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耽美的絶望詩篇 死寝

はしがき

 この物語は、「爆裂愛物語」を描く約1年? ほど前に執筆した作品で「完全なる悪の物語」を創ってみよう、という、遊び心で描いた作品です。読んで頂くと判るのですが、ハンスの存在や大神島の秘密など、「爆裂愛物語」に繋がる設定がいくつかあります。「爆裂愛物語」のプロトタイプ、のような気持ちで、おまけのような感覚で読んで頂ければ幸いです。

序章

 あなたが聡明な方ならば、涙は零さず考えてほしい

一九四五年八月六日──

 その日の朝はいつもと同じ朝ではなかった。まず、早朝七時過ぎに空襲警報が発令され、防空壕に避難する者が続出した。しかしすぐに警報は解除され、安堵した人々は日常に戻っていった。
 だが……午前八時十五分、それは、第二の警報をアナウンサーが読み上げる最中だった……広島に新型爆弾が落とされた。新型爆弾の名前は原子爆弾。通称原爆だ。
 投下された場所は広島市中区中島町──つまり、現在の平和記念公園のある場所だ。爆発が起きた直後は閃光が発生し、巨大なキノコ雲が発生した。
 その後に凄まじい衝撃波が襲い、衝撃によって建物が次々と倒壊してく。また、爆風により大量の放射線物質を含んだ灰塵が巻き上げられてしまった。そして……爆心地となった市街地には多数の死者が出た。中には全身が黒焦げになって死んでしまった者もいた。被爆地には生存者もいたが、彼等の多くは重度の放射性障害を負うことになる。
 だがその地獄のような光景の中にあっても、 人々は自らの死を受け入れることができなかった。死の瞬間まで生きようと足掻く者もいた。だが、そんな者達でさえ死に絶えていった。やがて、街や人々の全てが燃え尽きると、 そこにはただ阿鼻叫喚だけが残された。
 その中をひとりの少女が歩いていた。少女はまだ生きていた。ただ、全身に大火傷を負い、皮膚は焼け爛れていた。
 少女は自分の身体を見下ろした、醜い姿になった自分の姿を。
「わたしは……」
 呟きながら顔を上げた。
「あぁ……」
 視線の先にあるものを見て、少女は愕然とする。そこは闇だった。
「此処があの世なのかしら? でも、それならどうしてお父さんとお母さんがいるの?」
 少女は両親に尋ねた。両親は哀しそうな表情を浮かべている。少女の質問に対して父親が答えた。
「ここは天国ではないんだよ」
「じゃあ、どこなの?」
「地獄の手前だよ。この世とあの世の間にある場所なんだ」
「そう……やっぱり逝けども地獄なのね…………」
 少女の顔に諦観の笑みが浮かんだ。平等なのは死だけなのだと……一瞬の白昼夢が囁いた。そして黒い雨が降る。
 地獄の真っ赤な業火に降り注ぐ、まるで天上から零れた暗黒のように。生あるモノはその放射性物質に汚染された雨を求めるように吞み、すでに息絶えた亡者たちは骸を黒く染めていった。

 孤独の神が棲む島の伝承をあなたに託しましょう


第一章

 忘れたかった君はトゥンバラぬミササギへ昇り

 闇を彷徨う青年──彼はある日を境に自分が変わっていくことに気づいた。悪夢を見ることが増えてきたのだ。内容はいつも同じだった。黒い海の中へ、まるで地獄から逃げ延びようとするように堕ちていく……女性に抱かれた幼児、息を絶えていく姿はかつての自分だと彼は気づいていた。
 悪夢を見るたびに精神は徐々に蝕まれていった。やがて……彼の中で変化が起き始めた。夢の中の彼が現実の彼に影響を与え始めていたのだ。そして遂に──
 彼は眼を醒ましたまま悪夢の世界に入り込むようになった。現実にいる自分を夢の世界の自分が侵喰していく……
「……」
 微睡みながら、この扉の向こうに人の気配を感じた。
「……」
 何年だろう、この闇に閉ざされて……人の気配を感じたのは。
「やめようぜやっぱり」
「ハハッ、お前度肝ねぇな」
 それは若い青年たちの声だった。
「これが知る人ぞ知る大神島の心霊スポット、地獄神社……か」
 彼らは肝試しにやってきた大学生たちだ。五人組で、それぞれ別々の大学に通う仲良しグループだ。彼等の目的は地獄神社の奥にあるという祭壇を写真に収めることだ。
 彼等が今いる場所は地獄神社の境内だ。普段は誰もいないはずのその場所に五人はいた。
「噂によるとな、この神社のどこかに神の木乃伊が安置されているらしい」
「へぇー」
「それで……それをお参りすればご利益があるとかって都市伝説聞いたんだけどよ」
「けど?」
「それだけだ」
「なんだよ、つまんね」
「いや、他にもいろいろあったんだよ。ほら、例えばなその木乃伊の正体は……」
「ああ、いいよもう。聞き飽きたわ」
「そっか、悪いな。じゃあ行くか」
「おう、そうだな。……ん? 何か聞こえないか?」
「えっ、マジで!」
「ほら、微かに……ダシテクレ、オレヲ此処カラダシテクレって」
「マジ! 心霊ゲンショーじゃん?」
「それ、神社の中からだろ!? 行こうぜ!!」
「ちょ、待ってくれよ! おい、どこに行くんだよ!!」
 彼等は闇の中へと足を踏み入れた……目の前に大きな鳥居がある。向こうに廃墟の社殿が見えた。しかし、彼等は足を止めなかった。躊躇することなく鳥居を越え……境内の中央辺りまで歩いたところで突然、先頭にいた男子学生が立ち止まった。それに釣られて他の四人も立ち止まる。すると……ガタッ!!  何処からか物音がした。全員驚いて周囲を見廻す。
「なんだ今の音?  なんか動いたよな?  なぁ……」
「さぁ、分かんねぇ……」
「もしかしたら……」
「まさか……そんなこと……」
「……」
「なぁ、どうする?」
「でも、確かに誰かいたような……」
「行ってみようぜ!」
「あっ、待てよ!!」
「ちょっと、みんな落ち着いて」
「でも、あれは絶対に人が動いてたよね?」
「いや、気のせいだって」
「でもさ、本当に聞こえたんだよ」
「分かった、俺が悪かった。だから落ち着け」
「……」
「……」
「え……聞こえる?」
「!?」
「ほら……男の声……」
「やめろって」
「だって聞こえるよ!」
「!?」

 その時だ……廃墟の社殿の奥、座敷の奥、鎖と御札に隠された扉から、男の声がした。

“助けてくれ! そこの人たち!”

