
現実と向き合い、甘えではなく責任ある行動を取りますよ。誰かさん達と違って
財務省批判の批判の記事を拝見しました。
こちらの記事への感想、及び財務省批判を批判する人たちへ思うことを述べさせていただきます。
さて、今回論じたいのは、この状況を傍観する人々の態度についてである。知的水準が高いと自認する人間であればあるほど、多くの人々が熱狂している状況を一度冷ややかな目線で観察してみたいという欲望に抗うのは難しい。ついつい「財務省解体だって? そんな簡単なことでお前たちの生活がどうにかなるわけがない。世の中はそんなに単純ではないのだよ・・・」とシニカルな態度で斜に構えたくなるのだ。
<頭がいいつもりの人間ほど、多くが熱狂している状況を冷ややかに見たくなり、嘲笑的な態度で斜に構えたくなる>
というご意見のようです。いくつか見てみました。
例1
森永卓郎のような質の悪いデマゴーグに煽られた情弱たちが「ザイム真理教」などと騒ぎ立てるようになっている。彼らは森永の「GDPの1/6の財政赤字が持続可能」という荒唐無稽な説を信じているらしい。
・・・
等々、財政赤字を増やして一般国民の手取りを増やしても解決不能な構造問題が山積みなのだが、それを指摘するとこの👇ような現実逃避者がわらわらと湧いてくる。
例2
頭がおかしいのは先日死んだ森永卓郎に影響されたデモ参加者たち。
・・・
森永の「GDPの1/6の財政赤字(現在なら600兆円に対して100兆円)を永続できる」との主張が正しいなら、
国税を全廃して借入(国債発行)で代替
または、国税収入を5万円/月のベイシック・インカムに充てる
が可能になるわけだが、理性があるならこんな与太話は信じないだろう。
森永はがん細胞で頭がおかしくなっていたのかもしれないが、財務省前のデモ参加者は健康なのに頭がおかしくなっているらしい。
例3
・滑稽を通り越して哀れ
・頭のおかしい人たちのデモごっこ
・「乞食デモ」
・現実逃避の茶番劇
・事実に基づかない戯言
・汚いノイズ
・安易な解決策に飛びつく愚かしさ
・陰謀論ではなく現実と向き合い、甘えではなく責任ある行動を取るべき
・・・・なるほど。おっしゃる通りのようです。
議論する気がないと示してくれるのはある意味楽だが
とはいえ、陰謀論がバカっぽく見えることは陰謀が存在しないことを意味しないことも、僕たちは弁えるべきであろう。とくに、財務省解体論は、財務省というシステムに向けられた批判であることは念頭に置いておいて損はない。
・・・
財務省というシステムによって悪が為されていると考えるのは、植民地政策というシステムが戦争という悪を引き起こしたと考えることに近いのではないか? それはシステムの不具合を取り除こうとする、理性的な判断である可能性も十分に存在するのではないか?
・・・
ともすると、財務省批判を陰謀論であると一蹴するのは、知的に誠実な態度であるとは言い難い。
確かにシステムによる悪というのはしっくりきます。
戦争などはもちろん、個人の犯罪ですら、環境・生い立ち・状況などの影響が大きいですし(シリアルキラーでもない限り)。
また、バカっぽい(上の例ではデマゴーグ・情弱・頭おかしい・現実逃避など)って、
「それあんたらの感想ですよね」で終わりなんですよね。
ろくな説明も分析もせず、ただ鼻で嗤って、相対的に賢いつもりになりたいだけ。違います?
批判も議論もする気ないでしょあんたら。
まあそれならそれでいいけど
賢者≠賢いつもりの人
多数派が間違える可能性があるのと同様に、多数派が良識的な判断をする可能性もある。このことに疑いの余地はない。僕たちは過去数十年において社会全体が上手くいかない状況に慣れ過ぎて、多数派がやることなすことバカの所業であると考える癖がついてしまった。同時に、多数派を斜に構えて見下す態度が結果的に正しかったという実例が、この社会にはあまりにも積みあがってしまっている。俺は分かっている側だという選民思想に染まっているホリエモンや成田祐輔の周りの人々が、そのセオリーに則って論陣を張りたくなるのも頷ける。
上述の例をはじめとする、大変お賢いおつむをお持ちの方々にお聞きしたいのですが、
賢い人とは、賢者とは、どうすればなれるのでしょう?
