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虹の谷の少年 第一話 フェニックスを見た

 “共生”と“ひとりぼっち”
 それは決して別々のものではなく
 実はひとつの真実

 長い長い冬を越えて、虹の谷に春が訪れました。雪どけ水がキラキラと流れだし新芽が伸びだす頃には、お外に出られない季節も終わりました。人々はやっと家の外に出て太陽の暖かな日差しを浴びることが出来るようになったのです。
 そんな春の朝のこと……谷の奥にある神社から、二人の兄妹が駆け出してきました。誠くんと雫ちゃんです。二人は春の空気に胸を弾ませ、いてもたってもいられずに家を飛び出してきました。ブルーノくんと遊びたくなったのです。雫ちゃんは小さなピンク色の花を髪に飾りスキップをしながら進みます。一方お兄さんの誠くんは大股でしっかりとした足取り。二人が向かうのは赤い三角屋根の家、ブルーノくんのお家です。

 玄関の前で二人は息を整え、「せーの」の合図で声をそろえて呼びかけました。
「ブルーノく―ん、あそぼ―!」

 しばらくすると玄関のドアが音を立てて開きました。出てきたのは金髪のショートヘアが美しい若い女性、ブルーノくんのお母さん、エヴァおばさんです。
「まあまあ、雫ちゃんに誠くん、おはようございます」
「おはようございます、エヴァおばさん!」
「二人とも声をそろえてえらいわね」

 笑顔で褒められ、雫ちゃんと誠くんは少し照れた様子。そして雫ちゃんが尋ねます。
「ブルーノくん、まだ?」
「どうかしら。まだ寝ているのかもしれないわね。良かったら、起こしてきてちょうだい」

 エヴァおばさんの言葉に元気よく「はーい」と答えると二人は家の中へ駆け込みました。階段を勢いよく駆け上がり、すぐ脇のブルーノくんの部屋の前で立ち止まります。コンコン、とノックをしましたが返事がありません。もう一度コンコン。やっぱり返事はありません。
「お留守かな?」
 そう言いながら雫ちゃんはドアノブを回しそっと中へ入り込みました。
「あっ!」
 ようやく見つけました。ブルーノくんはベッドでぐっすり眠っています。二人はベッドの脇に寄り添い、小さな声で呼びかけました。
「ブルーノくん、遊びに来たよ。起きて!」
 ……んむぅ……小さな声を漏らし、目をこすりながらようやく起き上がったブルーノくん。しかしまだ眠そうな顔です……
「ブルーノくん、あそぼ!」
 寝ぼけているのかな? そう思った雫ちゃんが再び声をかけると、ブルーノくんはさらに小さい声で言いました。
「ねむい……」
「もう」
 雫ちゃんは頬をふくらませると、ブルーノくんのほっぺにチュっと軽くキスをしました。それを受けたブルーノくんは、ほわぁ! と一瞬で眼をぱっちり開けました。
「もう春だよ。雪どけの氷山、みんなで一緒に見に行こうって約束したじゃないか」
 誠くんの言葉に、ブルーノくんはハッとします。
「そっか! ごめん、すぐ準備するね!」
 ブルーノくんはあわてて着替えを始め、二人は階下へ戻ります。
「おはよう、ママ! パパは?」
「おはよう、ブルーノ。パパは遅くまで靴をつくっていたから、まだ寝ているわ」
「そっか、ごめん! でも約束あるから、朝ごはんはまた今度!」
「だめよ。それならトーストと目玉焼きだけでも食べて行きなさい」
 エヴァおばさんの優しい声にブルーノくんは「わかった!」と元気に答え、急いでキッチンへ駆け込みました。
「大丈夫だよ、ブルーノ。氷どけにはもう少し時間がかかりそうだから」
 誠くんの言葉に安心した様子のブルーノくんでしたが、やっぱり急いでいます。目玉焼きをパクリ、ミルクをゴクリ、口にトーストをくわえたまま玄関に飛び出しました。
「お待たせ!」
「じゃあまずリョーコちゃんとハナちゃんを迎えに行こう!」
「うん!」
 そうして三人は元気よく遊びに出かけていきました。後ろ姿を見送るエヴァおばさんはエプロンの紐を直しながら、そっと微笑むのでした。

 その頃、ブルーノくんのお父さん、アドルフおじさんはベッドの上で苦しんでいました。あの悪夢を見てすっかり汗まみれになっています。
“誰が民族大量虐殺をしろと言った!!!!”
 それは忘れてしまいたい過去の記憶。心の深いところに置いておきたいのに何度も起こされてしまいます。
“あれは選挙に勝つための方便だとお前が言っただろう!!!!”
 思い出すたびに重い重い苦しみが背中にのしかかります。
“本気でやるなど誰も命じておらん!!!!”
 ずっとその重さを我慢して生きてきたアドルフおじさんでした。

「!?」
 アドルフおじさんはハッと眼を覚ましました。ベッドは汗でぐっしょり、息が落ち着きません。寝着の背中もびっしょりです。上半身を起こし、アドルフおじさんは汗を拭いて深いため息をつき……自分の手をじっと見つめました。重い何かを抱えるように体をすぼめたおじさん。その重さが何か、よくわかっているからこそ、つらいのです。

 やがてアドルフおじさんはベッドから起き上がり、着替えを済ますと階段を降りてキッチンに向かいました。
「おはよう、エヴァ」
 あいさつする言葉に振り向いたエヴァおばさんは、にっこり笑顔を見せながら言いました。
「おはようございます、あなた」
 コーヒーをカップに注ぎ、テーブルに置きました。そして自分もイスにこしかけ、モグモグとパンを口に運びます。アドルフおじさんは声も出さずにただ黙々と朝食の時間を過ごしています。
 そんなアドルフおじさんを見つめるエヴァおばさんの眺めに気づいたおじさんは、何か答えたいと思いますが、うまく言えず、あたかいはずの朝食が苦く感じられます。だからただ察することしかできません。

「ワンワン!」
 そんな時、おじさんのひざ先にやってきた大きなワンちゃん。
「ヨーゼフ! 朝ごはんがほしいのか? ハハハハハ」
 この子はアドルフおじさんの大切なワンちゃん、ヨーゼフです。
「どれ。じゃあ遅い朝食を一緒に楽しもう」
 アドルフおじさんは席を立つとヨーゼフのお食事を用意しはじめました。大きな箱からドッグフードを取り出し慣れた手つきでスプーンで盛り付けます。
「ワンワン!」
 待ちきれないのかしっぽを振り続けるヨーゼフ。
「この子、あなたからもらいたいって聞かなかったんですよ」
 エヴァおばさんの声もまるで聞こえません。おじさんの頭の中はいまヨーゼフのごはんをちゃんと計ってあげることでいっぱいです。
 床にごはんを入れたお皿を置いてあげるとヨーゼフはむしゃむしゃ嬉しそうに食べ始めます。その姿を見ながらほっと微笑むアドルフおじさん。なんだかとっても幸せそうです。まるでヨーゼフと一緒にいるときは気をつかわなくていいみたいに安心しています。
「そういえば……ブルーノはどこだい? エヴァ」
 ふとおじさんは思い出したように聞きました。
「あの子は雫ちゃんたちと一緒に遊びに行きましたよ」
「そうか……」
 そう答えると、テーブルに戻って自分の朝食をジッと見つめます。なんだか言葉が見つからないような顔をして、ジッと見つめていました。
「夜には帰るかな?」
 そしてひとり言のようにつぶやきました。
「ええ……きっと」
 そんな彼の言葉にエヴァおばさんは、ちょっと寂しそうな笑顔を見せました。