「見ろ! やっぱり居るんだ、俺たち以外にも!!」
「そうみたいだけど、行かない方がいいかも」
「どうしてだよ、優香?」
「だって、あの神社から変な感じがするんだもん」
「はぁ?  ただの御札だろ?」
「いや、違う……」
「とにかくほんとに人だったらヤバいじゃん! なんか事故とかで死にかけていたら」
「そうだな、確かめるだけなら大丈夫だろう」
「ダメ、私は行きたくない。ねぇ、みんな帰ろうよ。お願いだから」
「なんでだよ! 人助けだろ?」
「お願い。嫌な予感がするから……帰りたい」
「俺は行くぞ」
「そうだな」
「ちょっと! あんたたち止めなさいよ!!」
「お前らはここにいろ。俺だけでいい」
「あ……」
 拓哉は足早に廃墟の社殿へ入っていった。
「拓哉、ダメ!!」
 彼女の叫び声も虚しく、彼等は闇の中へ消えていった。神社の中にいる人間を助けるべく、彼等は神社の奥へ進んだ。そこは真っ暗で何も見えない。ゴクリと唾を吞んだ彼等は手に懐中電灯が握った。闇に光を照らす……ゆっくりと進む彼等の前には拝殿がある。その奥に祭壇があるハズだ。
「ここか……この先が本殿か」
 彼は闇の中で立ち止まり、息を整える。そして意を決して足を踏み入れた。
 闇を抜け……祭壇のある本殿に入ると彼は息を呑んだ。信じられないモノがあったからだ。
「これは……血痕か?」
 彼は恐る恐る床へ近付いた。血溜まりができていたのだ。それは明らかに人のモノだ。
 その光景を見た途端、彼の心臓の鼓動が激しくなった。全身に鳥肌が立ち、身体中の血液が逆流するような感覚に襲われる。彼は必死に落ち着こうとした。
 何故こんなモノが……?  一体ここで何が起きたというんだ?  彼は恐怖で震える足を何とか動かし、周囲を見廻した。しかし……そこにはただ静寂があるだけだ。祭壇にも人影はない。

“頼む……もう、死にそうだ”

「!?」
 座敷の奥、鎖と御札に隠された扉から、男の声がした。扉は不気味な空気と邪悪な悪意を孕んでいた。しかし男の声は、それ以上に彼らの意識を駆り立てる。助けなければ、と。

「おい、聞こえたか?」
「どうしよう……」
「そうだな……大輝、悪いけど警察に連絡してくれないか?」
「分かった」
「ねぇ、やっぱり止めようよ。あとは警察に頼んだ方が……」
「いや! 手遅れになるかもしれない!」
 そう言って拓哉は、扉の取っ手に手を掛けた。
「待て!!」
 大輝は咄嵯に叫ぶが遅かった。

 ガタッ!!  鎖と御札に隠された扉が音を立てて開く。するとそこには……男がいた。ボロボロの着物を着ていて、包帯だらけの体。顔色は青白く生気がない。手足の指は腐っていて骨が見えている。その姿はまさに地獄から這い出た亡者……
「ひっ!!」
 木乃伊がそこにいた。
 拓哉たちは声にならない悲鳴を上げる。恐怖のあまりその場に立ち憑くす。彼等の体は凍ったように動かない。心臓の鼓動が加速し、呼吸も荒くなる。今すぐにでも逃げ出したいのに、何故か足が一歩も前に進まない。まるで金縛りにあったようだ。
「百年ぶりだ……外の空気も、人間も」
 木乃伊は先ほどとは打って変わって、しゃがれた低い声で言葉をもらす。とても人間とは思えないような禍々しい声だ。
 彼等は目の前の異形の存在に恐れ慄く、言葉を失ったかのように……彼等の口は魚の干物のように乾燥していた。恐怖と緊張で舌が乾いてしまったのだ。喉が渇く。息苦しい。汗もかいていないのに体が湿っているような気がした。
「礼に地獄に送ってやるよ!」
 男はニヤリと口元を歪めた。その眼は笑っていない。表情には狂気すら感じられる。男は日本刀を片手に握り、勢いよく彼等に向かって振り降ろした。

「!?」
 外にいる優香が、邪気を感じとったのかハッと社殿に眼をやった。
「拓哉……?」
 心配そうな眼差しで社殿を見ると……扉の隙間からは恐ろしい光景が広がっていた。
「お前らぁ!!」
「うわああああっ!!」
「嫌あぁ!!」
 拓哉が彼等を庇って木乃伊の刀を受け止めたのだ。そのおかげで彼等は命拾いをしたのだが、それと引き換えに拓哉は傷を負った。
「木乃伊だ……神の木乃伊……安徳天皇の呪いが!」
「拓哉!」
「逃げろ!  俺を置いて! 早く!」
「ダメだよ!  見捨てられないよ! 絶対! 」

