読了本感想④『すばらしい新世界』/オルダス・ハクスリー
ディストピア小説、と一口に言っても、そこに描かれている社会の「ディストピア」ぶりの程度には、自ずと濃淡があると思います。
読んでいて、「こんな社会には絶対に住みたくないな」、と思わせるような「ディストピア」ぶりの高いものから、「こんな社会なら別に悪くないんじゃないのかな? むしろユートピアに近いんじゃないのかな?」と思わせるような「ディストピア」ぶりの低いものまで、千差万別だと思います。
ジョージ・オーウェルの『1984年』が前者の代表格だとするならば、本作は完全に後者です。
人工出産、フリーセックス、合法ドラッグ『ソーマ』などにより、戦争もない、嫉妬もない、生きる意味を考えたりするような必要もない、「フォード主義」による新世界は、私には一見幸福そうに見えたのです。
いえ、一見幸福そう、なのではなく、「新世界」で暮らしている人々は、本当に幸福なのだと思います。
そんな「新世界」の在り方に疑問や違和を感じているのは、「アルファ」なのに人より体の小さいバーナードや、保護区で生まれた野人のジョンなど、ごくごく一部の人間だけです。つまり、自分の住んでいる社会のことを他者の目線で見ることが出来る、ごく少数の人間だけが、「新世界」の幸福ぶりに疑問を持っている訳です。
もちろん、野人のジョンと同じく他者の目線を持っている我々には、「新世界」の生活は一見幸福そうに見えますが、同じくらい奇異なものに映ります。戦争もない、嫉妬もない、深い悲しみや喜びもない、そんな穏やかで幸福な生活は、やはりいびつなものに見えるのです。「芸術」や「真理」を追求するための「自由」と引き換えの「幸福」は、やはり歪んだものに思えるのです。
ジョンが統制官に言った「不幸になる権利」を、深い悲しみや絶望があるからこその、その反動としての深い喜びや興奮を、絶対に失いたくないと思うのです。
ですが、この考え方は一方で厄介な問題を含んでいます。
もしこの考え方に素直に従うとするならば、良い芸術が生まれるためにはこの世から戦争が無くなってはいけないし、真実の愛を確かめるためには、我々は激しい嫉妬に終生身を焦がし続けなくてはいけないのです。
世界をより良いものにしていこう、という私欲を捨てた崇高な気持ちや、嫉妬などしない器の大きな人間になりたい、という純粋で健気な願いなどを、うっちゃらなくてはいけないのです。
人間は成長なんかしなくていい、より良い社会なんか目指さなくていい、という、いかんともしがたい虚無感を、受け入れなくてはいけないのです。
そんな虚無感を抱えながら生きていくことと、「新世界」の幸福と、一体どちらがより歪んでいるのかと考えると、私にはよく分からなくなってきたのです。
「退屈な幸福」と「刺激的な不幸」、あるいは、「満足した豚」と「飢えたソクラテス」の、一体どちらを選ぶのかといった、究極の選択だと思ったのです。
とにかく面白かったです。ディストピアものはかなり読んできたつもりですが、こんな名作をこれまで読み逃していたと思うと、我ながら、「フォード!」という感じです。