 その頃、ブルーノくんは雫ちゃんと誠くんと一緒に春の道を駆けていました。まるで溶けた雪から真っ直ぐに芽を伸ばす花たちのように嬉しい気持ちをいっぱいに抱えながら走ります。三人とも元気いっぱいで何か素敵なことが始まる予感を胸にドキドキしながら走っていました。心はポカポカと温かく満ちあふれています。しかし、どこへ向かっているのでしょうか? その先には森の中にある小さな可愛らしいカフェが待っています。そこにはブルーノくんたちのお友達リョーコちゃんとハナちゃん姉妹の家があります。ブルーノくんたちは二人を迎えに来たのです。

 カフェに到着! 白い木の家の前で三人は揃いました。雫ちゃんが真ん中に、右手を誠くんが、左手をブルーノくんが握ります。
「リョーコちゃーん、ハナちゃーん、あそぼー!」
 三人で声を合わせて呼びかけました。

 リョーコちゃんとハナちゃんは、まだ朝ごはんを食べていました。テーブルにはパンとソーセージ、目玉焼きが並んでいて、それをむしゃむしゃと食べています。しかし、リョーコお姉ちゃんは機嫌が悪そうです。
「まったく。ハナ、あんたが寝坊するから私まで遅くなっちゃったじゃん!」
 ぷんすかと怒ったリョーコお姉ちゃんの顔は、赤くほてっています。ハナちゃんはマイペースにニコニコと謝りながらパンを食べています。
「リョーコ、ハナ。ブルーノたちが迎えに来たわよー」
「ほらー!」
 ミユキお母さんの声に、リョーコちゃんが怒ると、ハナちゃんは急いで朝ごはんをほおばりミルクをゴクッとかき込んで……お姉ちゃんと一緒に玄関に駆け出しました。

「ちょっと、リョーコ、ハナ!」
 二人を追いかけるミユキお母さん。
「リョーコ、ボタンがかけ違ってるわよ。ハナも顔にパンくずがついてる」
 そう言ってリョーコちゃんのボタンを直し、ハナちゃんの顔を拭いてあげます。すると二人はニッコリと笑いました。
「暗くなる前に帰るのよー」
 お母さんの声に姉妹は一緒に「はーい!」と元気に返事をします。先に外に出たリョーコちゃんはクツを履き終わると勢いよくドアを開けて飛び出しました。後ろのハナちゃんはおっとっととあわてて靴ひもを結び、お姉ちゃんを追いかけます。
 ドアの外では、ブルーノくん雫ちゃん誠くんが手を振って出迎えています。それを見た二人の顔に可愛らしいえくぼが浮かびました。

 三人が五人になり、森の中を歩き始めます。一列に並んで歩く五人を木漏れ日が照らし出し、風がさらりと木の葉を鳴らして通り過ぎて、その音を聞くと心が晴れやかになってきます。道の脇に咲く小さな花に眼をとめ、時々しゃがんで見つめたり、道を歩きながら眼に入る色々なものを見ていました。鳥さんが飛び立ったり、ウサギさんやリスさんが逃げると残念そうに声をあげることもあります。

 やがて森の向こうに小さな料理屋さんが見えてきます。小ぎれいな白い壁の前には柵があり、その中にはたくさんの緑や花々が植えられています。そこに虹色の服を着た長い髪の女性が立っていて、彼女が振り返ると
「あら! ブルーノくんたちね!」
 きれいな薄紫の瞳が優しげに微笑んでいます。それを見て五人の表情が輝き元気に駆け寄ります。
「スイートおばさん! おはようございまーす!」
「おはよう!」
 クッキーくんとバンバくん兄弟のお母さん、スイートおばさんです。どうやらお庭仕事をしていたようで手も顔も土だらけですが、笑顔がとても素敵です。まるで太陽のように温かい印象を与えます。
「クッキーとバンバくんね!ちょっと待っててね」
「はーい!」
 そう言うとスイートおばさんは窓から大きな声で呼びかけます。
「クッキー! バンバ! ブルーノくんたちが遊びに来たわよー!」
 すると家の奥から……ドダダッ……ダダダン!! すごい音がして……ザシャアッ!!バンバくんが勢いよく駆けてきます!

「ダダダダダ!!!! ダダダダダ!!!!!!」
 バンバくんは水鉄砲を持って、カッコよく立ちふさがります!
「手をあげろーーー!!!!」
「!?」
 ブルーノくんは慌てて手をあげます。その様子を見て雫ちゃんもクスクスと笑いながらバンザイをします。ハナちゃんも嬉しそうにバンザイし、リョーコちゃんと誠くんもあきれ気味に「やれやれ」と言いながら同じように両手を広げました。

「待ってよ、バンバー」
 すると家の奥から遅れてクッキーお兄ちゃんがハァハァと息を切らしながらズンドコズンドコとやってきました。大きな体にぽっちゃりとしたおなか太いまゆ毛の下に輝く瞳がふたつ、ハテナマークの浮かんだような表情でおっとりとしたお顔です。そして片手に手づくりのお菓子を抱え込んでいます。
「お菓子つくったんだよー! 食べるー?」
 そう言いながらお菓子を皆に手渡すクッキーお兄ちゃんのほっぺたにはつまみ食いの跡がありました。きっとちょっと食べてから慌ててやってきたのでしょう。遅れて来たお兄ちゃんがお菓子を分けてくれると、ブルーノたちも嬉しそうに食べ始めました。もぐもぐもぐ……

「えっと、オレらに、ブルーノ、雫ちゃん、誠、ハナちゃん、リョーコ……あれ? レインは?」
 バンバくんが真っ先にそのことに気づきました。すると繊細な雫ちゃんが何かを察したような笑みを浮かべて言いました。
「今から迎えに行くのよ。」
 あぁ、と納得するバンバくんに雫ちゃんはいたずらっぽくクスクスと笑いながら言いました。
「レインちゃん迎えに行くの、バンバくんが先頭に立つの?」
 その一言にバンバくんは頬を真っ赤に染め照れくさそうに口をつぐみました。
「オレはそんなガラじゃないやーい!」
「じゃあ私のブルーノくんに先頭になってもらおうかなー」
「待て待てー!」
 得意げな顔をしたバンバくんが言いました。
「やっぱ先頭は切り込み隊長のオレじゃなきゃな」
 鼻の下を指でなぞりながらバンバくんはそう言いました。雫ちゃんは「そうでなくちゃ!」とでも言うようにコクリとうなずいて笑います。

