見出し画像

クリムトン フロイトン

1番ホール クリムトン・クイーン

 女たちが思い思いに座る部屋の真ん中の食卓に、婆やが出来たてあつあつのパエリアを平底鍋のまま出す。溜め息混じりの「いただきます」と共に女たちの手と口が動き出し、止むことなく働き続ける。家刀自、ゴッドマザーアリ婆が腕によりをかけて作ったのは、オリーブ油ににんにく、たまねぎをたっぷり、豚肉とじゃがいもを加え、お米を十字に切って入れたあと、揺り籠のように揺らして作ったクリムトン家伝統の料理。
「おお、マンマミーア あんたのパエリアは最高よ。おしっこチビっちゃう。」
婆やの娘、エミーリエ・フレーゲ。ある時はサロン・ド・テの女主人。またある時は万引きGウィメン。またある時はハウスキーパー。ある時はホテル支配人。ひと一倍感激屋さんで食べることに飽くこと知らぬグルマンド。
「おちょぼ口で少し残すくらいが乙女のたしなみなんだから。」
エミーリエの娘、黄金の雨に打たれるダナエ―。容姿に自信が持てずシャイで内気なひと見知り。自分がちっとも好きになれない18の大飯食らいの常乙女。
「食事の時からもうすでに愛の営みははじまっているのよ。」
ダナエーの伯母、ユディト。神殿娼婦にして高級遊女(ココット)。傀儡子を生業とする白拍子。
「美と健康と力の追究こそ女の花道。女はいつも持ったなし。」
叔母、パラス・アテネ。女子プロのヒールを演じるため、リングの上ではマスクウーメンだが、家では素顔を晒しているアマゾネス。象のような図体のくせに蚤のような心臓の持ち主。
「留置所、拘置所、刑務所のブタ箱臭い飯に比べたら、これはアンブロシア。神様に捧げる贈り物よ。」
若い女、アデーレ・ブロッホ=バウアー。かつてその昔、ヤクザな男にほだされ騙され裏切られ、濡れ衣を着せられた元徒刑囚。背中に観音菩薩の刺青持つ哀しき手弱女。
「はやく大人になって、おちんちん生えてこないかしら。」
アデーレの娘、5才になったばかりのメーダ―・プリマヴェージ。おちんちん、うんちを夢見るお年頃。大きくなったら大きなおちんちんで象さんと世界一周をしようと計画している。
 奇麗に平らげられたパエリア鍋が片付けられると、ポルト酒を回し飲みながらフロマージュ。コンフィした黒オリーブ。クスクスをつまみ食い。デザートにイチジクのプディング。ハットルテ。洗い物はみんなで。
ゴッドマザーアリ婆率いるクリムトンクイーン7人は流浪の家族で、地球全体がグランメゾンだ。アリ婆は食器を棚に収めながら鼻唄を歌い、出っ張った下腹を揺らしてステップを踏む。かつて太陽のような男と踊ったフラメンタンゴ。情熱の館では幾日も途切れることなく音楽が続き、命果てるまで踊り続ける。
これは7人の女たちの7人の女たちによる地球上に生きる半分の女たちのための物語。

2番ホール クリムトン・ド・ゴールド

 その店は駅の西口を出て通りの角を右に曲がったすぐの所にあるカンティーヌ(食堂)で、いつも常連客、観光客、駅の行き帰りに立ち寄る勤め人で満席だ。おいしいオムレツとフォンデュが人気で、チーフシェフ、エミーリエ・フレーゲは休む間もなく忙しく働く。外国から来たふたり連れの観光客がバックパックを足元に下ろしてスープが来るのを待っている。男ふたりに挟まれたダナエーが店に入って来て、食堂の隅に置かれた長椅子に仲良く座って席が空くのを待つ。常連客がグリュイエールチーズを使ったフォンデュをスプーンで食べるかフォークで食べるかという、昔から永遠と続く議論を蒸し返している。スプーンで皿を叩く者とフォークで皿を叩く者と、真っ二つに分かれて壮絶な舌戦が繰り広げられ、耳鳴る喧騒が外の通りにまで轟き渡る。部屋の中央に置かれた大きなテーブルには、社交界の花形アデーレ・ブロッホ=バウアーが男たちに囲まれ、芸術の話を語り聞かせている。
猫耳カチューシャを着けたパラス・アテネが仔牛のフリカッセとブリオッシュの入った籠を運んでいく。男装の麗人ユディトと継ぎの当たったフロックを着た男がホロホロ鳥のロティを食べている。
男「新しいものは、よそ行きの感じを起こさせる。新しいものは誰のものでもないからね。」
凹凸コンビのふたりの男に挟まれたダナエーは、おちょぼ口で甘鯛のカルパッチョを口に入れ、男ふたりは一年物のワインで乾杯と馬鹿笑いしながら、ダナエ―の肩に手を回そうとして男同士手を握り合う。チーフシェフ、エミーリエがテーブル席のひとつに呼ばれ、すばらしい料理だったと褒めちぎるグルマンディーズに挨拶し、家族で来ていた男の子とおちんちんを見せ合う約束をしていたメーダ―に一瞥をくれて厨房に戻る。豚肉のポワレを奇麗に平らげた常連客のひとり、競馬帰りの男がパラスを呼び止めデザートにマカロンを頼む。二階のしめやかな特別室にダナエ―を連れ込んで遊戯しようとしていた男ふたりの所に、ドアが開いて哀れな媼を演じるゴッドマザーアリ婆が現れ悲鳴を上げ卒倒しかけ、我に返って男ふたりをぐいぐい締め上げて有り金すべて巻き上げる。
馬鹿が見る 豚のケツ 蠅が止まる
美人局のあとにはいつもゴッドマザーアリ婆はあつあつのオムレツ。ダナエ―はキャビアを乗せたクリームブリュレをいただく。男装の麗人ユディトと古着の男ブランメルは口を拭いた後、夜の街に消える。イカリングをつまみながらポートワインを飲んでいたアデーレ・ブロッホ=バウアーは、男たちを引き連れて二階のしめやかな特別室に向かう。

3番ホール ジャック・アードラーのプリズン

 毎日新鮮なお野菜の調達のため、ベスパに乗って青物市場に向かうのがエミーリエ・フレーゲの日課だ。すばらしい色艶のピーマンと茄子が今日の収穫。マカロンを買って帰ろうとベスパを走らせる。店の裏路地にひとりで座る女の子を見かけて肩越しに覗き込むと、汚いお人形さんで遊んでいる。
「わたしの赤ちゃん。わたしが産んだのよ。大きなおちんちんもちゃんとついてるの。」
「ママは?」
「わたしよ。」
「あなたのママは?」
「わたしのママはね、ムジツのツミでお部屋に閉じ込められてるの。」
「あなたのお名前は?」
「知らないひとには名前を教えちゃいけないって、ママに言われてるから。」
エミーリエは女の子をベスパの後ろに乗せ、「手をしっかりオバちゃんのお腹に回して。お肉をしっかり掴んどくように」言って、家に帰る。