「おい、何をゴチャゴチャ話してるんだ?」
「!?」
 木乃伊は不気味な笑みを浮かべながら地獄神社の闇より這い寄ると、傷ついた拓哉を見降ろす。
「どうした?  もう終わりか?」
「ぐっ……」
「 ハッ……あっけねぇな、人間が」
「まだだ……俺は死なねぇよ!」
拓哉は痛みに耐えながらも、何とか立ち上がろうとするが……
「!?」
 木乃伊は容赦なく拓哉の体を引き裂いた。
「拓哉!!」
「皆殺しだ」
「!?」

 数分……ものの数分で、彼らは地獄を見た。目の前に広がる、この世のものとは思えない恐ろしく残酷で……悲惨で、眼を覆いたくなるような地獄絵図を……
 あまりにも突然のことで、誰も身動き一つとれなかった。ただ……目の前の光景を受け入れるしかなかった。そして誰もが地獄に堕ちた。
「ひゃーっはっはっは!!」
 木乃伊は狂ったように嗤った。そして刀を地面に刺すと、大空に向けて叫んだ。
「鬼畜米英共! GHQ共! 呪さまが黄泉還ったぞ!!!!」
 やがて大空に暗雲が立ち籠め、雷鳴が轟く。稲妻が天を切り裂き、地響きと共に大地が揺れる。それはまるで、これから起こることの前触れのようだ。
「戦争だ!  戦争でオレたちの時代がやってくる!!」

“大日本帝国万歳!!”

 大神島……元々は被差別部落民が海を渡り集まってできた孤島だった。だが日本軍が太平洋戦争末期に地図から消した。そこに生物化学兵器の研究施設を建造したのだ。そこでは人体実験をしていたという噂もあった。それから100年の時を経た今、かつての施設はすでに朽ち果てており、人の気配はまるでなかった。
 しかし森の奥の方にぽつんと建つ古びた社殿……その社殿は地獄神社と呼ばれていた。この廃墟に近づこうとする者は滅多にいない。なぜならそこは……この島の先住民族である神の民が眠ると伝承されていたからだ……。昔から島の禁忌とされていた。しかしここ最近、地獄神社はネットで心霊スポットと話題になる……
 そんな廃墟から突如異形の存在が姿を現した。それはまるで……屍のような風貌だった。だが彼は生きている……血を流しながら歩いている……
 呪の身体は、全身包帯だらけで、包帯からは血が流れ堕ちている。彼は無言のまま……ゆっくりと集落へ歩きだしていた。すると一人の青年が近づいて来た。青年は彼の姿を見て一瞬たじろいだ。その刹那……彼は青年に斬りかかった。グシャッ……青年の悲鳴と共に、血飛沫が噴き出した。青年の臓物が辺りに跳び散る。呪は返り血を浴び、包帯にも血痕が憑く。
 すると彼の前に別の人間が駆けて来た。集落の者達だった。彼らは手に石を持っている。
 呪の姿を捉えると、皆怯えきっていた様子だったが……それでも必死に彼に襲い掛かって行く。だが呪は襲いかかってくる彼等を、刀で容赦なく斬り裂いていった。そして集落に火を放つ。

 南風(パイカジ)の吹く季節、この島に地獄が降りてきた。

 金髪の青い瞳をした綺麗な顔立ちの美少年がいた。彼の名前はハンス。ハンスはアマゾンの奥地にやって来た。そこには、かつて研究施設があった。今はもう廃墟と化しており、緑に埋もれている。周辺には髑髏がいくつも転がっていた。この森の奥には……ハンスの先祖たちが眠っている、そして……今も。そこに辿り着くと、彼は祖先たちの墓を見つけた。そこに墓石などはなく、大きな木の下に埋葬された跡だけが残っている。
 墓の前には……一人の女が待っていた。彼女は長い金髪に、ハンスと同じ青い瞳をしていた。肌は透けるように白く、まるで雪のようだった。彼女は白いワンピースを着ていて、裸足で、とても清楚な感じだった。そして……首筋には赤い蛇のような入れ墨が彫られていた。彼女はハンスの姿を見ても全く動じず……微笑み……優しく話しかけてくる。
“ハンス……やっと来たね”
 彼女はそう言って立ち上がる。
“ただいま”
 ハンスはニコリと微笑んだ。

 それから二人は見つめ合い、何も言わずに森の中へと消えていった。

 その日を境に、アマゾン川に次々と死体が発見された。彼らは首を鋭利なもので切られていた。まるで何かに怯えているかのように、皆、一文字に口を開けて死んでいった。その中には、若い女性や子どももいたという…………。
 人々は恐れ慄きながらも、これら一連の事件には関連がないと思い込もうとした。しかし、事態は日に日に悪化していくバカリだった。やがて死者数は数百にも上る数になった。民衆の不安が頂点に達し、大きな社会問題となった頃、政府はこの事件をアマゾンの呪いとして公表した。それは……あまりに現実離れした内容であった。

「これは……神の怒りである!  アマゾネスの仕業だ!」

 政府の発表に対して民衆は猛烈に反発し、怒りを爆発させるようにデモを起こした。連日のようにデモ隊が官邸前に押しかけ、火炎瓶を投げつけた。
 デモが日に日に過激さを帯びる中、ついに政府は重い腰を上げた。真相究明のための特別調査委員会を設置したのだ。しかし調査委員会をもってしても、事件は中々解明されない。これら一連の事件は、大きな社会問題として恐怖されるようになった。正体不明の痕跡なき犯行を前に、人々はそれを超常的な神の怒り、いや……悪魔のせいとするしかなかった。

「なぁ……知ってるか? ここ最近起こっている連続殺人事件の話をよぉ……」
 ここは、南米奥地の密林。辺り一帯は、深い霧に包まれている。まるで異世界のようだ。 その薄暗い森の中を一人の男が歩いていた。彼は、政府特別調査委員会の1人だ。
「あの殺人鬼は今どこにいるんだよ」
「わからねぇ……ただ、この近くにいるとふんでる」
「早く捕まってほしいぜ」
「そうだな……不安でしかねぇよ」
 村人たちの不安を余所に、男はスタスタと歩いていく……夜はとても静かだった。今日もまた、いつも通りの夜が訪れるハズだった。しかし、今夜は何かが違う。どこか禍々しい。それは、このアマゾン川のせせらぎや、夜空に浮かぶ月や星たちさえも気づいていたのかもしれない。凍てつくような、この月夜に。