 鼻息を荒くして腕をふるバンバくんを先頭に、ブルーノくん、雫ちゃん、誠くん、クッキーくん、ハナちゃん、リョーコちゃんが一列に並んで歩きます。お友達がだんだんと集まってきてワクワクとした気持ちが広がり、レインちゃんを迎えに行くドキドキとともに楽しげな行進が続きます。ズンドコズンズン、ズンドコズンズン、みんながどんどん前へ進んでいきます。森の中に足を踏み入れ緑のトンネルを抜けるとサクッサクッと落ち葉を踏む音が響きます。サクッサクッ……サクッサクッ……と森の音と葉っぱの香りに包まれ足取りも軽やかに踏みしめていきます。やがて森を抜けると川のせせらぎが耳に届きました。小川が雪どけ水を静かに流れていきます。春の陽ざしを受けて水面はキラキラと輝き、まるでダイヤモンドのようです。その美しさを眺めながらみんなで川の流れに逆らいどんどん進みます。しばらくして広い野原が見えてきました。向こうには小さな洋館が佇んでいます。お花畑は美しく蝶々が散歩しているようで、こんな景色の中に建つ洋館はまるで絵画のようにオシャレでした。ここがレインちゃんのお家だ! とバンバくんも嬉しくなりました。いよいよレインちゃんに会えるその時が近づいてきました。
「おーい!」
 バンバくんは我慢できずにお屋敷に向かって走り出しました。するとお屋敷から少し離れた場所でアルフレッドおじさんがみんなに気づき声をかけてきました。
「おお、ブルーノたちか!」
 彼は弓のメンテナンスをしているところでした。ピカピカ光るナイフと弓矢を片手に持ちながらこちらにやって来る姿はとても頼もしく力強い印象を与えます。
「レインだね、待っていなさい」
 おじさんが「レイン!」と呼びかけようとしたその瞬間……
「レイーン!! おい、レイーーン!! 一緒に雪どけ氷山を見ようぜーーー!!」
 バンバくんはアルフレッドおじさんに気づかず大きな声で手を振りながら屋敷に向かっています。アルフレッドおじさんは思わずアハハと笑いながら優しく見守っていました。するとやがて……

 リンリン!

 お屋敷の中から可愛らしい鈴の音が聞こえてきました。リンリンリン♪ その音はだんだん近づいてきます。それは軽やかでどこか楽しげな響きです。バンバくんもその鈴の音に心が躍りウキウキした気持ちがあふれてきます。鈴の音が一番大きくなった瞬間、扉が静かに開きました。ガチャ、ギー……そこには真っ白な女の子。繊細な白いショートヘアに細い手足、まるで天使のように美しいレインちゃんが立っていました。白い肌、澄んだ赤い瞳、ピンクのリボンの鈴が揺れながら音を立てています。彼女はニコッと微笑みゆっくりと階段を降りてきました。

「レイン!!!」
 その瞬間、バンバくんはレインちゃんの手をぎゅっと握り勢いよく一緒に階段を駆け下りていきました。リンリンリン♪ 鈴の音も一緒に響き二人の動きに合わせて可愛く鳴りました。
「ほら、バンバー、レイン困ってるぞー」
「そんなことないよ! なーレイン!」
 レインちゃんはちょっと苦笑いしながらもニコッと微笑んでバンバくんに軽くうなずきました。
「ほら、困ってるー」
 ブルーノくんの言葉にみんながクスクスと笑いました。アルフレッドおじさんも優しげに微笑みます。

「そうだ! ブルーノ」
 その時おじさんが言いました。
「今度一緒に狩りに連れて行ってあげるよ!」
 ブルーノくんは驚き、目を輝かせました。
「え! いいの!」
 ブルーノくんは以前からおじさんにお願いしていたのでした。
「お前ももうそろそろいい歳だしな。アドルフさんにはオレから言っておくよ」
 その言葉にブルーノくんは満面の笑みを浮かべました。おじさんが力強く肩に手を置くと、そのぬくもりがブルーノくんに安心感を与えました。
「わーい! ありがとうございます」
 そう言ってペコリとお辞儀をし、アルフレッドおじさんもウインクを返し嬉しそうに見守っていました。

 さて、お友達がそろったブルーノくんたちは海を目指して歩き始めました。そう、雪どけの氷山を見るために。ブルーノくん、雫ちゃん、誠くん、リョーコちゃん、ハナちゃん、クッキーくん、バンバくん、レインちゃん。みんな一緒に心はワクワク、でもちょっぴりドキドキしながらてくてくと早足で緑の中を進んでいきます。そんな時どこからか切ないメロディーが流れてきました。何だろう? ブルーノくんたちは耳をすませました。懐かしく、静かで、どこか寂しく、それでいて少しひねくれたような……ギターの音色でした。

「あ!ジョンくん!」
 川の向こうにひとつのテントが見えました。帽子をかぶった人物のシルエットがどこか遠くの思い出のように浮かんでいます。ブルーノくんは「おーい!」と大きく腕を振り川を渡ってテントへ向かいました。一人ポツンとギターを弾いている男……丸いメガネをかけ、くせっ毛の髪に、眼はどこか人懐っこくて笑顔がとても優しそう。カーキー色のボトムパンツに大きめのポンチョを羽織って足を折り曲げて座っている男がクルっと振り向きました。
「やあ、みんなこんにちは〜♪」
「こんにちわっ!」
 ジョンくんの笑顔はまるで無邪気な少年のようです。
「ジョンくん! 帰ってきてたんだー!」
「ああ、春の香りが僕のところまで届いたからね」
「おかえりなさーい!」
 ブルーノくんに続いてみんなが声を合わせて言うとジョンくんは照れくさそうに笑いました。
「ただいまー」
 ジョンくんはギターをジャランと鳴らしました。きれいなマイナーコードです。
「相変わらずきれいな曲だね!」
「セーレの向こうにいるヨーコとまたいつか会える。そんな空の向こうにある淡い憧れの曲……たくさんつくりたいんだ」
 そう言ってジョンくんはまた一人ギターを奏で始めました。

 “セーレの山”という言葉を聞くと、ブルーノくんは心の中で不思議な気持ちになります。大人たちはみんな“セーレの山”と言うとき、どこか懐かしく、でもちょっぴり哀しい気持ちを感じるようです。それがなぜなのかはブルーノくんにはまだ分かりません。きっと大人になるにつれてその意味が少しずつ分かってくるのだろうとは思います。でも……それがあまりワクワクすることではないような気もしました。もしかしたら大人は子どもよりもずっと多くのことを知っていて、それは子どもには知らなくてもいいことなのかもしれません。そう思うと、なんだか「ずるいな……」と感じてしまいます。だから、本当はもっともっと聞いてみたいけれど、何となく聞いてはいけないような気もしました。

 それからブルーノくんたちは海へと向かいました。
「うわー!」
 そこは冬の名残を感じさせる氷に覆われた海でした。広大な海面は太陽の光を受けてキラキラと輝き巨大な流氷が点々とそびえ立ち果てしない銀色の海原がどこまでも続き、その上には無数の星屑が散りばめられたようで、氷のカケラは触れた瞬間に粉々に砕けてしまいそうでした。

