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霧の思い出と水とりぞうさん
※10月に書いて保存しておいた記事です。
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このところずっと雨降りの日が続いている。
洗濯ものを部屋干しするから、家の湿気がなお一層酷く、水とりぞうさん(ネットで検索したら、まだ存在しているようで、息の長い商品ですね👍)のイタリア版に溜まっていく水分の量が夏に比べて半端ない。
水とりぞうさん。
私は小学校の途中から大学入学前まで、父親の転勤に伴い、北海道の東側の霧深い町で暮らした。
霧は主に夏に酷くなり、水とりぞうさんに加え、窓ガラスの水滴取りをしばしばしないと、たちまち家にカビが生える、そんな町だった。
海辺の町というと聞こえがよいが、札幌で暮らした後に住むと、ただただ何もない町、という印象だった。
人々は浜言葉を使い、エアコンのない(当時は20度を超える日が数日しかなかったので必要がなかった)校舎の開け放った夏の窓からは霧笛の音が聞こえ、都会のティーンエイジャーのように登下校で寄り道するところもなかったから(叢とか公園とか24時間やっていないコンビニとか、そんなものしかなかった)、教師の水準はさておき、何の誘惑もなく勉強や習い事に専念できる環境ではあった。
だからピアノもバレエも普通の塾も英語塾も皆行き、疲れた時には家の前にある駐輪場の屋根の上に寝そべり、ぼーっと空を、空を流れる雲を眺めていた。
時々母親が皮肉にも、「この町、ロンドンみたいな気候だよね」というと、ぐふっという笑いがこみ上げてくる、そんな寂れた霧深い町で多感な時期を過ごしたせいか、大学時代に須賀敦子さんの「ミラノ 霧の風景」を読み、静けさと密やかな哀しみを漂わせる文体で綴られた叙情的な文面から、ミラノに深く共感を覚えたと記憶している。
須賀 敦子(1929年1月19日(戸籍上は2月1日) - 1998年3月20日)
日本の随筆家・イタリア文学者・翻訳家。
20代後半から30代が終わるまでイタリアで過ごした。日本に帰国し40代は専業非常勤講師として過ごす。50代以降、イタリア文学の翻訳者として注目され、50代後半からは随筆家としても脚光を浴びた。代表的な著作に『ミラノ霧の風景』(1990年)、『コルシア書店の仲間たち』(1992年)など。
死去後の2014年に、イタリア語から日本語への優れた翻訳を表彰する須賀敦子翻訳賞が創設されている。
この本を読んだ当時、私は早大の一文の史学科美術史学専修で主に仏教美術とイタリア美術の教えを請い、しかし心の中では「アールヌーヴォーやロココについてもっと学びたいのに(専任教授がいないじゃないか)」と時折悪態をついていた。だが、須賀敦子さんのこの本に出会い、他にも彼女の著書を数冊を読み、パリに惹かれる反面、ミラノも悪くないんじゃないかな、と思うようになった。
勿論これがミラノに住むに至った決定的な理由ではないし、今でもなお、機会があればフランスに移住してやろう、と企む自分がいるが、日常生活に嫌気がさした時、水とりぞうさんもどきの湿気取りの四角い容器を眺めながら、「そうだ、そんなこともあったんだった」と自身に喝を入れるようにしている。
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