 アマゾン川のほとりにポツンとある小さな村。村の広場には、いくつものテントが張られている。そして沢山の人々が賑やかに酒を飲み交わしていた。宴会が行われていたのだ。
 しかし、この村でもすでに死人が何人も出ているらしい。それもつい最近殺されたようだ。この辺りの村や町でも噂になっていたが、実はこの村の住人たちの間では……
「首に蛇の入れ墨をした女が出るらしいぜ」
「首に蛇の入れ墨をした女って、あれか? あのアマゾンにいるっていう……」
 という話が噂レベルで流れていた。その話をやっと政府特別調査委員会の男が聞きつけてきた。
「その話、もっと詳しく聞かせてくれませんか?」
 村人たちの不安を余所に、スタスタと歩いていた男……黒いスーツ姿の男がそう訊いた時には、
「!?」
 もう……手遅れだった。
「火だ! 火事だ! 火事だ!」
 炎が、ごうごうと音をたてながら村を呑み籠んでいく。何も見えない、何も聞こえない、何もかもが燃えていく……ただただ赤い。熱気がここまで伝わってくる。熱い。喉が渇く。息が苦しい。汗が噴き出す。体が重い。頭が割れそうだ。それでも男は走り続ける。少しでも遠くへ逃げなくては……奴が追ってくる。振り返る必要はない。あの音はどんどん近付いてくる。あいつはもう、すぐ近くにいるはずだ。だが男は足がもつれて派手に転ぶ。
「っ!」
 慌てて顔をあげると、目の前に、青い瞳をした綺麗な顔立ちの美少年が立っていた。それは安心してしまうような優しい声色で話しかけてきた。
「この世界は穢れています。この世界はとても美しいです。この世界は醜く愚かです。この世界で……」
「!?」
 少年は銃を男の額に当てた。
「存在に耐えられない透明な僕を、よく見つけようとしましたね」
「ひっ!」
「恐いですか? 死ぬのは恐いですか? あなたはなぜ泣いているのですか?」
「あっ、ああ……」
「あなたは一人ですか? これから一人になるのですか? 友達はいますか?  親は?」
 優しい声だった。あまりにも……安心してしまうほどに。
「あなたには判らないでしょう?  平等なのは、死だけだということを」
 ハンスは冷たく引き金を引いた。

 凍てつく月夜、ハンスはアマゾンの奥地、かつて研究施設に来た。今はもう廃墟と化しており、緑に埋もれている。周辺には髑髏がいくつも転がっていた。この森の奥には……ハンスの先祖たちが眠っている、そして……今も。そこに辿り着くと、彼は祖先たちの墓を見つけた。そこには墓石などはなく、大きな木の下に埋葬された跡だけが残っている。
「ハンス、よくできたね、あなたはもう、死を憶えたわ」
 墓の前には……一人の女が待っていた。
「ありがとう」
「さぁ……これが最期」
「ママ」
 凍てつく月夜にうつし出されたハンスの顔は……あまりにも純粋で美しく、残酷なほどに……美しすぎた、まるで氷細工のように……透き通るように。
「最期の実験よ」
 女がそう言った時、すでにハンスは銃を握っていた。女は……微笑っていた。
「僕は平気だよ、何も感じない」
「そう……完成ね。WereWolfは三世にしてついに完成したのね」
「ママ、入れ墨は?」
「あなたはいらないわ、もう……この地を去るから」
 彼女の脳髄を銃弾が貫通した。女はその衝撃に耐えきれず、ゆっくりと崩れるように倒れる。ハンスはそれを見降ろすように見つめていた、彼女の脳髄から噴き出した血を、頭からドッとかぶって。

 月が雲に隠れる頃、アマゾンの奥地に、男たちがやって来た。男たちの目にうつるものは……かつて研究施設だった廃墟。今は緑に埋もれている。その廃墟に男たちが入って行く。そしてその奥には……かつて研究施設があった。そこは、今は完全に廃墟と化していた。そこには、かつては白衣に身を包んだ研究員たちが働いていた場所。今はもう誰もいない。そこから更に奥に……WereWolfの先祖たちが眠っている、そして……今も。そこに辿り着くと、彼等一世と二世たちの墓を見つけた。そこには墓石などはなく、大きな木の下に埋葬された跡だけが残っている。墓の前には……
「WereWolf三世。お迎えに上がりました。」
 一人の男が待っていた。
「!?」
 ちょうど月が雲から顔を覗かせ……凍てつく月光がうつし出す。ハンスはニヤリと微笑んだ、真っ赤な血にまみれて……あまりにも、あまりにも綺麗な笑顔を浮かべた。そんな彼の背には……ハーケンクロイツがあった。

“ジーク・ハイル!!”

 アメリカ西海岸の製薬会社、Dr.グリーが行方不明になった。彼の研究室からは謎のメモ書きが見つかった。そこには……彼は『死者再生薬』と呼ばれる新薬の開発に携わっていたということ、それを注射する副作用で身体の一部が変形すること、結局長くは再生できないことが綴られていた。さらに彼は手記を遺していた。

 “あの男は悪魔の化身だ” この一言から始まった手記の内容はあまりにもおぞましく、冒涜的で、残酷だった。彼はこう続けた。

《私は、私の愛する家族を取り戻す。そのためならば手段を選ばぬ》 《まず初めに、妻と息子が失踪してから一年半後に私は妻の死体を見つけた。それは妻の残骸にすぎなかった。頭部以外はすでに別の何かに変化しており原型すら留めていなかった》 《あの時、妻の変わり果てた姿を見た瞬間、私は確信した。妻はあの男の儀式、いや……実験に使われたのだ。恐らく息子ももう……》《私はあの男の悪逆非道、いや……悪意を、白日の下に曝さなければならない……》