「うーん……雪どけの氷山、見当たらないなー」
 誠くんはため息をつきながら氷原を眺めました。ブルーノくんと雫ちゃんは浜辺に立ちあたりをキョロキョロと見回しましたが、春の兆しは一向に見当たりません。
「まだ早かったかなー」
 誠くんがしょんぼりと言いました。するとハナちゃんが突然
「あ! 山おじさんだ!」
 と大きな声で叫びました。
「!?」
 そこには船の整備をしているおじさんの姿がありました。
「山おじさーん!」
 みんなが一斉に呼びかけると山本さんが振り返りました。
「おお、誰かと思えば。ハナちゃんじゃないか」
 元気よく駆け寄るハナちゃんを見て山本さんはにっこりと笑いました。
「おや、ブルーノくんたちも。今日は朝早くから海に来て貝さがしかい?」
「ううん、違うんだよおじさん。ボクたち雪どけの氷山を見に来たんだけど全然見つからなくて」
「雪どけか、それなら朝日が昇る方へ行ってみるといいよ。温かな波が一番にやってくるから、きっと雪どけの氷山が見られるよ」
 山本さんは朝日の方角を指さしました。ハナちゃんは目を輝かせてピョンと跳ね上がります。
「おじさんありがとう!」
 みんなも大喜びでした。しかし誠くんだけは少し気になることがありました。
「山本おじさんは、何をしているんですか?」
「ああ、これか。船の底の塗り替えをしているんだ」
「塗り替え?」
 誠くんが興味津々に尋ねると山本さんは説明を始めました。
「船の底はずっと海水に浸かっているだろう? だからどんどん傷んでしまうんだ。それである日突然、ガコン、バーンってなっちゃうんだよ」
「へー!」
 みんなが不思議そうに首をかしげると山本さんは続けます。
「これを“腐食”って言うんだ。だから時々船を陸に上げて、こうして塗り替えをしないといけないんだ」
 海や船のことをみんな知っている山本さんにみんなは安心したように頷きました。ちょうどその時
「お! やっと来たな、ヨッパライども」
 向こうから酔っ払った三人組がやって来ました。まだ二日酔いのようでフラフラと歩いています。
「おはよう、山さん。朝早いねー」
「おはよう、シゲルさん、ハルキさん、タカシさん」
 三人は山本おじさんと同じこの谷の漁師たちです。シゲルおじさんはちょっと酔っ払っており、ハルキおじさんはヨレヨレ、タカシおじさんはいつもの空腹モード、どうやらまだ夢の中のようでした。
「ハルキよ、昨夜そんなに飲んだか?」
「シゲルが勧めたんだろ、春が来たからって、チコおばさんに追い出されるまで、飲みすぎだよ」
「そうだっけ? 覚えてないな」
 シゲルさんがキョトンとした顔をする中ハルキさんは機嫌悪そうにしていました。するとタカシさんがボソッと
「ええ、二人そろって川辺で抱き合って、私が台車で家まで送ってあげなければ今ごろどうなっていたやら」
 と言うとハルキさんは「ギクッ」と固まりましたが、すぐに「ハハハ」ととぼけました。山本おじさんはそんな二人を微笑ましく見ながらも
「はいはい! 三人とも! シャンとせんかい! もう漁の季節がやって来たんだぞ!」
 その声には皆が一瞬でしゅんとなり正座をしました。山本おじさんはその様子を見守ると、ブルーノくんたちに言います。
「ほら、早く行かないと、雪どけが見れなくなっちゃうぞ」
ハナちゃんが元気よく叫びました。
「雪どけ氷山見に行こう!」
 レインちゃんも笑顔で顔を振りリンリンと楽しそうに歩き出します。
「よし、行こう!」
 誠くんが大きく手を振り上げて言いました。みんなも一緒に「おおー!」と叫び、駆け出しました。

 砂浜を走る姿はまるで大海原に出航した冒険者たちのようで、風を感じながら波打ち際を走り抜けます。そんな後ろ姿を、山本おじさんは少し羨ましそうに見守っていましたが、すぐに自分の仕事を思い出し船の整備を続けました。シゲルさんたちも急いで自分たちの準備を始めました。

 朝日が昇る方に向かって走るブルーノくんたち、まるで追いかけっこのようです。
「リョーコお姉ちゃん、早いよー!」
 もうすっかり遅れをとってしまったハナちゃんは、しょんぼりと立ち止まりました。
「へへん。べーっ」
 途中で疲れて立ち止まったハナちゃんですが、すぐに追いついてきたブルーノくんや誠くん、バンバくん、クッキーくんの男の子たちに囲まれ、また一緒に走り出しました。レインちゃんと雫ちゃんも後ろから追いついてきます。一方その頃リョーコちゃんは……
 遥か遠く、先を走っていました。風に乗って聞こえるキャッキャッと楽しそうな声。彼女は元気いっぱいに日の昇る方へ、雪どけの氷山が見える方へ走っていきます。
「!?」
 やがて海から昇る太陽を誰よりも早く見ることができる岩場にたどり着いたリョーコちゃんは誰よりも早くそれを見つけました。
「わぁーお! みんな! 早く来なさいよ!」
 後ろから追いついたみんながやっと到着したとき
「!?」
 眼の前に広がっていたのは言葉を失うほど美しい景色でした。

 朝日を浴びてキラキラと輝き、ゆらゆら揺れる大きな青い氷の山は透明で透き通っていて空気さえも冷たく感じられ、しかし春の光に照らされてどこか温かさを感じさせるようにも見えました。するとまるで地球自体が動いたかのような音が響き表面に大きな亀裂が入り、そこからキラキラと氷の粉が空へ舞い上がりオーロラのように輝きました。雪どけが始まりました。ドーーン!! と大きな音を立てて氷山が海へと落ちていきます。同時に、冷たそうな青い海に白い波しぶきが大きなクジラのように高く舞い上がり、そして再び静寂が訪れました。

「すごぉーーい! きれいー!!」
 みんなは一斉に驚きの声をあげます。
「おーーっ!」
 ブルーノくんも、今まで見たことのない光景に思わず声を上げました。眼の前で広がった風景はまるで大自然が描いた壮大な芸術作品のようです。

「……」
 しばらく美しい景色に見とれていた子どもたち。やがて雫ちゃんが静かに言いました。
「そろそろ広場に遊びに行こうか?」
 その言葉に真っ先にハナちゃんが
「行こーーー!!」
 とはしゃぎます。レインちゃんも「リンリリン♪」と嬉しそうに鈴を鳴らしました。
「おおー!!」
 バンバくんも拳をあげ、クッキーくんも手を上げます。
「やれやれ、みんな子どもねー」
 リョーコちゃんが少しからかうように言いますが、すぐにブルーノくんが
「お前だって子どもだろ」
 とツッコミを入れます。誠くんが笑いながら
「よし! じゃあみんなで広場に行って鬼ごっこしよう。まずは……」
と、ふいにブルーノくんの肩をタッチしました。
「ブルーノが鬼!」
「え!?」
 反応する暇もなくみんな一斉に走り出します。
「わー! 鬼だ鬼だー!」
「おーい! 待てよー!」
 ブルーノくんもみんなを追いかけて走ります。ワイワイ、キャッキャッと、鬼ごっこが始まりました。岩場を、砂浜を、森を、丘を駆け抜け、みんな楽しそうです。途中で小川をピョンと越えて広場へと向かいます。やがて虹の谷の大草原に到着しました。
「着いたー!」
 ふかふかの芝生の上にペタンと座り込んだリョーコちゃん。さすがに疲れたようです。その背後から!
「はい! リョーコが鬼!」
 とブルーノくんが肩をポンと叩き、また走り出します。
「わー! ずるいー!」
 リョーコちゃんはムスッとしながらもすぐに追いかけますが、ブルーノくんは上手に避けてなかなか捕まりません。
「ハハハ、捕まえてごらん」
「もー! 絶対捕まえてやるんだから!!」
 リョーコちゃんは全身を使って必死に追いかけます。小さな手足を振り上げて全力疾走。ピョンっと飛び跳ね、トトトトト……ポン! 楽しい鬼ごっこが続きます。ハナちゃんも嬉しそうにコロコロと笑いながら走り回っています。
「えい! えい! やっほー!!」
 ぴょんぴょんと跳ねる姿はまるでスキップをしているようです。ほっぺが薄紅色に染まりニコニコと笑顔を見せています。

