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小説「宇宙犬マチ」 第4話

十二 思い出 マチ
宇宙犬となって地球に来た僕。これまで八年間のことが頭に浮かんでは消え、それが繰り返された。
本当にいろんな所に行くことができた。一番の思い出は、車に乗って一時間半くらいの所にある犬連れのためのリゾートホテルだ。そこには暑い時期に二回訪れた。
寝室が二つある広い部屋。大きなソファーがあって、広いバルコニーもあり、室内から見ることができるのは緑あふれる林。温泉の出る風呂もあって、外が眺められる。もちろん僕は入られない。濡れるのはちょっと苦手なんだ。
そして、どこに転がってもいい感じの清潔なフローリングの床。ソファーの上も快適で、僕は嬉しくてあちこちをウロウロ、ゴロゴロ。バルコニーでは走り回ることもできる。しかも隣の部屋との仕切りは分厚い壁で、ほかの犬の鳴き声もほとんどしない。それも気に入ったところ。
おとさんもおかあさんも、嬉しそうで、その表情を見ているだけで僕も幸せになる。
そしてもう一つ嬉しいことがあった。
夕食は創作系の和風のコースで、二人は驚きと共にとてもおいしそうに食べていた。
もちろん僕はそれを食べることはできないけど、犬専用のメニューもあり、頼んでくれたんだ。
夕食二回、朝食二回、それぞれ別のものが出てきた。かなり飽き気味ないつものお家のカリカリフード中心の食事とは違い、特別なものだった。鳥やサーモンのそぼろや卵や豆腐といったとても凝ったものばかり。しかも、美味しい!
食事はバギーに乗せられた僕は少しずつ小皿に盛ってもらいながら、あっという間に平らげてしまった。ああ、なんて地球はいいんだ! と思ったよ。
食後は自然に溢れた森の中を散歩して、部屋に戻ってのんびり過ごす。ソファーによじ登ったり、テレビラックの下の隙間に入ったり……僕なぜか狭いところが好きなんだ。
時にはベッドに上がって(本当はいけないらしいけど)、うたた寝したり。
朝はやっぱり食事前に散歩に行って、美味しい朝ごはんを食べて、食後はバルコニーで自然を感じる。
この時、地球の素晴らしさを深く感じ取ることができたんだ。
昼間はみんなで大好きな車に乗って、お出かけ。
窓から顔を出して、気持ちのいい空気を浴びながらいろんなものを見て観察する。暑い時期だったけど、湖畔をぐるりとドライブし、時には降りて散策をしたり、雄大に聳える富士山やキレイに咲きほころぶ花々を見たり。
 
そういえば、ドライブから帰ってきたら、ワンコ用のプールが用意されていて、入れられたことも思い出。ビシャビシャになっちゃった僕。冷たくて気持ちよかったけど、ちょっと辛かったなぁ……。
この犬同伴専用のホテルは、二回行って同じような部屋に泊り、それぞれ二泊ずつしたんだ。
僕は自宅も好きだけど、自然がいっぱいのホテルでおかあさん、おとうさんと一緒に過ごせたのが一番楽しかった思い出。その時は、調査のことなんか、すっかり忘れていたんだよ!
地球の自然の美しさ、食べ物の美味しさ、そして何もしないでゆっくり過ごす時間。
生きることの大切さを実感したのがこの時だったんだ。
 