その店の裏路地の辺りまで散歩し、近所の口さがない噂好きの連中からすべての話を聞いてきたゴッドマザーアリ婆が、家族に次のような話をして聞かせた。
裕福な輸入雑貨商の家で何不自由なく育った筥入り娘は、ヤクザな稼業を生業とするチンピラにほだされてふたり駆け落ち。女は背中に観音菩薩の刺青を入れて愛を誓ったが、男は自分のシマでのシノギを荒らされた腹いせに、隣り町の若頭と刃傷沙汰。「ここは痴情のもつれでわたしがやったことにして、あんたは早く逃げとくれ」転がり込んだ女の所でどこかの三文芝居で聞いた台詞を、女にうまく言わせるように仕向けた男は、それっとばかりに逐電。女は大人しくブタ箱に入ったが、すべては男の狂言芝居。新しくできたレコの小利口な奸策。隣り町の若頭もグル。若い女は物の見事に嵌められて、まだ5才になるやならずの子は裏路地に捨て置かれ。
エミーリエ・フレーゲは紅涙を絞って噎び泣き。娘ダナエーは男全般への不信感を募らせた。伯母ユディトはクスクスをつまみながら何も言わず、叔母パラスはヒールであることを忘れて義憤に駆られた。
クリムトン・クイーン。ゴッドマザーアリ婆一家は若い女救出に決起する。

 エミーリエはプリズンの向かい側にあるスーパーに面接に行き、万引きGウィメンとして雇われる。未成年の万引きには家庭の諸事情もろもろ。思春期の鬱屈。愛を求め、愛に傷つき、社会の規範・ルールを破ることでしか自分の存在を確かめること、他人に気づいてもらうことができない。もっと愛が欲しい青少年の不器用な主張。心の叫び。救難信号(SOS)なのだと、諸事万端考慮して親御さんを呼び、懇々と説明してやる。一方、大人の万引きは情け容赦仮借なくバンバン捕え、「万引きは立派な窃盗罪であり、償うことを免れることはできない」と宣言した。仕事、仕事の合間を縫ってプリズンの出入りの状況。昼休憩にはスーパーの屋上でマンマが作って持たせてくれたオレンジパイを頬張りながら、双眼鏡をかざし盲点を探る。伯母ユディトは警察署長を誘惑し、保管庫に厳重に保管されていたメタンフェタミンの入った罎を手に入れる。叔母パラスが女の子に樽乗りの稽古をつけ、ダナエーは昔婆やから教わったフラメンタンゴの復習。
ゴッドマザーアリ婆が大量の卵とじゃがいも、たまねぎを用意して、自慢のトルティーヤを焼く。オリーブ油に塩をいれたフライパンの上でじゃがいもを削ぎ切りにしていき、とろ火で揚げ煮した後、たまねぎとにんにくを加え火を通す。油を切って、卵を溶きほぐしたボールの中へ。木べらでじゃがいもを突き崩しながら、余熱で卵が半熟になるまで搔き回し、とろみがつくまで置いておく。これをフライパンに入れて焼く。フライパンに皿をかぶしてひっくり返し、一旦皿に出したのをフライパンに返して反対側を焼く。これを何度か繰り返して、表面に焦げ目がついたら出来上がり。中身が半熟でとろりと出てくるようなのはトルティーヤとはいえない。
こんな話がある。ある男がフライパンを盗んで逃げ出そうとした時、それを主人が見つけて「何を持っていくんだ」と訊いたら、男は「卵を焼く時分かりますよ」と答えたとか。

ある日の午後の昼下がり。シエスタ(お昼寝)前のお楽しみに、クリムトン曲馬団なる遊芸一家がプリズンへ慰問に訪れる。典獄長ジャック・アードラーは慰問団が全員女性であると知ると、自分が男であることを誇示しながら女たちを慇懃無礼に案内する。中庭の運動場に集められた徒刑囚たちは、急遽設えられた特設ステージ上でフラメンタンゴを踊る女に拍手喝采し、体に巻き付けられた鎖を気合いでちぎるマスクウーメンに驚嘆し、樽乗りして場内を巡る女の子にブラボーを送る。最後に曲馬団長からみんなに、おやつのトルティーヤが振る舞われ、典獄長アードラーにも魅力的な女から黄金色の円盤が差し入れられる。据え膳食わぬは男の恥と、権力を笠に着る男は誰よりも早く多く喰らうことを誇りとし、誰よりも早く深く、前後不覚のシエスタ(昏睡状態)に陥る。
メタンフェタミン入りのトルティーヤを食べた者はことごとく甘い夢を貪り、母親のお腹の中で眠る胎児のように丸くなって指をしゃぶる。女の子は若い女徒刑囚のいる所へ走って行って、母親に抱きつく。クリムトン曲馬団の一座は万引きGウィメンが作った逃走経路に手引きされていく。

4番ホール キング・フロイトのゴルフ

 南国の島タヒチでの日食ツアーに参加したキング・フロイト、ジャック・アードラー、ジョーカー・ユングは、日食までの気晴らしにゴルフに出かけた。三人に付いたゴルフキャディはサンバイザーの下にマスクまで着けていた。「それでは暑いだろう」とフロイトが言うと、
「日焼け対策にはこれくらいしないと」とキャディは笑って、笑ってかどうかは分からなかったが答えた。表に現れ出たもの、一見無意味なものにもすべて意味と価値があり、そこには抑圧された過去の物語を診る三人は、キャディに三者三様の解釈を重ねた。キング・フロイトは「顔はその人そのもの。性器を現しており、そこにマスクを着けて隠そうとするのは、性器を露わにしてひとに見せたいという欲動露出症が抑圧された表現」と診た。ジャック・アードラーは「顔はその人個人の権力欲の誇示であり、それを隠し見せようとしないのは陰の権力。ひとを裏から操るパワー・オブ・ピーポー。
自分は安全な暗闇、集団、数、匿名性の中に埋もれながら、つまり社会という隠れ蓑、仮面を被って権力を行使しようとする世論、風潮、流行、同調圧力の中に自己を疎外して生きる小市民」と診た。ジョーカー・ユングは「仮面を被る者は悲劇役者であり、自己を無辜(むこ)化し、太古の神々と同一化して無意識の世界に遊ぶ一切造者(ヴィシュバカルマン)。創造者願望を持つ者」と診た。
565Yのロングホール パー5
キング・フロイトのティーショット。抓んだ芝生を放って風を読む。ウッドドライバーでぶっ叩いた。
「ナイショッ!」「おみごと!」
続いてジャック・アードラー。フェアウェイキープを念じ左右足踏み。クラブを構える。テイクバックをゆっくり、と心掛けてインパクトの瞬間。アイアンを杖代わりに寄り掛かっていたフロイトがひと言つぶやく。
「プリズンから女を逃がしたそうだな。」
ファァァァァァーーーーーー
ジョ―カー・ユング。風はフォロー。ティーアップして一回素振り。と思って振ったら地面を思いきり抉(ダフ)って、土の付いた芝生が飛んでいく。
ゴルフボールは太陽目がけて上昇し、ちょうど同じ大きさの太陽を隠してダイヤモンドリング。コロナの輪環が妖しく燃え立つ。

