
体育の授業時の服装について
どうでもいい・・・
どうでもいいけど、職場で揉めそうなので自分の考えを記しておきたいと思います。
自分の考え
「体育着忘れは見学」はおかしい!
子どもには教育を受ける権利があるのに、体育着を忘れた程度で、それを妨げて良いのだろうか。
教育を受ける権利を冒してまで、見学を強いることの妥当性について検討してみたいと思います。
体育着がないと見学?
見学の理由
よく言われる理由としては2点でしょうか?
①安全面での心配
②衛生面での心配
それに対する反論
①安全面というが、休み時間には普段着で元気いっぱい遊びまわっている。服装のせいで怪我をしたという話は聞いたことがない。(長靴は別)
また、市からの通知や文科省の文書、論文検索など、体育時の服装について調べてみたが、これまた服装のせいで怪我をしたことや、運動時の服装のきまりなどは見つからなかった。
つまり「体育時に体育着で運動しないと危ない」というような主張には、私が調べた限り何も根拠がないのである。
②衛生面について、確かに汗だくで砂だらけの服で給食を食べたり、生活をしたりするのは気が引けるということはわかる。
ただ、感情論ではなく何か根拠があるのだろうか。
こちらも、調べてみたり、栄養士さんに聞いてみたりしたが、体育着で給食を食べるのはダメだよね、という暗黙の了解はあるが、明確な文書があるのかはわからなかった。
もし何か文書やきまりがあるのであれば教えていただきたいです。
権利の侵害のほかに懸念されること
私の勤務校では、子どもたちの国籍や経済状況などの家庭環境、子どもの特性などが多様化してきている。
そのような中、全員が一律同じ服で活動することは今後難しくなってくるのではないか、と私は心配している。
学校に来ることが精一杯な家庭も存在している。そんな子に「体育着を忘れたから今日は参加できない」と言うのはあまりに配慮に欠けていると思う。
精一杯登校してきたのだから、一つでも楽しい思いをして帰ってもらいたいものである。
結論
以上、私が調べた限りでは、体育着を忘れた際に体育をさせない合理的な理由は見つからなかった。
したがって「体育着を忘れたら見学」はやりすぎなのでないかと考える。しかし、大人だって運動する時はスポーツウェアを着るように、子どもも体育着を着るのは妥当だとは思う。
ただ、罰としての見学に反対なのである。
この議論から考える今の教育の危険性
第一に、何の根拠もなく「何となく危なそうだからやめる」「何となく汚そうだからやめる」のように「何となく」や「今までそうだったから」という主観や慣例で判断していることに危険を感じる。
第二に、今までは何もせずとも「みんな」が揃っていたが、多様化が進むことで「みんな」が揃わなくなってきた現状に、きまりを使って強制的に「みんな」を作り出そうという思想はどうなのか。
第三に、きまりを作る教師側の理論ばかりが強調され、子どもがどう思うか、子どもの現状はどうなのか、というような子どもの理論をないものとして考えているのも疑問である。いかに子どもを管理するかという点ばかりが注目され、本当に大事な「子どもにどうなって欲しいのか」ということがほとんど考えられていないのである。
余談【体「操」着、体「育」着】
体操(たいそう、英: gymnastics)は、健康・医療・教育・鍛錬・美的表現などの目的で行われる身体を動かす運動の総称。(Wikipediaより)
明治期には「体操科」として、国民の育成や軍人の育成のための教育として行われていた。
つまり、国や個人の必要を満たすための運動が「体操」であり、現代の「体育」とは考え方が明確に違う。
時代は令和にもなり、いまだに明治から使われている「体操」を慣例として使い続けるはいかがなものかと思う。その後「体操科」がどのような失敗をして、どのように変化してきたのかを、歴史から学ぶべきである。
ちなみに、学習指導要領にも、必要を満たすための運動として「体操」という言葉は一度も使われていない。
歴史を知っている教師であれば、安易に「体操服」や「準備体操」などという言葉は使うべきではない。