「ククククク、バカな男だ」
 アビスは不敵な笑みを浮かべ、手記を閉ざした。視線の先には……Dr.グリーの変わり果てた姿があった。皮膚は爛れていて、ところどころ血肉が跳び散っている。顔も身体も原形を留めておらず、その醜さはまるで怪物(モンスター)だ。死体の廻りには無数の肉塊や血溜まりがある。アビスはそんな光景を眺めながら右手に注射器を取り出した。中には紫色をした謎の液体が入っている。それをゆっくりと眺めたあと、Dr.グリーの血管へと突き刺すように挿入していく。紫色の怪しい液体が注入されると同時に、Dr.グリーの死体に変化が起き始めた。まず、顔が醜く歪んでいく……やがて皮膚が爛れていき……そのまま溶けるように消えていった。
「これも失敗か、『DARK GHOSTS』死者の再生薬」
 失敗というのにアビスは楽しそうに嗤う、まるでDr.グリーの苦痛と苦悩を嘲嗤うかのように。
「ジャップは昔成功したって言うけどな、『タイラ』の何とかって一族の怨霊で人体を強化する術に」
 そう言ってアビスは懐から一本のボトルを取り出し、中の透明な薬品を呑む。すると彼の姿が徐々に変わり、やがて肌の色や髪色などが変わっていく。そして、彼の左頬には、黒い逆十字架が現れた。

 アメリカ西海岸の外れにダーク・フォレストと呼ばれる森があった。そこは昔から悪魔崇拝の儀式や魔女狩りが行われていたと言われる場所だ。
 ダーク・フォレストに一人の男がいた。男の名はアビスと言う。アビスは黒い三角頭巾の男たちを連れている。彼らはみな手に松明を持っていた。やがて彼らは黒い森の奥……大きな十字架に火を灯した。4月30日、ヴァルプルギスの夜……儀式を始めるのだ。そこには一人の処女の死体が吊るされていた。黒い髪の東洋人だ。アビスは処女の髪を掴んで顔を見た。彼女は苦痛に満ちた表情のまま凍結している。死んでからもなお、犯され続けるように……。
「俺は『悪魔に愛された人間』だ。俺のことを悪魔と呼ぶ者もいれば死神とも呼ぶ者もいる。今宵貴様の血と魂を持って、もっと力を」
 彼は左手の人差し指と中指の間に挟んだ小さなナイフのような物を見る。それは注射器だった。中には紫色の怪しい液体が入っている。それをゆっくり眺めたあと、アビスはニヤリとした表情を浮かべ、
「実験材料(モルモット)になってもらうぞ、女」
 そう言い放った瞬間、ドシャッ グチャッグチョ ブチッ バキッ ゴキィッ……生々しい音を立てながら処女の死体が妖しく蠢き始めた。彼女の皮膚の下から無数の白い手が這い出てくる。まるで蛹から抜け出てきたかのように。
「死者よ眼醒めたまえ」
 彼女はギョッと白眼ひんむくり、口を開いた。そこから無数の腕が溢れ出す。手は一斉に伸びてきてアビスの体を掴みにかかった。しかしアビスはその腕をことごとく切り裂きながら嗤っている。彼の眼はやドス黒く、瞳孔が真っ赤に染まっていて、まさに悪魔の形相であった。アビスは、処女に向かって優しく微笑みかける。しかしその笑顔に温もりは感じられない。
『日本……人……眼醒……めた……』
 彼女は声にならない声で何か言っているようだ。
『孤島……大神……神社』
「大神?…………!? それはジャップの決戦兵器のことか! マッカーサーが神社に封印した!」
『鍵……十字も……大神に……あなたに……似てる……男が』
「鍵十字? ナチスか……? オレに似てる…………!? WereWolf! ナチと奴も、大神に」
『呪…………怨……念』
彼女は白眼からポツリと涙を零した。
『私も…………遊びたかった…………だけなのに………………』

 そう唇が動くのを最期に、彼女は息絶えた。アビスはその光景を満足気に見届けたあと、空を仰いだ。そこには赤い月があった。アビスはニヤニヤと嗤う、まるで無邪気な子どものように。

 大神島にひとつの船が上陸しようとしていた。船にはハーケンクロイツの旗がなびいている。彼等が上陸すると、まず目についたのは死体だった。この島はどこもかしこも死臭に溢れていた。真っ黒い焼け跡があり、骨や白骨死体、肉片や皮膚の一部などが散乱している。思わず戦争によるモノかと錯覚してしまうほどだ。この光景を見た男たちは、みな思わず口を塞ぎ吐きそうになっていた。しかしその中で一人、ハンスだけは違った。ハンスは白いスーツ姿で死の中をスタスタと歩いていく。あまりにも無表情に、あまりにも平然と、まるで感情がないかのように歩いていた。ハンスが目指すのはこの山の上……
 トゥンバラと呼ばれる大きな岩の上に、彼は立っている。赤い月を背に、地獄の創造主はたったひとり、包帯をなびかせていた。
「ようこそ。ここにはもう、生きた人間はいない」

 トゥンバラから降り立った男は、低くしゃがれた声だ、まるで地獄の木霊のように……瞳の奥には憎悪と怨念が籠っていた。
「呪……大日本帝国の決戦兵器。人体実験のなれの果て」
「大神の魔物(マズムヌ)……と言ってほしいな」
「魔物(マズムヌ)か……この島に隠された怨念、トゥンバラに捧げた木乃伊の怨念を、当時の陰陽師がひとりの男に集めた」
「本当の名は忘れたよ、隠された最期の始祖伝説(ニーリ)のように」
「孤独の神が棲む島か……」
 ハンスと呪の言葉が重なる。二人の背後からは潮風が流れてきた。ハンスの足元には、かつて集落だったものの残骸がある。そこには血や骨が散らばっていた。
「同盟を組もう、共に地獄と絶望を。この世界に復讐を」
「……」
 ハンスはニヤリと微笑んだ。呪も、同盟という言葉を聞くと笑みを見せる。包帯から出ている口元をニヤリと歪ませた。
「おもしれぇ、大日本帝国とナチス第三帝国は……かつて盟友だったな」
 二人の背後からは潮風が押し寄せる。風が二人の背中を押した。ハンスと呪が手を握った瞬間、世界が凍った。時間が止まった。出逢ってはならなかったふたつの闇……それが手を握った瞬間は、歴史が動いた瞬間だ、そう……破滅へ。