Ⅴ 旅行 ヒロキ
 しばらくして、リサの提案で、マチとリゾートホテルに行くことになった。以前、ハッピーも含め、数回犬も泊まれる旅館やホテルに行ったことがある。しかし、音に敏感なマチは他の部屋の犬の鳴き声に、どうしても対応して吠えてしまうこともあり、ゆっくり落ち着いて過ごす事もできずに、良い思い出にはならなかった。そのために僕は不安であまり気が乗らなかったが、リサは部屋で温泉も楽しめるし評判もいいので、ぜひ行きたいと主張したので、思い切って行くことにしたのだ。
 マチは自分のキャリーバッグを出してくると、一緒に遠くにお出かけできるのがわかり、バッグの扉を開けると、すぐに自分で入り“さあ、お出かけしましょう!”というように喋ってくる。そんな器用な面も持っていた。リゾートホテルに向かったのは、九月の中旬で、まだ残暑が続いていた。マチは暑さに弱い。少し気温が上がってくると、朝の十分たらずの散歩でも、すぐにハアハアとして舌を出すようになる。ハッピーはまったくそんなことはなく、最初は身体の大きさから来るものなのか? と思っていたが、他の小型犬と比較しても、異常なほどハアハアするのだ。なんとなく犬の中でも特別な体質を持っている気がしてならなかった。
 快晴の中、車で向かった目的のリゾートホテルは、まるでメゾンかバンガローみたいな造りとなっていて、広い部屋にバルコニーがあった。寝室も二つ、大きなベッドとソファー、そして外が望める温泉が出る風呂が付いている豪華なものであった。そして何より隣の部屋の他の犬の鳴き声などは遮断され、気にならないのが良かった。マチも見るからに大喜びしている。着いてすぐに、さっそく部屋を走り回ったり、ソファーの上に登ったり、あちこちの匂いを嗅いだり。リサも大喜びだったが、特に気に入ったのが広々としたバルコニー。走り回れるほどの広さがあって、小さなテーブルと籐でできたリラックスできる大型のイスが二脚用意されていた。その先には奥が深い林が広がっていて、大きな木々と緑が木漏れ日と共に美しく存在し、まるで絵画のようであった。着いてすぐにリサとマチがバルコニーに出てはしゃいでいる姿を見ると、ああ、来てよかったと思えて自分も嬉しくなった。
 都会と忙しさからかけ離れたこのエリアに感謝の気持ちが湧いてきた。ハッピーがいなくなり、寂しく感じていた僕たちはここで元気を取り戻した! マチもきっと寂しくなっていたに違いない。最近はマチ自慢の食欲も少し落ちてきていた。しかしこのリゾートホテルに来て、すっかり元気を取り戻してくれた。
 ここの食事は広々としたレストランホールに集まって、温かいものを提供してくれるスタイルだったが、和洋折衷のコース料理は、他では食べられない美味しさと美的な感覚があった。創作系なのだが、新鮮でほっとする感じの料理。刺身ひとつについても、しかりであった。マチはホール内では、借りたバギーの乗せてもらって、僕たちとほぼ同じ高さでテーブルについていた。
 
