣いてたなあ。でもさ、あれは、片山の死を悲しんでいるからじゃねえなあ。泣くことで、自分たちの信頼深めてるって感じ。酔ってたぜ。号泣してる奴もいたもん。くだんねえよなあ、片山となんて話もしなかったくせに」
「仕方ないよ、時差ぼけ知らずなんだから。」

山田詠美『ぼくは勉強ができない』新潮社,1993年,146貢

この最後のセリフの「時差ぼけしらず」とはどう言う意味だったのでしょうか。

片山の言う時差ぼけが、個人的に背負っているズレだとしたら、
女子が盛大に泣くと言うことは、体裁を装うと言うことになる。
片山が死んだこととに対して悲しくて泣くというよりは
人が死ぬ=悲しいこと
と仮定して、泣くことが正しい人間性の持ち主であるということを証明するための社会的行為になっている。
つまり、共同体としての意識の強さがが個人の思いに先立っていると言うことに対して主人公は不自然だって言いたかったんだと思います。
確かに、話したこともない人を思って、泣くことは何か不自然さを感じます。

最後の、この対比がこの章の全てだなって思いました。
作者は、個人と社会の間で生じるズレについて語っていたのかと腑に落ちました。
自然⇄不自然
このバランスを崩さないようにね、というのが作者のメッセージっだったのかなと思いました。


片山は、自分のことをボケてると思い込んでしまっていたけど
もしかしたら、そうした性質を活かせた世界線だってあったのかもしれないのです。
それを、葬るのはやっぱり惜しい、と主人公と同じく思いました。


⭐️最後に

書いてたらどんどん溢れてきてしまいました。
でも、私は片山くんの話が、他人事ではないなと思ってて。
なぜこの小説を思い出したのかというと、
厚生労働省の「自殺予防週間」というポスターを目にしたからでした。
9月10日から9月16日はどうやらそう言う期間らしいです。
世界的にも、9月10日は防止予防デーらしいです。
9月ってなんかそう言うシーズンですよね。
こう言った場合、多くの人は新学期のいじめ問題に傾きがちですが
私はそれだけではないんだろうなって思ってます。
夏の終わり、休みの終わりといったこの時期は誰もが知らず知らず時差ぼけを
引きずって生活しているのかもしれません。人それぞれ、必要な睡眠時間とか、考える時間とかって違っててズレがあると思います。それを
「個」⇄「共同体」
「個」⇄「社会システム」
こんな感じで環境に適合する時は
精神的にも、誰だって、人間はしんどくなると思います。
自分はめっちゃそうです。
そうしたズレに対して寛容な社会になって欲しい。
そういう願いを込めて小説思い出して感想書いてみました。



なんとな〜く言いたいこと伝わったら嬉しいです。笑
もっと分かりやすく伝えられたら良いんだけど難しい。
読んだ方は、ご意見ください。
読んでない方は、ぜひ読んでみてください!


他の章も本当に良いです。
魅力的な女の子、いっぱい。
私は特に、黒川礼子が好きです〜。笑







読んでいただき、ありがとうございました(ノ´ヮ`)ノ*:・゚✧

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