 裏切った想ひ出さえ、これが最期の始祖伝説(ニーリ)

第二章

 子宮(アガミクル)に神(ガン)とぅ祈った

 呪が眼醒めたとき 神(ガン)が 魔物(マズムヌ)となったのだろう。 大神(ウプガン)は やがて終わる。隠された始祖伝説(ニーリ)の続きが始まった。 その時は すぐそこまで来ていた。
  呪とハンス、二人はアラーン浜で口を開き、詠(ユーシヌフサ)を風に流した。祖神祭(ウヤーン)を始めたのだ。

“親神(ウヤガン)は子神(ファヌカン)。子神(ファヌカン)は親神(ウヤガン)。トゥントゥナギ、トゥユマシ。トゥントゥナギ、トゥユマシ”

 詠(ユーシヌフサ)は祖先の記憶を呼び醒ます、男神(アカザラぬアカダイぬマヌス)が女神(パマサトゥヌス)に口づけする記憶を。女神(パマサトゥヌス)は一条の涙を零す。
“総ての魔物(マズムヌ)は、誰かに愛されたかったという。愛されたかったのに愛されなかった。だから魔物(マズムヌ)になった”
 男神(アカザラぬアカダイぬマヌス)は静かに答えた。
“オレは誰かを愛したかったんじゃない。オレは誰かに愛されたかったんじゃない。オレは、ずっと……”

“親神(ウヤガン)は子神(ファヌカン)。子神(ファヌカン)は親神(ウヤガン)。トゥントゥナギ、トゥユマシ。トゥントゥナギ、トゥユマシ”

 呪とハンスは歩き出す、失われた始祖伝説(ニーリ)の続きへ。アラーン浜の白を、やがて闇が覆う……月喰が始まったのだ。

 大神(ウプガン)、祖神祭(ウヤーン)

 闇、闇、闇、闇…………光など何処にもなかった。あるのは闇の中に揺らめく、紅い瞳だけ…………。闇より深い漆黒の髪、闇に堕ちた太陽の色をした右眼、月の雫の色に染まった左眼…………呪は生まれた瞬間から孤独だった。呪は生まれて間もなく実験体にされた。彼は何も知らず、人として生きることを赦されず、人柱にされた。彼は自分の名前を知らない。名前を呼ばれず、誰を愛し、愛されることもなく……。……これは……夢……?…………
「おはよう、呪。悪夢は見れたかい?」
 優しい笑顔を浮かべて少年は言った。呪は彼のことをよく知っている。彼が誰かも、今、自分が何処にいるかも……。ここはトゥンバラの麓の洞窟(ガマ)だ。彼の名はハンス。彼は現在のナチス党党首こと総統だ。ハンスは呪に話しかけてきた。呪が眠っている間もずっと。
「ハンス……」
「どうだい、呪、気分は?」
 その問いに、呪は首を横に振った。気分は良くない。頭が割れそうなほど痛み、頭の中にモヤがかかっているようだ。意識がまだはっきりしていない。体を起こそうとするが、頭痛のせいで集中出来ない。痛みは酷くなる一方だった。
「……ッ」
 呪は頭をおさえるが意味はない。ただでさえ痛いというのに、余計痛くなってしまっただけだ。それになんだか息苦しい気がする。気のせいだろうが……。
「大丈夫? まだ起き上がらない方がいいんじゃない? 無理はしない方が……」
「……」
 ハンスの声を無視して、呪はゆっくりと体を起こした。少し動いただけでも頭に激痛が走る。呼吸をするだけで辛いくらいなのに……なぜ?……呪は自分に問いかける。なぜ?……そんなのは決まっている。答えはすぐそこにある。この苦痛が……この辛さが……生きている証だからだ…………。
「早速だが始めよう、呪術を」
「……」
 ハンスの指示に従って、彼は立ち上がるまま歩き出した。体がふらつくが気にせず、前へ進む。早くしないと……また意識が飛んでしまう。
「さぁ行こう、同志よ。僕らの復讐が始まる」
 ハンスはニヤリと微笑んだ。案内された洞窟(ガマ)の奥は、無数の蝋燭が照らしている。ハーケンクロイツの縦旗と、大きな双頭の鷲があった。中央にブリル協会の「黒い太陽」が掘られていて、廻りをラマ僧が取り囲んでいた。呪は、洞窟(ガマ)の中央へと進む。「黒い太陽」の中心に立った瞬間、全身が痺れるような寒気を感じた。鳥肌が立つ。心臓が激しく脈打っているのが判る。ラマ僧たちは呪言(マントラ)を唱え始めた。呪もそれに続く。

“親神(ウヤガン)は子神(ファヌカン)。子神(ファヌカン)は親神(ウヤガン)。トゥントゥナギ、トゥユマシ。トゥントゥナギ、トゥユマシ。”

 すると、「黒い太陽」は黒い光を放ちながら輝き出す。そして眩しい閃光を放った後、それは形を変えていった。呪がそれを見つめると、まるで自分がそれになってしまったかのような錯覚に陥った。黒い光を放とうとしている自分を想像する。やがて呪は、黒い光に包まれてしまった。光が消える。