5番ホール ハンス少年のカリガリ博士

「先生あのね、ぼくとっても怖い話を知ってるんだ。」
「ふーん」
「知りたい?先生。」
「うん、知りたいね。」
「あっ、ドラだ! ぼくの恋人のドラだよ。もうすぐ結婚するんだ。」
「そうかね。」
「さっきの怖い話、知りたい?」
「知りたいね。」
「それでね・・・」

シュレーバーは役所の検閲官のもとを訪れた。世界の没落後、彼には声が聞こえるようになり、声はシュレーバーに眠り男を連れてハルシュテンヴァル祭へ行けと命じた。シュレーバーはいろいろに抵抗し、声に耳を塞ごうとしたが、声はシュレーバーの頭の中で繰り返し
「なーぜー行ーかーなーいーのーかー」と繰り返し、シュレーバーはとうとう声に屈して旅に出た。検閲官はシュレーバーを廊下で5時間も待たせ、祭りで出す見世物小屋の話もろくに聞かず、鼻であしらわれ、さんざん勿体ぶった挙げ句、お情けのように許可証を出してよこした。

「友だちの鼠男がね、街の至る所に貼られた『夢遊病者狼男』の広告を持ってぼくの所に来てね、一緒に行こうって言うんだ。」

その夜、何者かによって検閲官が殺害されているのが発見された。それが忌まわしい連続殺人事件のはじまりになろうとは、誰も知る由もなかった。

「ぼくと鼠男が見世物小屋に入ると、カリガリ博士っていう人が出てきて、舞台の上には柩の箱が立て掛けられてた。博士が柩の箱を開けると、夢遊病者狼男がゆっくり目を開いて、大きな目を爛襴と光らせてぼくを見たんだ。
カリガリ博士が「狼男は未来のことをなんでも予言できる」って言うもんだから、ぼくの隣りで魅入られたように狼男を見てた鼠男がよせばいいのに
「わたしはあと、どれくらい生きられるか」って訊いたんだ。
そしたら狼男がなんて答えたと思う?」
「さあ」
「狼男はね、友だちに「今夜、死ぬ」って言ったんだ。鼠男のやつ、心臓を掴まれたみたいにドッときちゃって。ぼく、あんまり馬鹿馬鹿しいやって思ったんで、鼠男を連れて小屋を出たんだ。帰る途中、ドラに会って3人で散歩してね。ドラを家まで送って鼠男と別れる時、ぼくはこう言ったんだ。
「ドラがどっちを選んでも、ぼくときみの友情は永遠に変わらない」って。

「次の朝、鼠男の家の女中がぼくの所に来て、鼠男がベッドの中で殺されてるって言うんだ。ぼくはビックリして鼠男の部屋に飛び込んでいって、ナイフが刺さったその死体を見た。ぼくは逃げるように友だちの家を出て、ドラにこのことを伝えに走ったんだ。」

その夜、泥棒に入った男が老婆を殺そうとして捕まり、警察は連続殺人容疑でその男を取り調べた。

「ぼくは変だと思ってカリガリ博士の家に行ってみることにしたんだ。ドラは止めたけど、どうしても確かめたくてさ。家のドアを叩くと博士が出てきた。眠り男を見せろといって迫ると、博士は不敵な笑いを浮かべて
「どうぞ」と言って家の中へ入れてくれた。柩の蓋を開けると狼男が眠っていて、おかしなところは何もなかったんだ。その時、外の方で大騒ぎしてるから出ていってみると、
゛連続殺人犯、逮捕゛の号外だ。」

シュレーバーは慌てて駆け出していった少年を見送り、柩を牛車に乗せ今日の興行のため見世物小屋に向かう。

「ぼくは警察に行って、容疑者の男が「老婆を殺そうとしたのは本当だが、ほかの殺しはおれじゃない。」と証言するのを聞いたんだ。」

ドラはハンス少年のことが心配になって、カリガリ博士の家まで行ってみたが誰もいなかった。まだ始まっていない祭りの見世物小屋の前まで来ると、そこにカリガリ博士が立っていた。博士は「ぜひ見ていくように」とドラを誘い、ドラは促されるまま小屋に入る。博士が柩の蓋を開け、眠り男がゆっくり目を開く。大きな目と目が合った瞬間、ドラは発狂しそうになって悲鳴を上げ、小屋から逃げ出す。

「ぼくはやっぱり変だと思ってね。夜の間、カリガリの家を見張ってることにしたんだ。」

その夜、眠るドラの寝室の窓に人影が差し、窓を割った。侵入者はドラの顔を見つめた後、首に手を掛け締め上げようとする。目醒めたドラが抗いもみ合いになる中、ドラはマントルピースの角に頭をぶつけて失神し、物音を聞きつけて駆けて来る使用人から逃れようと、侵入者はドラを担いで窓から出る。追っ手を撒けぬと見た侵入者は、ドラを町外れの城郭に残して逃走し、断崖上へと追い詰められた者は、我と自ら墜ちて身を殺める。

「カリガリの家の前でなにも起きずに夜が明けて、ぼくが下宿に戻ってくると、ドラがさらわれたって聞いて、一目散にドラのところへ飛んでいった。城郭の上で発見されたドラはベッドで眠っていて、ぼくはひと晩じゅう付き添ってあげた。気がつくとドラはぼくの顔を見て「狼男よ!」って叫んだんだ。そんなはずはないよ。ぼくはずっとカリガリん家の前で見張ってたんだからね。でもドラは絶対に狼男。眠り男だと言って聞かないんだ。だからぼくはカリガリんとこへ、もう一度行ってみたんだ。」