 その後、みんなが次々と捕まっていって、鬼が交代していきました。
「おい、ちょこまかと逃げんじゃねーよ!」
 と追いかけるバンバくんの顔は楽しそう。その姿を見て更にテンションが上がったハナちゃんは、もっと早く走ろうとがんばって……転んでしまいました。
「もーハナ。ドジなんだからー」
 とリョーコお姉ちゃんが手を差し伸べて起こしてあげました。転んだのにハナちゃんは「えへへ」と頭をかきペロッと舌を出すだけ、やっぱり元気な子です。
「待て待てー!」
 と追いかけるバンバくんにレインちゃんがそっと振り向き、鈴を鳴らしながら微笑みました。

「リンリン♪」

「レインが、捕まえてごらーんって言ってるぞ、バンバ」
「なにをー!」
 そう言ってきた誠くんに向かって突進! ドン! 誠くんがその勢いを受け止めました。
「そろそろ交代だ」
 そう言うとバンバくんは
「おう! やっとかよ! おせーよ!」
 と待ちくたびれたようなことを言って走って行きました。ふふっと笑顔を見せた誠くんは大きな木の幹に手を置き眼を隠して数えます。
「いーち、にーい、さーん」
 すると、みんな隠れたり走ったりしながらキャーキャーと騒ぎます。
「しーい、ごーお」
 草原を走る子、岩影に隠れる子、森の中を駆け抜ける子、葉っぱの影にひそむ子、みんな元気に遊び回ります。
「ろーく、なーな、はーち」
 転んでも立ち上がって走り出す子もいれば、ススキや雑草の中に身をひそめている子もいます。まるで大にぎわいです。
「きゅーう……じゅー!」
 さあ、鬼が眼を覚ましました。誠くんが不敵な笑みを浮かべながら辺りを見渡します。

「みんな捕まえるぞ!」

 そして……気がつくと、みんなは昼下がりまで夢中で遊んでいました。遊び疲れたのか草原に大の字になって寝転がります。
「ふーやっぱり誠くん強いなー」
 ハナちゃんがふぁーっと息をもらして言いました。それを聞いて雫ちゃんが「ふふふ」と微笑みます。
「私のお兄ちゃんだもん♪」
 得意げに言う彼女はどこか誇らしげでした。するとすかさずリョーコちゃんが
「まぁまぁね。私だって自慢のお姉ちゃんだと思うけど。そうよね、ハナ?」
 どうやら負けて悔しかったようです。ハナちゃんもにっこりと笑って答えました。ああ、空が青い……ブルーノくんはふと空を見上げました。雲が流れていく……なんだかいいなぁ〜こうしていると幸せだぁ〜ブルーノくんは心の底からそう思いました。その時
「?」
 ふと気がつくと、レインちゃんがひとり、青空の下でじっとどこかを見つめていました。
「何を見ているんだろう?」
 ブルーノくんは視線を追い、レインちゃんが見つめている先に目を向けると、そこには……セーレの山が見えました。
「……」
 セーレの山。それは、お日さまが沈む方向にある、虹の谷をぐるりと囲む山脈の中で一番高くそびえる神聖な山です。遠くに見えるのに、どこか近くに感じるその山は……虹の谷では決して近づいてはいけない禁忌の場所とされています。しかしブルーノくんはあの山を見ると、どこか懐かしく、不思議な気持ちになります。
「レインは小さい頃あの山の向こうから来たらしいよ」
 クッキーくんが話しかけてきました。
「それで、子どもがいなかったアルフレッドおじさんとリリーおばさんがレインを娘にしたんだってさ」
「ああ、それ、ボクも聞いたことがある。でも本当の家族みたいだから、つい忘れちゃうんだよね」
 しばらくみんなは黙ってしまいました。レインちゃんはただセーレの山をじっと見つめていました。その横顔はどこか哀しげで、誰も口を開けることなく時間が過ぎていきました。
 ブルーノくんはふと「あの山の向こうには何があるんだろう?」と考えました。その時
「そういえば!」
 バンバくんが突然声を上げました。
「この谷にはレインだけじゃなくて、あの山から来たっていう人が何人かいるよな? ジョンくんとか、山おじさんとか、ヨハネスおじさんとか」
「……うん」
「それに、ブルーノのお父さんとお母さんも、あの山から来たって聞いたことがある!」
「!?」
「アドルフおじさんがあまり口をきかないから、知らない人も多いみたいだけど」
「……」
 ブルーノくんはじっとセーレの山を見つめました。相変わらず神秘的な雰囲気をたたえているその山。しかし今はどこか不安な気持ちが湧き上がってきていました。どうしてだろう? ふと胸がざわつきます。あれはただの山なのにどうしてこんなにも引き寄せられるのでしょう?
「……」
 リョーコちゃんはムスッとした表情で、ふとブルーノくんの横顔を見ました。きっとブルーノくんの心の中にはたくさんの言葉が渦巻いているんだろうと。でもそれが一体何だろう? そのことがますますリョーコちゃんをムスッとさせたのでした。
「あ……」
 そんな時、突然雨が降ってきました。
「わー、雨だ、雨だ!」
 みんな慌てて雨宿りできる場所を探して駆け出しました。空には重い灰色の雲が広がりザァーッという音が聞こえ始めるやいなや急にポツポツと降り始め、あっという間に滝のような大雨になりました。みんなはすぐにびしょ濡れになり
「もー、急に降ってくるんだからー」
 近くの木の影に避難したみんなは、ぬれた服を乾かしたり体を振って水を落としたりタオルやハンカチを取り出して拭いたりして、なんとか風邪を引かないように気をつけました。すると
「!?」
 レインちゃんは雨宿りもせず、じっとセーレの山を見つめたままでした。冷たい雨に打たれて……
「……」
 レインちゃんはもともと雨の日が好きでしたが……今日はとても暗い表情をしていました。真っ白な顔、真っ白な肌、真っ白なワンピース……雨にぬれて、冷たい水滴がその上を伝っていきました。彼女はただ、ひとりで立ち尽くしていました。まるで時が止まったかのように、動かずその場にたたずんでいました。表情もなく、何も語らず、赤い瞳だけが虚ろで……その姿は、あまりにも儚く、今にも壊れてしまいそうなほどに美しく、可憐でした。
「……」
 ブルーノくんが彼女の手を引こうかと考えたその時
「おい、レイン!」
 バンバくんがすぐに走り出し、レインちゃんの手を引きました。
「風邪ひくぞー、バカ」
「……」
 レインちゃんはちょっと驚いた顔をしていましたが、バンバくんに引き寄せられ、みんなと一緒に木の影へと連れられていきました。
「ほら、拭け!」
 バンバくんは赤いタオルをバックから取り出し、レインちゃんに渡しました。
「……」
 それを受け取ったレインちゃんは、タオルの優しさに心が温かくなり
「リンリン!」
 と嬉しそうな笑顔を見せ、鈴の音が響きました。
「……」
 そんな様子を見ていたブルーノくんは、なぜか心にぽっかりと空洞ができたような気がして、寂しい気持ちになりました。その様子に一番早く気づいた雫ちゃんは、静かに彼の手を握りました。ブルーノくんが顔を上げると、彼女はひと言
「雨、やむといいね」
 と柔らかく言いました。手のひらが、とてもあたたかくて……ブルーノくんは静かに「うん」と頷きました。
「虹が出るかなーと思ったけど、まだみたいだね」
 誠くんが空を見上げました。曇天から降り続く雨はまだ止む気配もなく、雫がポツポツと零れていきます。
「……」
 するとハナちゃんが持っていたクレヨンで、木の幹に絵を描き始めました。すると……
「あ!」
 絵が雨雫にぬれて変わった形に溶けていきました。
「みんな見て!」
 ハナちゃんは喜びながらみんなを呼びました。
「ほら! 雨雫で、面白い絵が描けるよ!」
 その言葉にみんなが集まりました。ほんとうだ! クレヨンの絵が雨雫によって形を変えて、広がり、色づいていきました。こんな素敵な虹があるなんて誰も知りませんでした。みんな嬉しくなり、どんどん絵を描きました。赤や青、緑、黄、紫を使って七色にしたり、水色や黄色を使って様々な模様をつくったり。描いた絵たちは雨雫に溶け、流れ、形を変えて広がっていきました。