 アメリカ、ニューヨーク、暗黒街に戦慄が走った。マフィアのボスの死体が発見されたのだ。男は、胸に大きな穴が空いて即死だった。額にはナイフで666と刻まれていた。傷口は焼け焦げている。現場のアパートで男は血を流さずに殺されていた。
 同時に、裏社会絡みの巨万の富が動いた。それはニューヨーク株価を左右するほどであり、世界恐慌の再来を招くと恐れられるほどの大きな動きだった。
 警察は、この事件が猟奇殺人事件であるとして、ニューヨーク市警本部より特別捜査班を設置したという。またFBI(アメリカ合衆国連邦警察)も動き出し、ニューヨーク市警察の応援を仰ぐという異例の事態となった。
 マスコミ各社もこの件に注目した。だがしかし……数日後、突然一連の事件は幕を明けた。ダニエル・バーマン。黒人街出身の彼を、容疑者に仕立てたのだ。だがそんな彼も……
 その日は雨が降っていた。彼の死体は頭をスナイパーで撃たれ、脳髄破裂していた。暗殺されたのだ。
 ここから二週間、次々と犠牲者が出ていく。被害者は決まってこれら一連の事件を追っていた、記者やオタクたちだ。彼らは口を揃えたように「悪魔が殺しに来る」と言い残し、息絶えたのであった。犯人が捕まらないまま時だけが過ぎてゆき……事件は闇に葬られた。

「ふ……」
 アビスは葉巻を咥えるとマッチに火をつけ、咥えながら煙を吐き出す。彼は何も言わず、いつもの椅子に座っているだけだった。
「ククク……あはは……! ハァッハッハッ!! あははははっ!!」
 アビスが嗤い出すと、呼応するようにアビスが飼っている奴隷たちが声を荒げる。アビスはそれに構わずに続ける。
「オレを愉しませてくれるか!!」
 アビスは不敵に笑みを浮かべると、机の上に置かれたワイングラスに入った赤い液体を呑み干した。
「来たるべきゲームに向けて動かすのだ、金と権力と力を」
 アビスがそう言うと、彼の奴隷たちが一斉に泣き喚き始める。目隠しから血の涙を零すモノ、猿轡からヨダレを垂らすモノ、首輪を鳴らして身体中が痙攣し始めるモノ、眼球が跳び出るモノ、全身が膨らんで爆ぜるモノもいた。奴隷たちは悲鳴を挙げると……一人を残して全員が絶命し、その場に崩れ堕ちた。残された奴隷も瀕死の状態だった。
 するとアビスは青白い光を放つ剣で、残った奴隷の首を斬り堕とす。アビスはニヤリと口元を緩ませ、満足げだった。
「Second World Warの続きか……おもしろいゲームになりそうだ。フフ……フフフ……あははっ……フフフフフフフ……アーッハッハッハ!!!!」

 アビスの足元に一枚の書類が落ちてきた。そこには……『MK-ULTRA』の文字があった。アビス、堕ちた太陽と月、そして夜が来る。アビスは、闇よりも暗い瞳をしている。アビスは夜に溶け込んでしまうほど、黒かった。まるで、闇そのもののようだった。アビスは太陽でも月でもないのかもしれない。アビス自身にもわからない。アビスが何故、産まれたのか。アビスが産まれた理由は……きっと誰にも判るまい。

 第七艦隊……それは、合衆国海軍の誇る最強の艦艇群である。
 ミサイル巡洋艦・ミサイル駆逐艦・合わせて六十隻を有する第七艦隊は、まさに海の王として君臨する存在であった。その栄光ある艦隊主力、原子力空母ロナルド・レーガン。この艦こそが、アメリカ第七艦隊の象徴であり、また最大の打撃力であった。彼らにとってのナショナルとは、つまりアメリカ合衆国そのものであった。彼らは、合衆国のためならば命を懸けて戦うことを厭わなかった。
 だがそんな彼らのプライドも……ひとりの男に操られていることを誰も知らなかった。彼らはいま、大神島に向かっている。
「……しかし艦長。このような演習はあまりにも仰々しすぎませんか? 今回の任務は一体なんなのです」
「ああ……私にも判らん。だがこれは大統領のご意向だ。逆らうわけにはいかない……」
「……なぜ大統領府はたかが島民失踪事件に第七艦隊を動かすのです……やはりあの噂は本当なのでしょうか……大統領が影の政府に操られているという噂は……」
「ただの噂であればいいがな……どうもきな臭い。先の大戦で大神島に枢軸国の決戦兵器を封印した、というのも気にかかる」
「!? やはりあの噂は本当!?」
「まだ判らん。気を抜くな」