ハンス少年は警察で経緯(いきさつ)を説明して、邏卒を引き連れカリガリ博士の家に向かう。さえぎるカリガリを押しのけて家に入り、柩の蓋を開けると、狼男の服を着せた蝋人形があるばかり。ハンス少年と邏卒があっけに取られているその隙に、博士は逃亡。カリガリが逃げた方角を追ってハンス少年が辿り着いたのは、どこかの病院で、医局のひとに「ここにカリガリ博士というひとはいないか」尋ねる。
「患者のことなら院長に訊いてみるといい。」と言われて、待合室に案内される。そこでハンス少年が見たのは飾られた歴代院長の写真で、今の院長の顔がカリガリ博士だった。

ハンス少年は医局のひとに事情を説明して協力を仰ぐ。その夜、カリガリが就寝した後、ハンス少年は医局のひとに案内されて院長室に忍び込み、何か証拠になるものはないか探す。本棚にあった文献の一冊を手に取り開くと、
『夢遊病について 1156年   大学の秘蔵書』とあった。
これは院長の研究論文だと、医局員が教えてくれた。

【昔 1093年のこと。カリガリという名の修道士がいた。
彼は木の柩に夢遊病者を入れ、北イタリアのちいさな町を訪れた。
彼は催眠術により、夢遊病者を操ることができた。
そして、彼はそれを使って果てしない欲望を満たすことにしたのだ。
町では次々と忌まわしい事件が起きた。そして町じゅうがパニックに陥った。】

本に挟まれた病歴のメモには

3月12日 ついに夢遊病者が当精神病院に到着する。わたしは長年の欲望を現実にできるのだ!今のわたしには何でも思いのままだ。
そう、殺人も可能なはず。
わたしはカリガリになるのだ!

「ぼくはボンヤリしちゃって。頭がグルグルしてね。何がなんだか訳が分からなくなりそうだった。町に帰ってくると、崖下で眠り男が見つかったって聞いてね。この死体を院長の所へ運んでいってやったら、院長どんな顔するだろうと思ってね。いい見ものでしょ。」

ハンス少年が院長のもとを訪れ、邏卒によって運び込まれた遺体に掛けられたシーツを剥いでみせる。それを見たシュレーバー院長は、狼男を凝視したまま暴れ出し、発狂した。医局の者たちに取り押さえられ拘束衣を着せられ禁固牢に閉じ込められる。

「今、院長は独りぼっちで暮らしているんだよ。」
「哀しいお話だ。」
「怖いお話だよ、先生。」

フロイトとハンス少年が散歩から病院に戻ってくると、ハンス少年は壁に寄り掛かって薔薇の花を嗅いでいる男を見た。
「狼男がいるよ! 彼に予言されたら死んじゃうよ!」と叫んだ。
噴水の縁に腰掛けた女性を見ると、
「ドラ! ぼく達、いつ結婚式を挙げようか?」
階段から下りてきた白衣の男を見たハンス少年は、驚愕の度が過ぎて白目剥き、ひきつった声を張り上げて叫ぶ。
「このクソ野郎! この男に騙されるな!こいつはぼく達を殺す気だ。
カリガリ博士だ。こいつがカリガリだよ!」
絶叫しのたうち回る少年を医局のひと達が取り押さえ、拘束衣を着せ禁固牢に閉じ込める。シュレーバー院長は少年を慈愛深い眼差しで見つめ、ハンスは憤激に満ちた物凄い形相でシュレーバーを睨み据え続ける。
「やっと彼の心の妄想が分かった。彼はわたしを伝説のカリガリ博士だと信じているのだ。しかしわたしはカリガリではない。わたしは声を聞く者。わたしは女性となって光を受け入れる存在なのだ。残念だが、きみを救えるのは声だけだ。」
「シュレーバー院長。」
「あなたは?」
「ジグムント・キング・フロイトです。」
「知らんな。」
「そうでしょうとも。会ったことは一度もないのですから。」
「ではなぜ、きみとわたしがこうして喋っているのか?」
「ある男の妄想の中で。」
「ひとを癒せるのは光の声だけだ。」
「宗教は強迫神経症です。意味はなくともそれをやっていると心が安まる。精神安定剤のようなもの。」
「どいつもこいつも。あなたもわたしも精神を病んでるという訳だ。」
「正常か異常かの違いはただ、純粋に抑圧されたエネルギー(欲動)の量的な差異に過ぎません。ひとは心的現実を生きる動物。妄想も虚構も。幻想。空想。夢。架空の物語も心の中では現実に起こった、実際に生きられた事実となるのです。」

天使の6番ホール 国境なき看護団

 流浪の家族、一家の刀自ゴッドマザーアリ婆率いるクリムトン・キャッツの一族は、飢餓・貧困・内戦・紛争のある場所。難民キャンプ。見捨てられたちいさな村落。地図から消された地域。政府の手の行き届いていない場所。ストリートチルドレンがゴミ山を漁るスラムを訪れ、介護と娯楽を惜しみなく与える。ボディタッチでセロトニン。脳内麻薬ドーパミンを促すお薬。物語を与える。インナーヴィジョン 幻想感覚を刺激し、現実をすこしでも生きやすいもの、受け入れやすいものにする。想像力を持つ者。自らの内に幻想を作り出し、世界を創造する者は、外から入れる自滅的な薬など必要としない。自らの内のドーパミン 想像力を持つ者は、このどうしようもない悲惨の極みの地上にあっても、現実を強く昇華し浄化して生きていける。
生きとし生けるものの中でインナーヴィジョンを手に入れた人類は、万能の力持つ魔法使いとなってもうひとつの世界を構築する。内と外。現実と理想。善悪の彼岸。正常異常の境界に立つ者。トリックスター。詩人。魔法使い。錬金術師。科学者は世界に一石を投じる。波紋はどこまでも広がってゆき、境界を越えて向こうへ。反響してこちらへ還って来る。夢見る使者よ。
現実を自らの手の内で転がし、哄笑せよ。嘲笑せよ。失笑せよ。憫笑せよ。大爆笑せよ。微苦笑せよ。高らかに鼻で笑え。
想像のない毎日は世界の没落を意味する。われ思うゆえにこの世は生きるに価する。現実は辛く苦しく空しいが、もの思う力ある限りこの世は美しい。