 ワンコ専用のホテルなので、もちろん犬専用のフードメニューがあって、その中から毎食異なったものを頼んでおいた。初日のマチの夕食は……鳥そぼろごはんで、温かく見た目もおいしそうなものであった。マチはバギーから身を乗り出して、僕たちの食事を凝視していたが、彼の夕ご飯が出てきたら、それに目が釘付けになった。小皿に小分けしてやると、あっという間に平らげてしまい、またすぐにおかわりをねだる。しかも食い散らかすから、小皿の周りにご飯がこぼれているがお構いなしだ。バギーの中が汚れてしまうので、マチを床に降ろし、もう小分けせずに夕ご飯のトレイをそのままあげた。それもあっという間に食べ終えた。もう少し味わってゆっくり食べてほしいと僕たちは呆れ顔になった。
 その間も僕たちのコースは続いていた。マチは再びバギーの上に乗せられて、しきりにおねだりをしていた。しかし普段より明らかに食べ過ぎだったので、静止しながらの食事となった。
 それを繰り返していると、いきなりマチの動きが止まった。ちょうど食堂に入ってきた家族に視線が行き、マチのいつも穏やかな目が一瞬キラリと光った気がした。視線の先にあるのはカートに乗せられた小さな白いチワワであった。いきなり、マチはそのチワワに向かってウーウーと唸る。こんな表情は見たことがない激しいもので、僕は驚いた。マチのバギーを動かして、視線を逸らせようとした。チワワファミリーは反対側の窓際の席に着いた。マチはカート内を移動して、そのチワワと見ようともがいていた。そして、一声“ワン!”と大きく威嚇のような吠え声を出した。僕は“マチ、だめ!”と大き目の声を出し、彼を制止し、持参してきたおやつを差し出した。マチは、おやつを見るとこちらを向いて慌てておやつに食いついた。それっきりマチは普通に戻って、僕たちの食事をねだり出した。
「いったいどうしたんだろう? 珍しいよね」とリサに言う。「何かがあるのかしら、あのチワワに……」と彼女も不思議そうに返事をしたが、この話題はこれっきりになり、その後の食事をおいしくいただき終えると、白いチワワがマチの視線に入らないようにしてホールを立ち去った。
 出入口のところでバギーからマチを降ろしたが、彼はなんとなく落ち着かず、周りをキョロキョロしていた。外に出ると天空には燦々と月が輝いていて、秋の虫たちが煩いくらいに鳴いている。とても気持ちの良い夜だったので、そのまま森の中を散歩することにした。すぐに部屋に戻ろうとしていたマチは“えっ?”という顔をしたが、そのまま連れて歩くことにした。
 ホテルのエントランスがある門を通り、受付とその奥にあるバーを横目で見ながら小道をゆっくりと歩いて行く。途中に小さな池があり、月光が反射してキラキラを美しい姿を見せていた。リサはしきりにアイフォンで写真を撮っている。先には一軒家的な宿泊施設が点々と建っていて、部屋に明かりが見える。これらは同じホテルの施設ではないらしいが、造りからさらに高級な宿であることは理解できる。テニスコートやゴルフコースも併設されている。「いつかは泊まってみたいね」とリサが言う。実家の家族と一緒に来るのもいいだろうな、僕はそう思いながらマチのリードを引っ張りながら歩いて行った。
 その日は、運転の疲れもあり、再度温泉に入って、マチも僕たちも早めに寝てしまった。充足された気持ちで、ふかふかのベッドに入るのは気持ちがいい。
 マチはソファーの取り外せる背もたれの部分を床に置いて、タオルをかけてもらって、その上でスヤスヤと寝息を立てていた。素晴らしく特別な旅となった。
 翌朝、早い時間に物音で目が覚めた。マチがなんとかベッドに上がろうと飛び跳ねていたのだ。しかしベッドが高く、なかなか上がれない。僕はマチをつかむとベッドに上げてみた。これは禁止事項だったが……。彼はそれで満足したみたいで僕の股の間に入り、すぐにクークーと寝息を立て始めた。まだ早い時間で、リサも寝ているみたいなので、もう少し寝ることにした。