 しばらくして……いつの間にか雨は上がり空が晴れ渡っていました。みんなが楽しく描いていた雨の絵も、いつの間にか消えてしまったのは少し寂しかったけれど、そろそろ帰る時間が来たようです。片付けを始めます。そして……
「バイバーイ」「また明日ー!」
 みんなそれぞれ手を振ってお別れをし、ブルーノくんもさよならを言って帰り道に入りました。しかしふと振り返り、セーレの山を見上げると……
(やっぱり気になるな……)
 まるで何かに誘われるように空を仰ぎ見ました。セーレの山は、高く、雄々しく、威厳に満ちた存在です。見るだけで圧倒されるようなその姿、けれどなぜか眼が離せず、まるで何かを語りかけてくるような気がしました。それが何かブルーノくんには全くわかりませんでした。でも気になって仕方がありません。

 ブルーノくんは歩き出しました。セーレの山へ……
 足を踏み出すたびに心臓がドキドキと高鳴り、呼吸が荒くなっていくのがわかります。それでも止められません。自分が何者で、どこから来て、なぜここにいるのか……その理由を知りたいという気持ちが押し寄せてきます。同時にどこか懐かしく、まるで運命に導かれているような感覚が心を満たしていました。

 セーレの山……頂上へ続く山道の入り口にたどり着くと興奮が抑えきれなくなりました。「登りたい!」その思いが爆発し、ブルーノくんは足を踏み入れました。最初はゆっくり歩き始めたものの徐々に足が速くなり、山道を駆け抜けていきます。サクサクと心地よい音が響き渡り普段の風景とは違う光景の中に身を置くその瞬間、ブルーノくんは興奮を感じずにはいられませんでした。ただ……それが訪れる予兆だとは知らずに……

 ゴォオオオッ! 風の音が耳を打ち前方から何かが迫ってきました。瞬時にそれが鳥の大群だと気づく暇もなく、大きな魚の群れのような迫力と、恐怖を感じさせる存在が近づいてきました。次の瞬間……ドッドッドッドン!! と大きな音が響き渡り空気が一変しました。辺りを一瞬で覆う白い霧……
 その霧の中に包まれ、視界がまるでなくなってしまいました。耳鳴りがひどく、音もなく、ただただ激しい雷鳴のような音が響きます。自分がどこにいるのか、何が起こっているのか、わかりませんでした。ブルーノくんはその場で立ちすくみ、ただ状況を把握しようとするしかありません。
(どうしよう……落ち着け……パニックになったら終わりだ……)
 必死で冷静になろうと考えますが、頭がぐちゃぐちゃに混乱していきます。もう一度、辺りを見回すと……
「!? なにこれ?」
 恐ろしさと哀しさが交錯する中でブルーノくんの意識が揺れ動きました。何かが確かにそこにありました。それは段々近づいてきて……恐ろしくも哀しい感覚と共に……意識がぐにゃりと歪むのを感じました……

(演説する人の姿が見える……!?)
 黒いロングコートを着た男が赤い腕章を左腕につけ、三つの赤い縦旗の前で演説していました。背後には黒い兵士たちが並び、前にはたくさんの人々が歓声をあげ、右手を高く挙げています。熱気がすごいです。演説する男はまるで空気を支配するように、情熱的に堂々と話していました。人々は熱狂し、拳を上げて応え、国中に雄叫びが響きました。しかしブルーノくんにはその男の顔がはっきり見えません。でも、どこかで見たことがあるような気がして……
(え?)
 それを思い出す間もなく視界と意識が変わり始めます。まるで絵の上に塗り壁が重ねられるように……ゆっくりとフェードアウトしていきます。何かが消えようとしているのでしょうか? それとも霧の中から不穏な影が現れようとしているのでしょうか? でも確かに見えるのです。遠くにあるはずなのに、眼の前にいるかのように感じられる。それは恐ろしく、哀しい……悪夢のように……
(レインちゃん!? いや、似ているけど違う……誰だろう?)
 レインちゃんにそっくりな真っ白な女の子たちが鎖で繋がれています。みんなひどくボロボロな服を着て、傷だらけの子もいます。どの子も眼に力がなく、あきらめたような哀しい瞳をしています。彼女たちが一瞬こちらを見たような気がしたのは気のせいでしょうか?

 ……また視界が歪んで、意識が変わっていきます……今度は……
 大きな機械が森を壊しています。ブーーーーン!! 大きな音を立ててまるで怪物のように森を喰らい、飲み込み、壊していきます。木々が倒れ、大地が削られ、小鳥や動物たちが泣きながら穴に逃げ込んでいきます。それでも振動は止まらず、空まで揺れ続け、やがて森は死にます。木々は倒され、丘は無くなり、小鳥や動物たちはみんな怖くて逃げてしまいました。そして寂しい景色の中に工場が建ち、汚れた水が川や池に流れ、魚が浮かんでいます。みんな死んでいます。汚染された川は淀み、黒く濁り、土は枯れ、もう草ひとつ生えません。かつての面影はなくなり……空に向かって伸びる錆びた鉄塔、鉄錆の匂い、朽ち果てた金属の墓場……そこで暮らす人々は汚れた服で必死に働いていました。毎日、今日明日のお金を得るために働き、ギリギリの生活の中で、病気や事故、怪我で命を落とす人が絶えません。
 学校もありますが、お金がなければ子供達は学ぶ権利すら奪われ、働かされました。栄養失調で体が小さい子供たちが多く、彼らは「仕方がない」と言っているけれど、それを望んでいるわけではありません。
 そんな地獄の北側には栄えた街並みが広がっていました。南側とは比べ物にならないほど豪華な建物が並び、通りではスーツやドレスを着た人々が行き交っていました。ビル群が建ち並び、夜通し電気が灯り、街は光り輝いています。車も多く、道は舗装され、清潔でキレイな世界です。人々は一見幸せそうに見えますが、実際に幸せなのはごく一握りだけで顔には輝きがありません。
 大人たちが通うきれいなビルや建物の中では、誰もが心をお金に変え、生き抜くために嘘をつき、騙し合い、蹴落とし合っていました。生活が良くなればなるほど心は疲れ果て虚しい日々が続きました。お金持ちになって楽になりたいという人もいますが、高層ビルに住む人々もまたおびえています。いつお金を取られたり、裏切られたり、引きずり下ろされたりするかと常におびえていました。
 これが大人の世界……大きくなったら青空に手が届くと信じていたはずの世界……どうしてこんなにも違ってしまったのでしょう? 上を見れば青い空が広がっているのに、誰もが下を向き、自分を偽り、何かの振りをして生きています。嘘をつき、嘘をつき、また嘘をついて……いつの間にか本当の自分を見失ってしまいました。こんな未来を望んではいなかったのに……では子供達はどうでしょう?
 大きな学校がありました。カバンを持った子供たちが登校していきます。手を取り合ってまだ見ぬ未来へ。けれどそこにいるのは……うつむきながら歩く子供達と、それを笑う子供達です。いじめる子供達、いじめられる子供達……教室の隅では暴言や落書きが溢れていました。授業が始まっても先生は来ず生徒たちは静かに自習していました。ひそひそ声や、忍び笑いが響く中、空気が冷たく感じられました。
 みんな仲良くしているふりをしながら、実際はお互いを見て見ぬふりをしていました。大人の眼、友達の眼、先生に怒られること、いじめられることが怖い……だからみんな黙って、空気を読み、空気を造り、空気のようになって、気づかれないように生きていました。透明であれば誰にも迷惑をかけることなく、自分を守れると思っているのです。そして手を取り合ってまだ見ぬ未来へ……でもそれは絶望の世界……
 大人の世界も子供の世界も、どちらも同じです。どちらが優れているとか劣っているとかではなく、どちらも等しく残酷で、絶望的で、狂気に満ちています。正解がない世界ではどんどん狂っていき、誰もそれに気づこうとしない。もうこの世界は終わりに向かってひたすら進んでいるのかもしれません。