7番ホール クリムトの仕事人

 歓楽街の外れにあるバルのカウンターで、フォアグラを乗せたカナッペにキュラソーを合わせて飲んでいた傀儡子ユディトは、後ろのテーブル席で飲んでいる客の会話を何気なく耳にしていた。
「観音様、様様だよ」
「ご利益あるわよね」
「実力のあるところに運はついてくるのさ」
「女は強かで小利口なのが一番」
「わたしのこと?」
「観音様は塀の中」
傀儡子ユディトはキュラソーを飲み干して、バルを出た三人のあとを尾ける。二軒三軒とバルをはしごして、男二人女一人は隣り町の一等地に建つ豪壮なデザイナーズマンションの一室に消える。

クリムトン一家の刀自ゴッドマザーアリ婆は今どき、復讐なんて流行らないと反対した。熱情に震え慄くエミーリエ・フレーゲは渋る若い女の説得に躍起になり、女の煮え切らないその態度に憤懣やるかたなく、感情を爆発させ地団駄踏んで悔しがる。背中に観音菩薩背負う女アデーレ・ブロッホ=バウアー。忘れたい記憶から目を逸らさせまいとし、しっかと過去を見据えて決起を促すエミーリエに対して、はじめは反感を覚えて相手にしなかったアデーレも、その滾る情熱、熱意、我がことのように真剣に怒りに震え燃え盛るのにほだされて、段々と気持ちが動いて蓋をしていたパンドラの箱を開く。そして行動に移すと決心する。娘メーダ―・プリマヴェージもやるといって聞かなかったが、向こうでお医者さんごっこでもしてなさいと追い払う。
マスクウーメンパラスを仕事に加えようと話に行ったが、次の試合を間近に控えていたパラスは象の図体蚤の心臓で体よく断られる。エミーリエは、ここはわたしとユディト、アデーレ。復讐(エリニュス)の三美神で仕事すると決めた。

その日、ユディトは隣り町の若頭がよく出入りするクラブのオーナーと話をつけて、出稼ぎに来たポールダンサーとして出演させてもらう。ユディトは薄暗いフロアーでスウィングしていた若頭から目を逸らすことなく、煽情的なポールダンスで相手を魅了し、忽ち虜にしてしまう。若頭は呪縛にかかったようにユディトを見つめ続け、指を弾いてオーナーを呼び耳元で囁き、店の裏口でユディトの仕事が終わるのを待っている。
その日、登録済みの派遣会社からエミーリエのところに連絡があって、高級マンションでのハウスクリーニングの仕事が入る。ユディトは黒のジャガーの助手席に滑り込むと、「あなたの部屋に行きたい」とハンドルを握る若頭の耳元に唇を寄せて囁く。観音菩薩背負う女アデーレ・ブロッホ=バウアー。頭に嵌めた鉄輪に蝋燭を立て帯に挟んだ匕首。白小袖の上に黄金の小袿(こうちぎ)を羽織って家を出る。ハウスキーパーエミーリエが派遣先のマンションに到着、エントランスのコンシェルジュに来意を告げオートロックを解除してもらう。若頭にぴったり体を密着させたポールダンサーが掃除道具を運ぶハウスキーパーとすれ違う。上昇していくエレベーターの中で男と女は二匹の獣となって熱い吐息と涎を絡ませ合い、よろけた拍子にタッチパネルのすべての数字が押され、各階ごとに扉が開く。頭の炎揺らす鬼女がマンション裏口、非常階段を駆け上がり、ひと足早く作業用エレベーターで上がってきたハウスキーパーが非常扉を開け、部屋に向かう。部屋のドアを開けると、全裸のカップルがリビングのソファでいちゃついている。タパスの食べ散らかし、ピスタチオとワインの空き瓶が転がる部屋。ハウスキーパーは何も言わずバケツの中からサイレンサー付きグロック銃を取り出し、小利口な女の頭を撃ち抜く。
 部屋のドアが半開きになっていて中からワインのコルクを抜く音がする。
若頭はなんだか変だなと思いながら、手を引っ張る女につられて部屋に入る。飛び散った血飛沫がリビング全体を斑に染め、グスタフ・クリムト作「サロメ」の入った額縁から甘い血糊が滴る。半狂乱で逃げ惑う全裸の男が身体じゅうに返り血をこびり付かせ、バスルームの中へ踊り込む。鉄輪を嵌めた女が帯に挟んだ匕首を抜いてバスルームに入っていく。若頭は失禁の水溜まりを作ってわななき、そばに立つ傀儡子はハウスキーパーから手渡されたグロックを男のこめかみに当て引き金を引く。浴室の鍵を閉めてガチガチ歯の根の合わない音を鳴らしていた男の目に、磨りガラスの向こう。黄金の帷子が近づきガラスが蹴破られる。
絶叫と共に振り仰がれた男の頭上にアデーレ・ブロッホ=バウアー。般若の形相と巡る蝋燭と掲げられた匕首。愛憎半ば鬩ぎ合う葛藤の下、アデーレは匕首を掲げたまま動けない。
「ヨハネの首を!」
母親と同じ姿形。頭に嵌めた鉄輪に蝋燭の火。白小袖に黄金の小袿。母親のあとを尾けてきたメーダ―・プリマヴェージが
「ヨハネの首を!」ともう一度叫ぶ。
「だってプリマ、これはあんたのトトさまじゃないの!」
父親はすでに泡を吹いて失神している。
「わたしの家族はグランマ エミーリエ ユディト パラス ダナエ ママ。おちんちんをちょうだい!」
アデーレは夫の一物に匕首を当て、綺麗に切り取って娘に与えた。