 その後、いつもより遅めの時間に起き出して、マチと日課の散歩に出る。彼はすぐに用を足し、瑞々しい空気の中、昨夜と同じコースを行こうとした。だが、マチは部屋に帰りたいという意思を示し、すぐにクルッと後ろを向いてしまう。朝はだいぶ涼しかった。標高が高いことの証明だろう。なんとかマチをなだめて短縮したコースを歩き終え部屋に戻ると、リサが起きたところだった。
 二日目の朝食も、レストランで食べた。あのチワワに出会わないかと心配したが、時間がズレていたのか一緒になることはなく、ホッとした。マチの朝食は鮭のフレークを野菜と混ぜたものであり、やはりガッツいて、すぐに完食してしまった。僕たちの朝食も、盛りだくさんで温かいものが多く、ついつい食べ過ぎてしまった。朝から満腹で幸せな気分となっていた。
 食後、富士山が見えるとのことだったので、きつくなった腹をこなすためにも、みんなで散歩することにした。リサもいつもにも増してウキウキしながら坂道を登っていった。五分ほど坂を登ると開けた場所に出て、大学らしい校舎が見えだした。その背後には、大きな富士山があった。雲一つない青空に、雄大な富士山がそびえ立つ。こんなに大きな富士山を見るのは初めての気がした。リサは「写真を撮って!」と大声でせがんでいる。マチを抱き上げたりしながらはしゃいでいる姿が、なんとも嬉しそうで幸せそうでもあった。
 マチとここに来ることができて良かった。心からそう思えた朝だった。マチは時々、富士山をじっと見つめて、また観察をしているような視線をしていた。僕はマチに近づいて頭をなでた。するとウルウルした目で僕を見て、まるで笑っているかのように口角を上げて“クゥーン、クゥーン”と喋り始めた。清々しい空気をいっぱい吸って、気持ちが高揚したまま部屋に戻り、みんなで今日のスケジュールを考えることにした。
 とてもいいお天気だったので、車で近くの湖に行くことにした。湖の近くに新しくできたお洒落なエリアがあるらしい。そこをひとまず目的地に決め、リサは準備を始めた。僕は部類の温泉好きなので、出かける前に温泉に入ることにした。バタバタと動き始めた二人を見て、マチもお出かけできると感じたようで、ウロウロと部屋の中を移動し落ち着かなくなった。四十分ほどで準備が整ったので、マチに声をかけて部屋のドアを開けた。眩いばかりの太陽の光が目に入ってきた。
 マチはリサの持つリードを引っ張るように、勇んで階段を降りていく。それに慌ててついていく。フロントに鍵を預けて、車に乗り込んだ。マチはドアを開けるとぴょんと飛び乗る。いつものことだが、元気な証拠だった。車はプジョーの小型なものだが、カブリオレなので、いい機会なのでオープンにして走ることにした。少し暑いかとも思ったが、走り出すと気持ち良さは抜群であった。
 マチはリサの足の上に乗っかり、抱かれて外を見ている。風に吹かれて気持ち良さそうで、長い舌を出しハアハアとする。その姿を横目で見ながら山道を下った。
 湖付近に来ると、横断する大きく長い橋があった。湖面はキラキラと輝いている。マチはいつの間にか、僕の腿の上に乗っかり、ハンドルを握る右手に前足を乗せて嬉しそうに流れる風景と橋、さらに湖と自然を観察している。以前運転中の僕の太腿の上は、ハッピーの指定席であった。彼も車に乗るのが大好きで、僕の腕につかまり外をいつも見ていた。マチは助手席が定位置で、窓側の肘掛けに前足を乗せて背伸びをして外を見ているのがほとんどだった。ハッピーが天に旅立ってしまった後、いつの間にかハッピーと同じことをマチがすることになった。あのハッピーが亡くなった日、一日中ハッピーを舐め続けたマチ。まるでハッピーがマチの中に取り込まれた感じがしてならなかった。それは辛くもあり、嬉しいことでもあった。
 しばらく湖畔を走ると、目的の場所に到着した。もう昼前になっていた。ハナテラスと呼ばれる場所は、様々なショップ……手作りの小物、お洒落な小物、アクセサリー、カフェ、カジュアルなレストランなどが入り、自然を活かしながら湖畔に作られた広いエリアであった。湖の近くには色とりどりの花が咲き、小川のようなものが流れ、そして美しい富士山が眺望できる。
 