聞いた限りでは、賢者は悟りの書とやらを手にいろいろと学び、
レベル20まで経験値を積まなければなれないとか。
で、あなた方のレベルっておいくつでしょうか?
人の頭や行動を情弱だの逃避だの嗤っても
事実を基に合理的に判断できる少数派を気取っても*1
気に入らない意見をポピュリズムと吐き捨てても*1
レベル1のままだと思うのですが
あなた方はどれほどのレベルと経験値を積み上げてきたのか、
是非ともお聞かせ願いたいものです。
*1ポピュリズムはいつもポピュリズムを批判する【雑記】|久保一真【まとも書房代表/哲学者】
何で我々はこんな初歩で足踏みしてるのか・・・
思想の対立の根源にあるのは、税財源論を巡るものであろう。
・・・
ともかく、一旦、税を財源と解釈するかしないかは脇に置いた方がいい
置きたいのは山々ですが、
税財源論は、経済・財政・あらゆる政策の要です。
何をするにも、政府が金を創って出さなきゃ、最初の一歩すら踏み出せないから。ケリ付けておかないと
何するにも”金がないから~””財政破綻~””国の借金が~”とぐだぐだ拒絶して動こうとしない
もしくは社会保障削減・他の増税など、別の誰かを苦しめる方向に持って行かれる
特に貴方も主張されているベーシックインカムは、実行には相当な支出が必要です。
月10万を1億人に配ると仮定すると、年120兆円。
まあ無から創ればいいから、”金が無くて出せない”なんてことはまるでないのですが。
それでも額が多い以上、他の政策以上に”金がない・増税”の方向に緊縮派は持って行こうとするでしょう。
税財源論にケリ付けておかない限りは。
「もめる箇所は後にして互いの妥協点を探せ」とお思いでしょうが、
ここは妥協すべき箇所ではないと考えます。
税が財源かは重要でないという主張
歳出の原資が租税でも通貨発行でも民間が受け取る"カネ"に違いはないので影響は同じである。どちらの形式でも民間と統合政府のカネのやり取りは全く同じなので、民間にとっては区別する意味が皆無なのである。
結局、信者たちは「税は財源ではない」という反常識の言葉に酔ってしまって、そこで思考が停止している。
これに対する反論 要約
・「税が財源では無い」事を知られると困ることでも?
・(財源が何かを区別する意味は)大いにある
税が財源と勘違いしたせいで、助かる物が助からない事態を
現に引き起こしている
・政策の手段が縛りプレイ状態になって幅が狭まる
・(「反常識の言葉に酔って思考が停止」に対し)
→緊縮派のほうが、財源だのインフレだの為替だの、支出拒絶の言い訳をごねてる時点でよっぽど思考停止している
・「税は財源では無い」の軽視は、言論封鎖をしたい意思が透けて見えて薄ら寒い
そんなに手前に酔いたきゃウォッカ一気飲みでもどうですか
究極的には「国債発行をどの程度許容すべきか?」とか「財政出動を行う際の指針はどのようなものにすべきか?」という議論へと必然的に収束していくことに、両陣営は同意せざるを得ないだろう。
そうですね ・・・と言いたいところですが、
まるで同意する気がないんですよね、財務省も緊縮派も。
国債発行した分増税して帳尻合わせようとしたり
財政出動そのものを拒絶しようとしたり。
妨害し続けているのが財務省・緊縮派・そしてデモ反対派 という認識です。こんな風に

もう目的からして違うと思うのですよ緊縮派は。
積極派を論破(したつもりになる)
馬鹿にし見下し嗤いとばして賢さ(のつもり)を誇示する
思考を放棄・条件反射で否定
相手の主張を少しでも認めたら死ぬ病
出世・保身
自分の神(師・組織・経験など)に盲目的に従う
