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「男は〇〇であるべき」は正気か狂気か ユーモアを忘れるな!

僕が子どもの頃はまだまだ

「男は〇〇であるべき」

という言い回しが一般的だった。

だれかにそう言われた記憶はないけれど 皆が漠然とそういうもんだと思っていた。

大人になった今でも僕の中に色濃く残っている。

別のそれを他人に強制しようとは微塵も思わない。

でも僕はその制約にしっかりと囚われている。

それは

「男は泣くな」


である。

男は人前で涙を流すことは弱いとみなされ 恥ずべきことだとされていた。

ちょっとやそっとの事では涙は見せない。
堪えきれず泣く、男泣きという言葉があるぐらいだ。

そこには 我慢強いという美学がある。

らしい。

しかし そうしている内に本当に泣けなくなってしまった。

頭では別に人前で泣いても恥ずかしい事ではないと知っているのに。

できない。

恥ずかしい 弱いと思われたくない。

泣かない為に お涙頂戴エピソードを避けるようになる。

すると どうだ。

ホラー好きの ねじ曲がった大人がひとり完成してしまった。

泣くというのは精神衛生上とっても良い影響があると聞く。

だからドラマや映画を見て素直に泣けるのは羨ましい。

ドラマや映画のシーンで ここは泣く場面だなということは理解できる。

ウルっとくることもある。

でも、そうなるとそのシーンの内容よりも「泣いてはいけない」と頭の中で警報が鳴り響く。

そうなるともうそのシーンには集中できない。

泣かないことに神経を使う。

そして泣かずにやり過ごすことが出来る。

これは物語を純粋に楽しめていない状態だ。

もったいない。


泣けばいいじゃないか。

そう理性は問いかける。

でも感情は泣くことを恐れている。

その恐れとは 泣いてしまった後に、どう元に戻ればいいのかわからないということ。

泣き慣れていないと そんなところで不安になる。

泣くのはいいが制御できなくなるのが怖いのだ。


子どもとクレヨンしんちゃんの映画に行った。

あれは大人を泣かしに来ている。
それも売りだろう。
大人に人気があるとも聞いている。

僕もウルっとはしたが「子どもの前で泣くのはカッコ悪い」と防衛反応が出て 泣くには至らなかった。

泣くべきところでは泣く。

そんな普通の人間になりたい。

別に冷たい人間というわけじゃないと思う。

え?

そうだよね。

泣けないのは実はサイコパスとかソシオパスとかそういう事?

いやいや。
泣けないだけでそれはないだろう。

いやまて。
そういえば職場でも作り笑いが上手いと言われることがしばしばある。

うまく泣けず、うまく笑えないホラー好きのエッセイスト。

う〜ん。

怪しい。

僕は正気か狂気か。


判断は皆さんにお任せしよう。

まぁいつも僕のエッセイを読んでくれている人は口をそろえて言うだろうね。

「あいつはただの暇人だよ」


と。

正気とか狂気とかそんな次元ではない。
そんなことは知った事ではない。

「毎日 謎のエッセイをせっせと投稿する暇人」

これが世間のぜんけいの人物像だろう。

何を言われても僕は大丈夫。

だって「男は泣くな」という制約を自分に課しているからね。

そんなもんじゃ泣かないよ。


ふう。

こんなところで「男は泣くな」が役に立つとはな。

この制約も捨てたもんじゃないのかもしれないな。


いや、おいっ!

だれが暇人や。

めちゃくちゃ忙しいわ。


とノリツッコミを入れ狂気を演出しようとするが 無駄だ。

僕はどこまでいっても凡庸。

正気から逸脱する事はできない。

正気を失う事は才能だ。

ユーモアと正気は相反する。

僕はユーモアのある人間であり続けたい。

「正気を捨てろ」


それが今日から新に自分に課す制約だ。

狂気・・・凶器・・・であると今日気・・・が付いた」

フフフ。

これが狂気のなせるわざか。

恐ろしいぜ。

ではまた。

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