 車を駐車場に停め、その場所に入りこむと、リサのテンションは上がった。それと同じくマチのテンションもあがったようだ。いつもより増して、あたりをキョロキョロと観察をして、まるで頭の中に記録をしているかのようだった。このエリアでは、ランチとしてピザなどを軽く食べ、桃がまるごと一個乗っかっていて見るからに映えるパフェを食べ、マチも少しもらってすごく喜んでいた。犬連れも多いが、なぜかマチはあまり気にならないみたいだ。リサもマチも満足そうにしていたのが、喜びでもあった。リサは、小物やアクセサリーの店を何軒も見て回った。そんなことをしているうちに気温が上がってきて、マチのハアハアが激しくなってきた。「そろそろ、ホテルに戻ってゆっくりしようか?」と言う僕の提案に、彼女は心残りがあったようであったが、マチの顔を見て承諾した。
 
 マチはどんなにへばっていても、やっぱり車に乗ると今度は助手席のリサの上に乗っかり、ずっと外を見続いていた。その光景を写真に撮る。すると、マチは、今度は自分の方にやってきて……。
 車は湖を来たのと反対方向の道をぐるりと走っていた。気持ちの良い風がマチの顔にあたって柔らかい毛が美しく揺らめいていた。
 
 ホテルに着くと、僕たちの部屋の棟と隣の建物の間のスペースにホテルの人がいて大きめなプールを用意していた。犬用のプールで、かなり暑くなってきたので出してきたと言う。「どうですか?」と言われると、リサは「ちょうどいいかも」といいながらマチをいきなり持ち上げ、プールに入れてしまった。
 過去、ハッピーとマチは一度だけ泳いだことがある。ブログで出会った茨城にいる犬友の所に遊びに行った時のことである。晩夏だったので、海の方面に行こうという事になり、その海岸の近くに犬が泳げる専用のエリアがあった。犬友さんから二匹ともいきなり海の中に入れられてしまったのだ。もともと濡れるのがあまり好きではなく、シャンプーする時も嫌がってあばれるくらいだった。特にハッピーは! でも海に入れられると、二人ともなんとなくうまく犬かきで泳いでいたのには驚いた。それを思い出していたら、マチは水の中で困ってしまった顔つきて、固まってしまった。でも冷たくて気持ちがいいのかもしれないと思って、しばらくそのままにしていたら、少しだけ泳いで、いきなりプールから出ようともがき始めた。
 リサが「ゴメン、ゴメン」と言いながらマチを持ち上げ板張りの床に置いた瞬間、いきなりブルブルブルと激しく身体を振って水滴を飛ばしまくった。その水しぶきを思いっきりかぶったリサの姿を見て、僕は大笑いをしてしまった。マチは“ウニャウニャ”と喋りながら、なんもいいようもない表情をしていたし、びしょびしょになったリサは、苦笑いをしていた。
 
 その日の夕食も、例の白いチワワには出会うことはなく、逆に隣の席にいた同じヨークシャーテリアを連れた老夫婦と話が弾み楽しい夕食となった。マチは老夫婦が連れていた小さなヨークシャーテリア二匹に挨拶をしたり、鹿肉の夕ご飯をおいしそうに食べたりして、穏やかに過ごしていた。
 その夜は食後の散歩の後に、フロントに併設されたバーで、マチと共にみんなで過ごしてゆったりとした時間を過ごした。
 こんな感じでリゾートホテルでの楽しい三日間はあっという間に過ぎた。僕は、ここに来ることができて、心から良かったと思ったし、リサもマチも楽しそうにしていたことが何より嬉しかった。おいしい食べ物はもちろん、自然の中で時間に縛られず、心も身体もリフレッシュできたのだ。
 そこでのマチは、様々なもの、例えば自然とか虫とか動物とかに関心を持ちじっと見つめていたが、その視線は観察をしている研究者のような感じがすることに気付かされた。そして、また近いうちに再びここを訪れたいと、皆が思っていた。ただ、あのレストランでのマチの威嚇の唸り声がずっと頭の中に残っていた。
 
Ⅵ 転換 ヒロキ
 リゾートホテルに泊まり楽しい時を過ごした翌年、とんでもない事が起きた。自分が書いて出版した唯一の小説――戦時中の従軍看護婦であった母をテーマにしたものだったが、それを映画化しようという話が偶然の“縁”から降って湧いてきた。僕は大の映画好き、いやマニアといってもよいくらいだった。だからこそ、映画や音楽に関わりたいがために、エンジニアを辞めて編集者兼ライターとなったのだ。まるで夢がいきなり眼の前に出現して、実現するかもしれない。大きなインパクトのある出来事だった。
 そのためライターの営業をセーブし、映画化のためのスポンサー集め、協賛、後援者集め、脚本の確認など忙しくも喜びの日々を送るようになった。その頃、マチも十歳となり、三回の出来物の手術から無事生還し、食欲もあり元気に過ごしていた。ハッピーがいないのにも慣れてきて、マイペースで過ごすようになっていた。
 映画化の話が出た年にも、あのリゾートホテルに再度行った。勝手がわかったせいもあるかもしれないが、よりリラックスできた三日間を過ごすことができ、リサもマチも前回よりさらに満足できた旅となった。もちろん僕にとっても――。
 