 大神島……絶海の孤島が今まさに戦場と化そうとしている。第七艦隊ミサイル巡洋艦の艦長が言う。
「全砲門開け。これより我々は演習を行う。敵勢力に対し砲撃を開始せよ!!」
 大神全土に対し砲撃が始まった。島の各地に爆炎があがる。大神島への爆撃も始まった。上空を覆う爆撃機編隊はまるで黒い絨毯のように、島全体へ焼夷弾の雨を降り注いだ。燃え上がる山、大地、それは地獄の業火。島中が業火に包まれていく。だがしかし……
「!? あれはなんだ!」
 地獄の業火から……ひとりの男が歩いてきた。男の顔は包帯にまみれ、眼は血走っている。男の身体には幾重にも怨念が巻き憑いて…………。呟く。
「……滅びろ」
 そしてまたひとり、ふたり、さらに大勢が歩いてくる…………。彼らは怨念の集合体。亡霊たちが行進してきたのだ。亡霊たちは叫ぶ。憎しみを籠めて……憎悪、怨念、殺意、絶望、そして狂気が溢れている。憎悪は憎悪を呼び、狂気も狂気を呼び、やがて戦争が始まった。呪の怨念が第七艦隊に絡み憑く。
「!?」
 第七艦隊の船員たちが、みな頭を抑え始めた。
「あぁ頭が痛い……。誰か助けてくれぇ……」
 甲板は阿鼻叫喚の嵐となった。頭痛を訴えるものが続出した。血が、全身の孔という孔から血が噴き出している。そしてついに、
「うわあぁっっ!!」
「きゃあっっっっっっっっ!!」
「ひいっっっ!!」
 第七艦隊の甲板に、黒いガスマスクの部隊が昇った。ナチス武装親衛隊だ。黒いロングコートに身を包み、鉄兜(シュタールヘルム)の下に黒いガスマスクが赤い眼光を見せる。左腕の赤い腕章を揺らし、彼らが手にする空冷式機関銃から煙が立ち昇った。ナチス武装親衛隊がこの場に現れたのは偶然ではなかった。
「駆除しろ、人型の害蟲を」
 ハンスが指を鳴らす。
「容赦なく、確実に」
 親衛隊はハンスの命令に従い、動き出した。
「ゆっくり殺せ。愉しく殺せ」
 彼らは甲板にいるアメリカ海兵隊を機関銃で一掃する。
「薄汚い命を」
 次々に甲板から海に投げ出され、息絶えた敵兵が海に浮かんでいく。虐殺が始まった。黒いガスマスクの獣たちは第七艦隊のクルーたちを容赦なく殺害していく。第七艦隊のデッキは血の海になった。船員たちは逃げ惑ったが獣たちに捕まり、殺されていく。ナチスは微塵の躊躇も一遍の後悔もなく皆殺しにした。戦慄と断末魔が木霊する。ナチスに容赦はない。あるのは殺戮の快感と、命令だけだ。
「あ、あ、あぁ……、い、いや……」
 黒人女性の乗組員は腰を抜かしていた。そこへ白いスーツ姿のハンスが彼女の前にしゃがみ込む。 ハンスは笑みを浮かべ、ワルサーP38を彼女の額に突きつけた。ハンスの後ろでは黒いガスマスクをした男たちが虐殺を続けていた。
 ハンスは自分のこめかみに銃で撃つ仕草をする。それから女に向かって引き金を引いた真似をしてみせた。彼女はハンスを見て引きつり泣き叫ぶ。恐怖に染まった表情が可哀想で面白いと思った。彼女は失禁し、怯えながら命乞いを始める。
「ジーク・ハイル」
 ハンスは彼女を銃殺して、死体を海に蹴り落とした。ハンスの後ろで親衛隊は殺戮を続けている。狂犬は殺すことだけが悦びだった。憎悪こそが掟、復讐こそが証である彼らは殺戮の欲望を満たすためなら手段を選ばなかった。此処こそが善悪の彼岸……。

 アラーン浜……海に真っ赤な業火のうつる夜、赤黒い血と無数の骸が流れ憑いた。甲板から投げ出された兵士は、息絶えたままアラーンに漂流する。兵士の顔には恐怖の痕跡が刻まれている。瞳は黒く濁り、この世ならざるモノを見たように顔を歪めていた。
 アラーン浜は、兵士たちの屍肉を喰らう獣の棲家になっていた。アラーンを地獄が染めた。 海の上には死が溢れ、死が蔓延していた。海の底では魚たちがうねっている。兵士たちの死体はすぐに、魚たちの餌食となるだろう。そうして骨だけになり、アラーンの海に浮かぶのだろうか? 無数の鴉が死体を啄み鳴いている。

 真っ赤な業火にうつるアラーンの水面に、紅旗を背負った落ち武者たちの蜃気楼が、うつった。

 原子力空母ロナルド・レーガンの甲板に鮮血が飛び散る。無数の生首が転がり、敗北の彩がなびいている。アメリカの精鋭部隊が、ナチス親衛隊の残党に敗北した。跡に残るのは、敗北と死の臭いだけ。
「ずいぶん愉しんでくれたな」
 呪が甲板に上がる頃、ハンスは、
「ちょうどよかった、飾り憑けが終わったんだ」
 ロナルド・レーガンの甲板に、赤黒い血をもってハーケンクロイツを描いた。それはまるで神話のように美しく、荘厳で、狂気に満ちていた。ハンスは満足げに嗤っていた。彼はこれから……

“ニイタカヤマノボレ”

 真珠湾……その日の朝は、雲ひとつ無い快晴だった 。空には虹色のグラデーションがかかり、陽光を受けて輝いている。そんな清々しい朝だった。だがそんな空を、F-15イーグルの影が黒く染めた。人々は眼を疑った。羽根には……赤黒い旭日の模様がある。F-15イーグルは爆弾を投下し始めた。真珠湾を炎の海にしていく。
 突然の悲劇を前に混乱に陥った。キンメル将軍はヒッカム空軍基地に出撃命令を下したが間に合わず、滑走路は炎上、また重巡洋艦四隻沈没、重巡洋艦一隻座礁、重巡洋艦三隻損傷、軽巡洋艦三隻損傷、駆逐艦三隻座礁、標的艦一隻沈没、航空機損失一八八機、航空機損傷一五九機、戦死二,三三四名、民間人死亡六八名、民間航空機損失三機だった。

 パールハーバーの悪夢再び。そう報道されるのには時間はかからなかった。アメリカ全土は大混乱に陥った。アメリカは一連の事件をテロ組織による陰謀と発表、しかしこれは始まりに過ぎない。この事件は新たなる時代への大きな節目となったのだ。何故なら……血のハーケンクロイツを甲板に刻んだ第七艦隊が、合衆国本土に向かっているからだ。

“トラトラトラ・ワレ奇襲ニ成功セリ”

 千年の孤独はいつも失われた記憶を醒ます

第三章

 大神(ウプガン)、大神(ウプガン)、まだ少し人間(ヒト)でいたい

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9,882字

“大人たちに翻弄された子供達の物語” Twitterで出逢った少女との想い出をモチーフに描いた超大作恋愛小説 あの日自殺するハズだった彼…

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