8番ホール パラス・アテネのプロレス

 燃えろ女子プロ生中継特番
実況 天高く馬肥ゆる秋。10・16。クリムトン体育館。いよいよ決着の時。メインイベントのキューティクル鈴本対世紀のマスクウーメン、ヒールキャットの因縁の対決が始まろうとしております。解説はおなじみ小鉄さんです。小鉄さんよろしくお願いします。
解説 よろしく。
実況 宿命のライバル同士。これまで数々の死闘を繰り広げてきた二人。戦績は35戦 キューティクル鈴本の31勝4引き分け。ですが力の差はほとんどない、五分と五分と言われてきました。小鉄さんはこれまでの二人の戦いぶりをどう見ていらっしゃいますか。
解説 そうですね。いつもヒールキャットのちょっとした判断ミス。作戦失敗。タイミングのずれ。ケアレスミスでヒールキャットは勝てる試合をことごとく落としてるんですよね。今夜の試合はミスなく、そつなく、締まったいい試合を期待したいですね。
実況 そうなんですよね。ヒールキャットはいつもちょっとした切っ掛けから墓穴を掘り、自滅する。そんなパターンを何度も観ているこのマッチング。さあ、今夜はどういった戦いが展開されていくのか、非常に楽しみなところ。
青コーナー キューティクル鈴本の入場です
実況 
さあ、いつもの「燃えよドラゴン」のテーマに合わせて入場してきたキューティクル鈴本。黄色地に体側面黒筋一本のコスチューム。ブルースリー ラーメンマン ユマサーマン キューティクル鈴本と受け継がれたマーシャルアーツ伝統の試合着。柔道初段。合気道初段。極真空手初段。テコンドー初段。書道八段。羽根飾りを取って、リングサイドの観客席に放る。
赤コーナー ヒールキャットの入場です
実況 
さあ、「ジョーズ」のテーマに合わせてヒールキャットが竹刀を振るって現れた。鉄柵、パイプ椅子、付き人を殴り倒していくが、決っして観客に当たることはない。猫耳付きの黒マスク。ポリ塩化ビニール樹脂のボンテージに身を包んで今、ヒールキャット降臨!
ニャオォウ! 
実況 
雄叫び いや雌叫びが上がる!
レフェリーが凶器を持っていないか、双方をボディチェック。おおっと!
これはどうした⁉ ヒールキャット、ゴング無視でキューティクル鈴本にいきなり飛び掛かっていった!
カン!
実況 
いま、ゴングが鳴って試合開始。ちょっとビックリしましたね、小鉄さん。
解説 よくありますよ、こんなのは。
実況 お互い相手の出方を窺って、リング上をぐるぐる回る。ヒールキャットが片手を掲げてみせた。組もうというのか、キューティクル鈴本も同じ側の腕を伸ばしていって、指をがっちり組んで力比べだ。
ヒールキャット強い強い。力だけなら女子プロ一、相手にならない。キューティクル鈴本、押し込まれるまま、そのままブリッジに入った。首で身体を支えて相手を投げ飛ばした!
オオー!
実況 
技のキューティクル鈴本。力のヒールキャット。
あっと! ヒールキャット、セコンドから鎖を受け取った。これはいけません。姑息な手段だ。
解説 鎖が絡まって解けないみたいですね。
実況 策士策に溺れたか。自縄自縛のヒールキャット。
キューティクル鈴本すかさずコーナーの頂に上がって必殺の 洛陽紅脚!
オオー!
実況 
ヒールキャット、撃沈! たまらず這ってリング下に逃れる。
解説 いまのは相当効いてますよ。
実況 ええ あっと! ヒールキャット、またセコンドから何か受け取った。今度は何だ? ‥‥スプーンですか?これはどういうことか。
ヒールキャットが何かセコンドに叫んでいる。スプーンで何をしようというのか。
解説 フォークと間違えたんじゃないですか、おそらく。
実況 なるほど。これはとんだお角違い。お笑い草だww。フォークとスプーンを間違えてセコンドが渡してしまった模様。ヒールキャット、スプーンで相手の足を掬いにいくが、そうはうまくいかない。
キューティクル鈴本なんなく躱して すぐに来るぞロープにヒールを振って
自分は反対側のロープへ。撥ね返ってきたところを猛虎百歩拳!
オオー!
実況 
これはヒールキャット、半ば放心状態で場外に転落! 大丈夫か?
解説 相当ダメージがでかいですね。肉体的にも精神的にも。
実況 さあヒールキャット、リングに戻れるか。キューティクル鈴本はロープに寄り掛かって、ヒールから片時も目を離さない。まさしくグリコアーモンド・エンジェルアイ。
ああ、ヒールキャット ようやく立ち上がって場外マットの上をうろつき始める。レフェリーがカウントを続けている。セコンドとすれ違って、ロープ下から転がり込んだヒールキャットめがけてキューティクル鈴本
ああっと⁉ これは何だ? どうしたのか キューティクル鈴本が足の裏を押さえてのたうち回っている。場内騒然として、何が起こったのか。
解説 撒きビシですよ。撒きビシを撒いたんですね。
実況 マキビシ⁉ ああっ! リング上に画びょうが!
解説 やりましたね。セコンドとすれ違った時、画びょうを受け取ったんですね。そしてリングに上がりざま撒いた訳だ。ヒールキャット、ここはチャンスですよ。
実況 ずるい! 卑怯! ワルい! 情けない! セコい! いただけない!
解説 それがヒールですからね。しかしここはヒールのチャンスですよ。
ブーブー ブー
解説 
もの凄いブーイングの嵐。ヒールキャット、猫耳に両手を当てて、どこ吹く風と受け流す。コーナーの頂に立って人差し指、「一番」の指を高く掲げた!
ニャオォウ!
実況 
まだ足を押さえてうずくまっているキューティクル鈴本めがけて
ビッグキャッティングダーイヴ!
オオォ!
実況 
間一髪キューティクル鈴本場外へ逃れた!
ビッグキャット転げ回る!転げ回っている!黒豚(ペグ―)光りする巨体を波打たせて画びょうの海へ死のダイヴ。いつも通りの自滅行為!
解説 またやっちゃいましたね。
実況 ああ、セコンドが白タオルを投げ入れる。
カンカンカンカン!
実況 
ヒールキャットの体に刺さった画びょうをセコンドが一個一個抜いてやっております。解説の小鉄さん、この試合振り返ってみてどうだったでしよう。
小鉄 キューティクル鈴本の技は相変わらず素晴らしいですし、スピード・判断力・精神力、申し分なしですね。ここ当分はキューティクル鈴本の時代が続くんじゃないでしょうか。ヒールキャットの方はですね、セコンドのミスがあったとはいえ、千載一遇のチャンスをものにできずに最後は自らのミス。いつもの自滅行為ですからね。もう少し冷静な状況判断をして、クレバーな戦いをしてもらいたい。
実況 この試合はクリムトン体育館から。解説に小鉄さん、実況は旧舘でお送りいたしました。燃える女子プロ生中継、このあたりでお別れしたいと思います。小鉄さん、ありがとうございました。
小鉄 いいえ、こちらこそ。