 旅から帰って来て残暑も終わりかけた時、マチに変化を感じるようになった。とにかく、日中寝ていることが多くなった。犬は一日十六時間も寝るという話を聞いたことはあるが、以前から比べると日中起きている時間が極端に少なくなり、起きている時でも、ウトウトしていることが多いのが気になった。歳をとったから? とは思うものの、あまりに眠そうにしているので心配になってきた。なんとなく表情にも覇気が感じられず、以前のようにおもちゃで遊ぶことも、おやつをねだることも少なくなってきた。
「マチ、いつも眠そうだね。具合が悪いんじゃない? 大丈夫?」と話しかけていると、その時は元気そうにふるまって、いつものようにウニャウニャと喋ってくる。まるで僕の言葉がわかるかのように……。何か重大な悩みがあるような気がしてならなかった。
 そしてある夜、不思議なことが起こった(気がする)。たまたま夜中に目が覚めてしまい、トイレに行く途中でリビングを覗いてみたら、消したはずのパソコンが輝いていて、画面が目にも止まらないほどの速さで変化をしている。そして、パソコンの前にいたのは、マチであった。暗闇の中で、マチがこちらを向き、目から光が放たれた。急速に眠気が襲ってきて、フラフラと寝室に行きベッドに潜り込み、意識を失ったように眠りについた。
 何か延々と同じような夢を観ていたようで、朝六時半にいつものように目覚めたら、なんとなく軽い頭痛がした。あたりはあまりに静かだ。いや静かすぎる感じがした。その中で、マチのクークーという寝息が聞こえてきた。ベッドから静かに起き上がると、足元にある犬用の二つのベッドの一つにマチがヘソ天になり、しかも赤い舌をチロッと出したまま気持ちよさそうに寝ていた。
 深夜にとんでもないものを見た気がした。マチが頭から細い触手のようなものを出し、パソコンを操作して、何かを調べている。まさか……それは現実か夢か判別がつかない。「マチ」と小声で呼んでみる。彼は少しだけ片目を開けたが、また寝息を立て始め、しまいには、いびきに変わった。
 きっと夢を見たに違いない。その後、慎重にリビングやパソコンを調べてみたが、何ひとつ変わったことはなかった。ちょっと昨夜は酒を飲み過ぎたせいかもしれない。そう思うことにした。マチは、いつもおっとりしている大切な家族であった。
 マチが、毎日眠そうにしていた時期は二カ月ほどであった。僕はあの夜以来、マチをよく観察するようになったが、この期間でどうも急速に年老いた気がしてならない。そして、二カ月間は何かマチの表情がどんどん険しくなっていき、疲れているのが明らかだった。そして何度となく夜中から朝方に、よくわからない早口のマチの喋り声がした気がした。彼は犬語をよく喋る犬だったが、何か異なっているようであった。それはすべて夢想で、現実ではなかったのかもしれない。どうしてもマチの雰囲気が違ってきている気がしてならなかった。
 ちょうどマチが我が家に来て、七年が経とうとしていた。ペット好きがよく使う“七回目のうちの子記念日”を迎える時が彼の疲労した感じのピークだった。
 
 二〇十八年の十二月のもリサとマチが揃ってクリスマスを迎えることができた。クリスマス・イヴにはマチ用のケーキを用意して、賑やかな夜を過ごした。その時にはマチはスッキリした表情に変化していた。すごく嬉しそうにケーキに加え、チキンもおねだりをして、いきなり元気になっていた。
「何かいいことあったのかい、マチ?」と彼に聞いてみると、首を傾げて、ちぎれるほど短いシッポを振っていた。本当に嬉しいことがあったんだな、と思えるようなテンションだった。ちょうどその時、僕の小説の映画化がほぼ決定しかけていて、僕たちのテンションも上がっていて、幸せなクリスマスから年越しとなった(だが映画化は、世の中の大きなうねりに大きく影響され実現することはなかった……)。
 