少なくとも私にはこういう風にしか見えません。
そして、手前に酔う(手前の正義・言葉・地位・実績・能力・忠実・献身等々)。
手段も長所も短所も経過も結果も、まるで考えない。
考えさせない。こんな風に
正面から構造改革と財政再建を訴え続ける人々こそが真の守護者なのだと。
SNSでは匿名で活動している私であるが、ついにれいわ新選組の政治家から、名指しで罵声を浴びせられた。「未来などどうでもいいのか」「国民を苦しめたいのか」などと。しかし、私は決してぶれることはない。
・・・
痛みが伴う改革こそが、本当の意味で国を守る道だ。
・・・
短期的な誘惑を断ち切り、強い意志で国のカタチを立て直す。そこには一時の不満や痛みが伴うかもしれない。だが、それこそが日本の再生への唯一の道であると、私は信じる。
朝焼けの空に再び光が満ちるためには、
・・・
亡国のポピュリズムに惑わされず、痛みをともなう勇気を持って構造改革と財政再建へ踏み出そうではないか。
・・・
――将来世代から未来を奪ってはならないのだ。
それぞれが50%ずつ悪い、なんて冗談じゃない
やるべきはそのような生産的な議論なのだが、そうした議論が巻き起こっているとは到底言い難く、両陣営は相手をカルトだと罵り合うことに終始している状況にある。このような状況を続けることの方が、僕はカルトじみていると思う。)
失礼を承知で言えば、不愉快です。ご意見も、そういわれる状況も。
森永卓郎氏の「ザイム真理教」などの物言いは、おそらく
第三者に緊縮派の性質を手っ取り早くわかってもらうのが目的。
緊縮派の説得は必ずしも必要ではない。
財務省・緊縮派相手の理解はもう期待しない。諦めた。
そんなことより、第三者を積極派に引き入れ、数という名の力を増やす方に時間を使う
という意図の表れではないかと。
相手との対話を求めるなら”カルト・教”などの決めつけは論外でしょうが、
それ以外が目的なら、内容次第ではありでしょう。
また積極財政派の態度も
積極派は、基本的には筋道立てて主張・説明している。緊縮派よりははるかに。
積極派はそんなに何度も緊縮派をカルト呼ばわりしたか?ザイム真理教など、全くないとは言わないが
回数の問題ではないにしても、”1回言うのも4,5回言うのも同じ”というのもどうなのか
積極派の多くは、森永卓郎氏緊縮派がカルトと呼ばれるに足る理由を示しているのでは?森永卓郎氏もその一人
引いた位置からは”罵りあう状況こそカルト”に見える、というご意見は参考になります。
とはいえ、”どっちもカルト・どっちも同じくらい悪い” というのは、やはり不愉快であり、一緒にされたくありません。
私はこの状況を他人事などとは思いません。誰かさん達と違って
そっちの方面で少しばかり声をあげてみたい。そもそも僕は労働廃絶が可能であるとかなんとか言って出版社を立ち上げた男である。バカだと思われるのにはもう慣れている。
実際に動き、実績も出している方の<バカだと思われるのにはもう慣れている>は、重みが違う。
私は実績など無に等しい身ですが、それでもできる事をやっていこうと思います。
バカ・情弱・現実逃避・茶番・乞食・汚いノイズ
等と吐き捨てられても。
一歩踏み出せば一歩分だけは目的地に近づくから。
自分で何一つやろうとしないくせに、他人の理想を嘲笑して満足している卑劣漢よりはよほどましだから。
”立ったまま一歩も動かず、失敗するに決まっているなどと偉そうに論評していても世の中は変わらん”ということにすら気づかないことこそ、
「滑稽を通り越して哀れ」だから。
ご覧いただきありがとうございました。