「なにこれ……」
 ブルーノくんは
「こわい……」
 まるで悪い夢の中にいるかのように、必死に出口を探して霧の中を彷徨いながら泣きそうな声で叫びました。
「いやだ! もう見たくない! お願いだ! ここから出してくれよ!! 誰かーーー!!」
 真っ白な霧はまるで闇のよう……声が木霊するバカリで何も見えません、見えるのは恐怖が見せる悪夢だけです。
「夢だ。これは悪夢なんだ。早く眼を覚ませ。眼を覚ましてくれよ!!」
 必死で願う間にも、彼は闇の奥に吸い込まれていくように引きずられ、転んでしまいました。痛い。膝をすりむいてしまったようです。「エーンエーン!」ブルーノくんは泣き出してしまいました。痛いのもそうですが、何より恐ろしかったのは、白い闇の中で一人きりになってしまったことです。周りには何もなく本当にひとりぼっちでした。孤独が何より恐ろしかったのです。
(ここは一体どこ? もしかして、ぼくはもう死んでしまったの?)
 そんな考えがふと頭をよぎりました。でも……
「泣いていいのよ」
 ふと、エヴァお母さんの優しい言葉を思い出しました。
「お母さん、男の子だから泣いちゃダメなんて思わないわ」
 とても優しい、ブルーノくんが大好きなお母さんの思い出。
「ただし、泣いた分だけ強い男の子になるのよ」
 その言葉に、ブルーノくんはまた立ち上がりました。きっとお母さんとの思い出が道を照らしてくれる気がしたからです。泣いた分だけ強くなるって約束したから、涙が強さに変わるのなら、たくさん泣いても大丈夫だと思えるようになりました。すると……!
 強い光が、まるで眩しい太陽のようにキラキラと輝きました。ブルーノくんは思わず眼を細めました。
「うわぁ…!」
 あまりの眩しさに目を閉じようとしたその瞬間……!
 バサバサバサバサーーー!!
 風が羽音とともにブルーノくんを包みました。
「!?」
 驚きながらもだんだんと姿が見えてきました。それは……フェニックスです。燃えるような翼を持ち、真っ赤な炎をまといながら燃え盛っていますが、その全身は神々しい光に包まれてきれいでした。まるで永遠に変わらない太陽のように……どんな時でも、嬉しい時も哀しい時も、幸せな時も辛い時も、いつだって昇って、沈んで、また昇る……太陽のようでした。
 ブルーノくんは、その美しさに見とれてしまいました。あまりにも美しく、あまりに眩しすぎて、まばたきすら惜しくなります。こんなに美しいものを見たのは初めてでした。その美しさに心が震え、永遠の時間が流れるように感じ、涙がこぼれそうになりました。しかし……
 ゆっくりと、フェニックスは遠ざかり、小さくなっていきます。
「まだ行かないで! もっと、ずっと見ていたい!」
 そう願っても、フェニックスはどんどん小さな炎になっていき、最終的にはその光がゆっくりと落ちて……消えそうになって……! 最後に一瞬、緑のグリーンフラッシュが輝きました。
 ほんの一瞬のことでしたが、それはとても優しく、力強く、激しく、たくましく、まるで地球や宇宙、そして世界の生命そのものの息吹のように感じられました。
 ブルーノくんはしばらく見つめていたのですが、ハッと我に返り……気がつくと霧は完全に晴れていて、眼の前には虹の谷が広がっていました。
 どうやって戻ってきたのだろう? そんなことを考えていると、
「ブルーノ!!」
「!?」
 その声が夜の虹の谷から聞こえてきました。
「ブルーノ!!!!」
「パパ?」
 アドルフお父さんの声が遠くから響いてきたのでした。

「ブルーノ!! ブルーノ!!!!」
 虹の谷ではブルーノくんを探すために大人たちが大慌てです。清香さんも健太さんも、アルフレッドさんやリリーさん、タケシさん、ミユキさん、シュガーさん、スイートさん、山本さんにジョンくん、シゲルさんハルキさんタカシさんトリオ、チコおばさん、そしてアドルフお父さん……みんなが疲れを忘れて探し回っていました。
「雫、誠、最後は広場で別れたんだよね?」
 健太お父さんが心配そうに聞きます。二人はうなずきました。二人とも必死に落ち着こうとしているものの、やはり不安が顔に浮かんでいます、瞳の奥に涙が溢れそうなほどに。
「帰り道に何かあったんだろうか? それともどこかに行ったのか?」
 みんなが心配そうに呟きますが……
「ブルーノ!!!!!!」
 アドルフおじさんはそんな呟きにもお構いなしに叫び続けます。普段は無口で不器用な彼が、ここまで必死になる姿は誰も見たことがありません。アドルフさんがこんなにも動揺している様子をみんなは驚きながら見守っていました。
「……」
 ハナちゃんがリョーコお姉ちゃんの腕をギュッと握りました。リョーコちゃんはいつも通りのドライな表情でそっと頭を撫でました。そのとき、突然彼女が思い出したように声を上げました。
「そういえば!」
 みんなが彼女に注目します。
「もしかして、ブルーノはセーレの山に行ったんじゃないかしら!」
「!?」
 アドルフさんも、みんながリョーコちゃんを驚きの眼差しで見つめました。
「それは本当か?」
「ええ、だって、なんだかジッとあの山を見つめていたから……」
 リョーコちゃんがセーレの山を指差すと、みんなも同じように山を見つめました。夜の空に浮かぶセーレの山。それは昼間よりも一層大きく、不思議に恐ろしいほどの存在感を放っていました。恐れと美しさが混じり合い、まるで魔力に引き寄せられるような感じがします。
「!」
 そのとき、アドルフおじさんは黙ってセーレの山に足を向けました。
「アドルフさん! ちょっと待ってください!」
 みんなが必死に引き止めようとしますが
「止めるな! ブルーノを探しに行くんだ!」
「こんな夜中に山に登るのは危険です!」
「ブルーノは私の息子だ!!」
 その言葉には強い決意が込められていました。アドルフさんの眼はとても真剣で、まるで何かを失いそうな恐怖に満ちているようにも見えました。その時!
「ブルーノくん!」
「!?」
 セーレの山へと続く道から、ブルーノくんが姿を現しました。肩で息をし、ふらふらしながらもしっかりと足を踏みしめて歩いています。
「ブルーノ!!」
 アドルフお父さんが大きな声を上げ、みんなも一緒に走り出しました。
「無事でよかった……」
 みんながホッと胸を撫で下ろしましたが、アドルフおじさんはすぐにブルーノくんに駆け寄り……

