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O quam tristis ああ、悲しい 

A.ヴィヴァルディ作曲 《スターバト・マーテル》からの抜粋

1)Stabat Mater dolorosa – Largo
2)Cuius animam gementem – Adagissimo
3)O quam tristis et afflicta – Andante
4)Quis est homo – Largo
5)Quis non posset contristari – Adagissimo
6)Pro peccatis suæ gentis – Andante
7)Eia Mater, fons amoris – Largo
8)Fac ut ardeat cor meum – Lento
9)Amen – Allegro


カウンターテナーの競演



III Andante 《 O quam tristis 》歌詞

O quam tristis et afflicta
fuit illa benedicta
mater Unigeniti!

Quæ mœrebat et dolebat
Pia Mater dum videbat
Nati pœnas inclyti.

天主の惟一り(ただひとり)なる御子の
尊き母が憂ひ悲み給へるはああ幾何(いくばく)ぞや。

スターバト・マーテル | ヴィヴァルディ | オペラ対訳プロジェクト (atwiki.jp)


Hector 解説と学び


『赤毛の司祭』と呼ばれたイタリアのバイオリニスト、ヴィヴァルディは、人生の大部分を音楽教育と、ヴェネツィアのピエタ慈善院の孤児の少女たちのための作品の作曲に捧げました。
スターバト・マーテルのテキストは、十字架にかけられた息子を見た聖母マリアの悲しみを描いています。
この宗教的なテーマは、バロック時代の画家や音楽家に多くのインスピレーションを与え、彼らはそのような痛みを表現する方法を模索しました。

・減四度音程
・減七度音程
・減五度音程
・ヘミオラとその解釈
・♮の和音の実現
・増四度音程は減五度音程の転回形
・七度和音を用いた和声進行


ヴィヴァルディAntonio Vivaldi(1678-1741)

1693(15歳)神学校に入学
1703(25歳)司祭に叙階 
※喘息の為、ミサ司祭は殆どしなかった
ピエタ養育院でヴァイオリンを教える教師になる
1704 (26歳)ヴィオラ・アッリングレーゼ viole all'inglese も教える
※ ヴィオル族の一種、ヴィオル・ダモーレ viole d’amoreと同族
1705 (27歳)作曲と合奏を指導する任務に

1711(33歳)12協奏曲集「調和の霊感」作品3 オランダで出版
1712(34歳)スターバト・マーテル (ラテン語: Stabat Mater) ☆
1713(35歳)サンタンジェロ劇場の興行師としてオペラの作曲と上演を行う

1725(47歳)「和声と創意の試み」作品8
1727(49歳)協奏曲集「ラ・チェトラ」作品9 カール6世に献呈

1740(62歳)ピエタで演奏会を行い、ザクセン選帝侯公子に曲を献呈
1741(63歳)ウィーンの劇場専用作曲者宿舎で死去。遺体は貧民墓地に。


3足の草鞋(わらじ)?! ヴィヴァルディの活躍

聖職者・ピエタ養育院・オペラ興行師

ピエタでは素質のすぐれた者に特別な音楽教育が行われていた。この女生徒による合唱団と合奏団は、日曜日と祭日にはピエタ養育院附属教会において、ミサ奉仕や演奏会を行っていた。多くの場合、ヴィヴァルディがヴァイオリン独奏を受け持った。ピエタの演奏がヨーロッパ中に知れわたるほどすぐれたものであった、という証言も残されている。

ヴィヴァルディ_生涯と作品 (coocan.jp)

1713年ヴィッチェンツァ初演のオペラ「離宮のオットー大帝」である。この年にサンタンジェロ劇場の興業師にもなった。これは雑用が一杯で、この世界での彼の仕事ぶりは芳しくなかったという。またこれは後に物議をかもす材料の一つになる。聖職者でありながら世俗の商売に手を出したということであった。
それと同時にピエタ養育院では多くの教会音楽(オラトリオなど)や協奏曲の作曲も続けている。同時にピエタではオラトリオ「ファラオの神モーセ」(1714年)や「勝利者ユディタ」(1716年)などの教会音楽作品を発表したし、創作も教育活動もおろそかにしていない。

ヴィヴァルディ_生涯と作品 (coocan.jp)


遺体がウィーンの貧民墓地に埋葬されている理由

晩年のヴィヴァルディ

1740年10月に皇帝カール6世が突然世を去り、オーストリアは1年の喪に服すことになり、オペラ公演は禁止になってしまいました。ヴィヴァルディにとっては、大きなパトロンも失うことになり、二重の痛手でした。

また、彼は作曲家であるとともに、興行主でしたので、オペラの準備にかかる経費も全部負担していました。そのため、大変な借財も背負ってしまったのです。

ヴィヴァルディは、マリア・テレジアの夫フランツ・シュテファンの名誉楽長もしていましたが、女王の相続に異を唱え、プロイセンがシュレージエンに侵攻し、バイエルンがウィーンに進軍してくるといった非常事態の中、とても支援など受けられません。

翌年、1741年6月には、ヴィヴァルディが協奏曲の束を、ボヘミアのコッラルト伯爵に二束三文で売り飛ばした記録が残っています。

そして、同年7月28日。
宿舎としていたケルントナートーア劇場近くの粗末な家で、ヴィヴァルディは、困窮のうちに亡くなります。65歳でした。
死因は『体内の炎症または腫瘍』とされています。
時は猛暑の夏。遺体は、ろくな葬儀もされずに、亡くなったその日の夕方には、貧民病院の共同墓地に大急ぎで埋葬されてしまいました。
埋葬費用は、19フローリン45クロイツァーという最低の費用。

オペラ中止で莫大な借財を背負っていましたから、貧民扱いになってしまったのです。墓地は後に壊されてしまい、この偉大な巨匠の墓は分からなくなってしまいました。

ベニスの巨匠、ウィーンに死す。ヴィヴァルディ『ラ・チェトラ 作品9』協奏曲第9番~第12番 - 孤独のクラシック ~私のおすすめ~ (classic-suganne.com)



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