9番ホール クリムトン・エレンディラ

 不毛な白砂漠ホワイトタクラマカンバルキーの続く大地に、奇妙な一団の噂が立ち始めたのはいつの頃だったか。白い砂漠の真ん中に、ある日ぽつりと黒い一点からはじまって、光り輝く黄金の一団が砂上を行脚していく。
露払いにおかっぱの女の子が、太陽を象る玉鉾を掲げて行く。黒衣の花嫁が鈴を鳴らして行く。黄金の仮面を被った女が黄金の牡牛バール神を担いで行く。朱雀と胡蝶を金糸銀糸で縫い絡めた、豪華絢爛の西陣織に身を包んだ花魁が、襟抜き艶めかしく高木履でしゃなりしゃなりと砂地に8の字を描いて行く。黄金の首輪、ローブ・デコルテで大白牛車の馭者台に立つココット。
金砂子のネグリジェから裸体が透けて見える常乙女が、真珠の首飾りをして牛車の螺鈿筥の上に寝そべる。荷台の金襴緞子の襞の奥、綾羅錦繡の羽根布団で眠る媼が行く。
外灯にぶち当たってもぶち当たっても懲りずにまつわりつく羽虫のように後を追いかける男たちは、ホワイトタクラマカンバルキーをあちらこちらと、キャンプを張って見世物興行を楽しむ。襲ね式目の裳裾を潜って辿り着くウィメンホール御仏。男たちは順番カードの数字を穴が開くほど凝視して、手の甲の静脈がすべて浮き出るほど握り締め、カードを逆しまにして番号が若くならないか試みる。夜が明けるまでのサクラメント(秘蹟)。夢の時代(アルチェリンガ)の到来。常世の長鳴き鶏が鳴いた途端、襲ね式目は閉じられる。そしてまた、次の土地へ。
白砂漠の続く不毛な大地に、黄金の花魁道中を観劇することができる。ホワイトタクラマカンバルキーの上、男たちは夢を追う。物語を訪ねる。記憶を辿る。夢を重ねる。行きて還らぬ御仏の、青春の日々。聖なる春。夢の時代の残り香を求めて。

10番ホール ヒットウィメン・ドラ

 先生から拳銃を手渡され、サロン・ド・テの女主人エミーリエ・フレーゲのことを聞かされたのは、ドラが先生の治療を受け始めてすこし経った頃だった。あのことを隠しておくためにも、ここは黙って従っておくに越したことはないと思い、ドラはうなずいた。サロン・ド・テは街の裏手にひとつ入った所にある、瀟洒なビルの一階と二階を占めている中国茶館だ。向かいの通りは古い家々が建ち並ぶプチブルの住宅街で、ちょうど茶館の出入り口が見える家の住人が、家庭教師募集の広告を出していた。先生が裏から手を回して都合よく、ドラは家庭教師としてその家に入ることができた。
面倒を見ることになった5才の男の子は、馬を怖がるちょっと変わった男の子で、「お姉ちゃんのおちんちん見せて」とねだり、ドラが「そんなものはありません」と言っても「ウソだ」と言って聞かず、クリノリンの中にもぐり込もうとした。自分のうんちを自分の産んだ子供だと信じて疑わないのでドラが「間違ってますよ」と諭しても、「子供はおしりの穴から出てくるんだ」と自信たっぷりに豪語して譲らなかった。ドラは家庭教師として徹底的に、猿でもわかる性教育をこの子に叩き込んでやった。つまり、こうだ。

むかしむかし、あるところに男と女がおりました。ある日のこと、男は女を好きになりました。女も男を憎からず思いました。そしてふたりはその夜、結ばれたのです。男のおちんちんは大きくなり、女の穴は濡れました。男はおちんちんを女の穴に入れ、揺り動かしました。男のおちんちんの先から、おしっことは違う白いミルクが飛び出し、女の穴の奥の奥、卵の眠る部屋にミルクの一滴が辿り着きました。この卵が女のお腹の中で大きくなって、十月十日後、おしりの穴ではなく男の金玉袋の位置にある女の穴から、赤ちゃんとして産まれてくるのです。

 男の子は玄妙魔訶不可思議なおとぎ話を聞かされて、「そんなのはウソだ!」と叫んだ。「絶対に信じない。そんなむかし話なんか全部ウソっぱちだ」とわめき続ける男の子に、ドラは家庭教師として「これは厳然たる現実」「逃げも隠れもしない立派な事実」「絶対の法則。真実。ほんとうのお話です」と男の子の頭を抱え、おでことおでこをくっつけてじっと目を見つめ、「神に誓って」宣言してやった。
男の子は不服そうに口をとがらせていたが、すこしもじもじして「ぼくのおちんちんは全然大きくならないし、ミルクなんて出ない」と言った。ドラは「大人になれば大きくなるしミルクも出る。子供でいられる時は短いのだから、いまは子供の時間を楽しめばいい。大人になれば守らなくちゃいけないルール、マナーがたくさんある。責任も生じる。自分の尻は自分で拭く。落とし前は自分で着けなくちゃいけない。子供は子供であれ。子供の仕事は遊ぶことだ」と、男の子と適当に遊んでやりながらドラは通りの向こうの茶館に目を配り、ひとの出入りに注視していた。男の子は相変わらず家の外を馬が通ると怖がり、自分のうんちをはじめての贈り物、子供だと思って話しかけ、女の子にもおちんちんがあると信じていたが、ドラのクリノリンの中に入ろうとはしなくなった。
 茶館の客足の途絶えた午後のこと、お昼寝をはじめた男の子の寝顔を見届けて、ドラは通りを渡った。
「いらっしゃいませ」 青龍の刺繍浮き上がるシルクのチャイナドレスを着た店員が出てくる。この女じゃない。
「店主のエミーリエさんにお会いしたいのですが」
右肩に踊る青龍の頤の上、吞まれんとする宝珠の女がふいに近づいてきて、ドラの耳元で囁く。
「妊娠なさってるのね。それじゃこの鉄観音がよろしいわ。不足がちな鉄分を補えて、産後の肥立ちもよくなるのよ」
ドラの隠されたものは暴かれ、築き上げていた壁は音を立てて崩れ落ちた。