 バチン! 頬をひっぱたきました。

「コラ! こんな夜遅くまで、どこに行っていたんだ! みんながどれほどお前を心配していたと思っているんだ!」
 普段は無口なアドルフお父さんの怒声は、ブルーノくんにとっては驚きそのものでした。
「どんなに心配したか……」
 その言葉には、親としての責任が込められていました。アドルフおじさんはブルーノくんを強く抱きしめました。声がかすかに震えています。
「……すまん……無事だったならそれでいいんだ……あんまり心配させないでくれ……」
「……ごめんなさい」
 ブルーノくんは一言そう呟いて、うなずきました。その顔には少しの照れくささと、驚きと困惑がにじみ出ていました。その姿を見守っていたみんなは、微笑み、胸をなでおろし、心から安心しました。
「アドルフさん、もうその辺りで。今日はもうブルーノくん疲れていますよ」
 山本さんがそっとアドルフおじさんの肩に手を置きました。アドルフさんは黙ってうなずき、ブルーノくんの手を握って家路へと歩き始めました。そして誰もが静かに帰路につき、ただその安らぎの瞬間を感じていました。
「まあまあ、アドルフさん。今度一緒に飲みましょう」
「私は酒もタバコも嗜まない」
「そうでしたね!」
 シゲルさんがアドルフさん背中をポンっとたたきましたが、アドルフさんはギュッとブルーノくんの手を握って離しません。夜の道を誰もがホッとしにぎやかに談笑しますが、アドルフさんだけは一人静かにブルーノくんの手を握ったまま無口です。

 まるで“ひとりぼっち”のように。

 だんだんみんなそれぞれの道を分かれていきます。「ばいばい」「また明日」「よい夜を」など手を振りながら笑顔でお別れをしていきました。やがてアドルフさんとブルーノくんも家に着きました。玄関のドアが開きます。夜のリビング……自分の家が、なんだか今日はとてもホッと感じます。
「エヴァ、エヴァ。起きてるかい?」
 アドルフお父さんがそう言うと二階の寝室からパジャマ姿のエヴァお母さんが顔を出しました。
「ブルーノ! よかった、無事だったのね!」
 エヴァお母さんはブルーノくんをギュッと抱きしめ優しく頭を撫でました。
「エヴァ。すまないが、暖炉をつけて温かいお茶をだしてくれ。今夜はとても疲れたんだ」
「ええ」
 そう言うとエヴァお母さんはブルーノくんのほほにチュっとキスをし、暖炉に向かって歩いて薪を手際よく入れていきます。
「……」
 ブルーノくんはそんなお母さんの後ろ姿をじっと見つめていました。いつも見ている景色のはずなのに、今日はどうしてかとても重く感じました。だからこそじっと見つめていました。
「ブルーノ。今夜はもう寝なさい。また明日ゆっくり話そう」
 その時……暖炉の火がボッと灯り、部屋が明るく照らされました。いつも見慣れているはずの部屋……レンガの暖炉、壁飾りや家具、絨毯などが、すべてオレンジ色の光に照らされ……
「あ……」
 リビングの壁一面に飾られた絵が、ゆらめく炎の明かりに照らされ闇の中に浮かび上がります。ブルーノくんはそれに眼を奪われました。それが、今、とても気になりました。
「パパ、この絵なーに?」
「うん?」
 それは……羽ばたく鳥の絵でした。炎を全身にまとい、夕陽や朝陽のように輝くその姿は、力強さに満ちていて美しかったです。
「これはね、フェニックスの絵だよ」
「フェニックス?」
「不死鳥だ。あの太陽のように千年の齢を重ねた、永遠と奇跡と再生の鳥だよ。私は普段、風景画や眼の前に見た景色しか描かないのだけど……これだけは、どうしても描きたくなったんだ。不思議なことにね」
 アドルフさんは静かに絵を見つめていました。その横顔はどこか懐かしげで、哀しさや淋しさを感じさせました。普段の険しい表情とはまるで違っていて、今にも壊れそうなほど儚げでした。まるで、触れると壊れてしまうかのように……
「パパ! ボク、これセーレの山で見たよ!」
「!?」
 その言葉に、アドルフさんは一瞬振り返りましたが、すぐに穏やかな表情に戻し、静かに言いました。
「そう……きっと疲れて夢を見たんだよ」
「違うもん! 本当に見たんだもん!」
 そう言ってブルーノくんは両頬を膨らませましたが、アドルフさんは静かに言いました。
「ほら、もう寝なさい。疲れただろ?」
「……はーい」
 ブルーノくんは素直に部屋に戻りました。

 …………暖炉の火が静かに燃え続けていました。炎の暖かい光が、部屋を薄暗く照らし、ゆらゆらと揺れながら空気を静かに流し、冷たい静寂の中、部屋はただ静まり返っていました。
 アドルフさんはレコードを取り出し、古びたレコードプレーヤーにセットしました。カチリと針が落ち、ゆっくりと音楽が流れ始めます。それは、哀しい曲でした。静かだけど、胸が締め付けられるような、哀しみを帯びた旋律です。暗い部屋の暖炉に照らされて、レコードの針は静かに奏でました。哀しい調べ……その旋律は静かに凪いでいき、音は暖炉の炎に溶け込み、ゆっくりと闇の中へ消えていきます。
 アドルフさんは暖炉の前のソファーに深く腰を掛け、温かいお茶を飲みながら、じっと炎を見つめていました。炎の中に、自分、ティーカップ、そして哀しげな旋律が映し出され、すべてが温かく優しく、どこか哀しい……その一瞬一瞬が、深く心に響きます。
「あなた?」
 エヴァがリビングに入ってきました。アドルフさんは、ティーカップをテーブルに静かに置き、ぽつりと言いました。

「音楽が終わったら、明かりを消してくれ」

 エヴァはその言葉を聞き、顔を少し曇らせましたが、すぐに落ち着いて、優しく答えました。
「はい」
 彼女の瞳には、どこか哀しさが滲んでいました。それは、とても深い哀しみでした。だからこそ……
 エヴァはアドルフさんの隣に寄り添い、手を握りしめながら、二人で黙って炎を見つめました。アドルフさんは……何も言わずにただ静かにしています。沈黙が支配する夜の中で、レコードの哀しい旋律と、炎が燃える音だけが、静かに響きます。
 音楽が終わりに近づくと、炎は次第に小さくなり、闇がますます濃くなっていきます。暗く、重く、でもどこか優しい……闇……やがて演奏が終わると……部屋は完全に闇へ還りました…………炎の明かりも小さくなり、世界が闇に還ります…………もう何も聞こえないし、見えなくなりました。そんな暗闇の中でも、隣の人がそっと手を握る感触と体温だけが確かにそこにありました。二人だけ……ただそれだけの空間……孤独で寂しいけど不思議と落ち着く感覚…………二人だからこそ感じられるこの距離………………


“おやすみ”
“おやすみなさい”

第一話 おしまい


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