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傲慢であることを赦す

「〇〇さんに疑われたままでは嫌」
という思いを握りしめている自分がいると気づく

私の思いは
誤解されるのが嫌
私の感じているものをわかってほしい
理解して欲しい
正しく見てほしい
訂正してほしい
自分の価値判断を信じたままではダメ

これらの考えは私のブログを見てくれている人達に対しても持っていると気がつく‥

私はいずれ奇跡講座を対面で伝える側に自分を置くかもしれない
その前にこれを赦さなければ‥と思いが湧くが‥
いやむしろ取り組みたい
これを赦しの視点で見てから対面で私の思いを伝えたい
奇跡講座を学ぶ全ての人を赦してから
それをやりたい

「私は疑われたままでも構わない」
が知覚の訂正(赦しのゴール)

傲慢なままではダメだと思っている
傲慢さを責めている

ということは
「傲慢であっても構わない」
も一緒に取り組む知覚の訂正(ゴール)

傲慢さって何だろう?
自我を信じること
自分(自我)の強さを頼りにすること

これはダメなの?
ダメではない

私は私(自我)の強さをずっと頼りにしてきた
自分(自我)を頼りに愛を拒絶してきた

そうすることで愛からのメッセージ
神からの贈り物を受け取り続けていた

自我なのに傲慢さが無ければ?
神からの贈り物に気付けない

世界では傲慢さが導いてくれる

自我(傲慢さ)を源に体験することで感じられる感覚を頼りにすることが救いの道となる

私は結局、自我の謙虚さを求めていたと気づく

真の謙虚さとは?
私を退かせること
私の価値判断全てを脇に置くこと
私を空にすること
私を明け渡すこと
神の価値判断のみを受け入れること‥

人間の私には出来ない

でも神の子である私達はすでにその状態で存在している

傲慢さについて語りたいということは
傲慢さについて私の意見があるということ
私は退くことをしていない

私達は傲慢さを体験しにきている
全ての心の表れはこの傲慢さを体験したいだけ
やりたいことをやって
言いたいことを言って
信じたいことを信じる
その自分を許可して
その自分の味方でありたい

傲慢さを体験しながら傲慢さを赦す
私達の魂の願いは結局これ

私(自我)の傲慢さを体験しながら神の愛の中にいることを思いだす
この経験を私はとても愛している‥

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