十三 猶予 マチ
世界中にちらばった宇宙犬の仲間は、どんな生活をしたのだろう? 一度集まって、話を聞きたいものだな、などと考えてしまう。
でも、今回の結論をみんなが賛成してくれたのだから、きっと充実した暮らしをしていたのではないのかな? とぼんやり考えていたら、その時、宇宙からメッセージが再び届いた。回答は意外なものだった。スペインの仲間だけを宇宙に帰して、あとは全員地球に残り、危険性を回避する任務にあたること。その期限は地球時間で三年。
その間に、様々な研究と調査を終えることも条件となっていた。研究の一番の目的は、我々の先に感情を取り戻す方法を見出すこと。それは必達ではないものの、もしそれを達成できれば破格の報酬と名誉を確約するという付帯条件もついていた。地球の価値を見出してくれたんだ!
僕にとって喜びに満たされる内容のメッセージだった。
さっそく各国にいる仲間に宇宙司令から来た回答を伝える準備をした。そのメッセージは簡単だった。危険性を回避し研究をするために三年の猶予が与えられた、と。
ただしスペインの仲間には丁寧なメッセージを送り、ねぎらいの言葉と、追っての指示を待つようにと伝えた。
今度はスペインから“すまない、ありがとう”という返信がすぐに来た。
その後、続々と仲間たちから喜びの声が集まってきた。三年――きっとすぐに経ってしまうだろう。これからが勝負となる。僕たち宇宙犬と、地球と人類、おとうさん、おかあさん、全てがハッピーエンドを迎えるために――。
 
この日から、僕たちは新たな使命を成功させるために邁進した。スペインの仲間は去ったが、あと二十九人の仲間が残って、同じ意思の下で情報を交換し力を合わせて行動していった。今までは静かに情報を得て分析し、理論的に報告をまとめていくだけだったが、今は違う。
地球を守るため、人の思考と行動を変革しなければならないのだ。どうやって実現させるか? 多くの仲間と同時に夜な夜なテレパシーで交信し合い、時にはテレポーテーションで移動し、視察をしたり、技術的な研究をしたり、とても忙しい日々が続いた。
しかしそんな中でも、僕はおとうさんたちのワンコであり、日中は楽しい日々を続け、ハードな一日になることも多かった。できるだけ昼は、休息を取ることにしていた。
幸い僕は犬の年齢としてシニアになりつつあり、それも許された。
ある時、いきなり疲労を感じた。それは一時のことだと思っていた。しかし少しずつ体力が落ちてきたことを実感するようになってきた。特にごはんを食べた後がよくない。
すぐにゴロッとして、眠くなってしまうんだ。暑さにも弱くなってきた。前なんか炎天下で歩いても、水を飲めばすぐにいつものように復活したのに、今はすぐにゼイゼイしてしまい、歩きたくなくなってしまう。
それがどうしてなのか、理解するまでに時間がかかった。世界中にいる仲間の大半も同じような状態になってきた。根本的な原因であった。それは犬の寿命。僕たちは犬に乗り移って、基本的には、犬の身体に宿り使っていた。地球上の犬の寿命は十五~二十年。僕が乗り移った小型犬のヨークシャーテリアで、これくらいの寿命だが、中・大型犬に乗り移った仲間はもっと早く老化が始まる。
この老化が、体調に問題を引き起こした原因なんだろう。僕の宿犬は、十二歳になる。ということは、あと三年経つと間違いなく老犬の域に入る。
果たして体力が持つのか? 地球を改革するまで……。いきなり不安になってきた。宿犬が死んでしまうと、僕も消えるか、その前に抜け出して宇宙に還るかしなければならない。とにかく時間が長くなればなるほど、状況は厳しくなる。
早く、早く、急がなければ――。人間の危険因子を取り除くのだ。いきなり焦りが出てきた。 とにかく仲間にこのことを理解してもらい、協力して事を一刻も早く進めなければならない。元気で動ける時間は意外と短いんだ!

↓「宇宙犬マチ」第5話に続く

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