ドラのエミーリエ・フレーゲ暗殺は失敗に終わる。

11番ホール エミーリエのサロン・ド・テ

 中国茶を手軽に気の置けない友人と楽しめる茶館を開こうと思い立ったのは、なんでも熱しやすくてとことんまで追求してみないと気が済まない性のエミーリエで、テナントに出されていたビルの一階を改装し、通りに面した壁に南洋産の木材の格子の入った丸窓を大きく開けた。中国、台湾、香港から直輸入で茶葉を取り寄せ、常時百種類程度を揃える。二階には茶飲み友だちが買い物帰りに立ち寄れる喫茶室を設け、最奥の三畳間の茶室には家刀自西王母アリ婆が、一期一会の過客に桃を切ってふるまう。毎朝、エミーリエは店にやって来るとアデーレに手伝わせて、今日の花茶を店頭に飾る。
中国茶には大きく分けて六種類のお茶、青茶。緑茶。白茶。黄茶。紅茶。黒茶と、水中花のようにお茶の中で花の開く花茶。工芸茶がある。すべての種類を数えると二千種を越えるといわれる奥の深い世界だ。エミーリエは難しい作法や淹れ方を抜きにして、とにかくその香り。見た目。味わいを楽しんでもらおうと、低価格で喫茶室を開放した。今では各界の名士、著名人たちが散歩がてら集う人的交流の場、噂の交換所、隠れ家的存在になっいる。
 竹細工の衝立に仕切られた円卓に座る三人は、それぞれ東方美人。烏龍茶。プーアル茶を喫しながら話している。
「ドラは失敗した」
「禁固牢にぶち込んでしまえばいい」
「ドラは妊娠しているんです」
「バカな!妄想だよ。想像妊娠だ」
「夢の時代(アルチェリンガ)がはじまっていると考えるべきです」
「そんなことはとうの昔にわたしが判断したことだ。きみに言われる筋合いはない。それより今、考えるべきは真珠の首飾りのことだ。そのために三人、集まったんだろう。一家の家宝手にした時、抑圧から解放さた過去の記憶が蘇り、うんこは贈り物となる」
「権力を我が手に」
「真珠は髑髏の名残りであり、権力を誇示する道具。異性の歓心を買う贈り物だ」
「われわれの目指すものはひとつ」
「物語の復権」

12番ホール クリムトン・グランドキャットホテル 

――あんたのおかげでわたしの試合が台無しよ。セコンドなんか頼むんじゃなかった
――墓穴を掘ったのは誰よ!
――ダナエ!口を慎みなさい。叔母さんに向かってなんて口の利きようだろう
――象の図体、蚤の心臓
――ダナエ!

――すべての反感はとどのつまり、解釈の違いから起こっている。わたしはそこに幼児期の記憶。体験。現在の意識から抑圧され歪曲され、空想・捏造された過去を見る。
――わたしはそこに権力への意志。男性的抗議を。
――わたしはそこに神話や民族の伝統・歴史。太古の時代からの元型(タイプ)を。
――わたしはそこに前世からの記憶を。
――わたしはそこに遺伝。脳の疾患。ホルモン物質の影響を見る。

――世界の没落にわたしは泣いた。そしてわたしは声を聞くに至った。光の声を。わたしは誓った。女性化したわたしを光に捧げ、世界を救済しようと。

――うんこははじめての贈り物であり、子供であり、お金であり、言葉である。

「クリムトン・グランドキャットホテル。ひとが来ては去って行く。何事もなかったように」
ホテルラウンジのソファに座っていたホテトル嬢ユディトは立ち上がって、フロントカウンターへと近づき「コールはなかった?」と係のひとりひとりに訊いて回ったが、コールはなかった。2日前、ホテルにチェックインした狼男は「飼い猫に銀のスプーンをやらなかった」ボーイをこっぴどく搾り上げていたが、エントランスに入って来た少女を連れた女に目を奪われて飼い猫のことを忘れた。客室係(ルームキーパー)パラスとダナエーが肘で小突き合いながら業務用エレベーターから降りて来ると、ダナエーは真っ先に狼男の姿が目に飛び込んできて、顔を真っ赤にしてしまう。たとえ、何人たりとも自分の背後に立たれるのを嫌う鼠男は、絶えず後ろを振り向き警戒しながらフロントに寄ってくると、
「もっと大きな便座のある部屋に変えてくれ。おしりがすっぽり入るくらいの。何?何だと⁉ 金ならいくらでもある。シュレーバーがここに泊まっているだろう。知ってるんだぞ。おれを有罪にしやがったシュレーバー控訴院長殿が。奴と同じ部屋、いやもっと大きい部屋にしろ!奴のでっかい尻がちゃんと収まってる便座よりも大きい便座に。おれを有罪にしやがったんだ」
フロント係に突っかかっている鼠男の横で、キングフロイト。ジャックアードラー。ジョーカーユング牧師の面々が、チェックインを済ましてエレベーターを待つ。
木陰のソファにホテル支配人(マネージャー)エミーリエ・フレーゲと座るシュレーバー控訴院長が、
「わたしは完全なる女性化を求めてこの国まで来たのだ。なんとか良い医者を。ニセでもモグリでもヤブでもムメンキョでもない、良い医者を紹介して欲しい」と支配人に頼んでいる。エミーリエは
「かしこまりました。いくらか心当たりもございますから早速手配いたしましょう」と約束する。エレベーターを待つ人たちから見える柱の陰から陰へ、ホテトル嬢ユディトが黒オリーブを口から出し入れしながら歩き、ジョーカーユング牧師と思わず目が合う。チンと音がして鉄柵が開かれ、乗り込む宿泊客の肩と肩が触れ合う。胸に抱えた飼い猫がニャンと鳴き、「シッ」と人差し指を唇に押し当てる狼男に、
「かわいいニャンちゃんですこと」とアデーレ・ブロッホ=バウアーが微笑み返す。ふたりの間の下に挟まったメーダ―・プリマヴェージが
「この猫、おちんちんがないわ!」と叫ぶ。
キングフロイトは微笑し、ジャックアードラーは舌打ち、ジョーカーユング牧師は心ここにあらずだった。

 ディナーレストランの席に宿泊客が次々と現れ、ライスとクスクスの入ったポタージュにスプーンを入れていく。髪をアップにまとめ上げ露わになった首すじに真珠の首飾りを着けた、サテンのドレス姿のアデーレ・ブロッホ=バウアーが娘の手を引いてレストランに入って来た時、ある男の宿泊客はスプーンを掲げ持ったまま讃嘆の声を上げ、ある女は喉を鳴らしてスープを丸呑みし、嫉妬と憎しみの炎で口の裏の皮が剥がれ、舌をやけどした。
キングフロイトは白髯をしごき立てて真珠の首飾りに目を細め、ジャックアードラーは性欲動を抑圧して権力志向へと駆り立てようと、自分で自分の足を踏みつける。ジョーカーユング牧師はうわの空でスープをこぼし、ちょうどおちんちんの所に染みを作ってしまう。
狼男がアデーレの椅子を引いてやり、メーダーを放ったらかしにして自分で椅子に座らせるに任せた。すでにサーモンのテリーヌを食べ終えて口を拭ったシュレーバー控訴院長は、今宵の主役の登場に鼻を鳴らす。女性化した暁には、あんな俄か成金の小娘などわたしの足下にも及ばぬと心の中で唾を吐き、自分を慰めようとしたが、男性化した下半身をどうすることもできずに困惑した。アスパラガスとムール貝の皿が下げられた後、本日のスペシャリテ。鴨肉のロティ、トリュフ添えが厨房から出てきた総料理長ゴッドマザーアリ婆によって自ら振るまわれる。黒と白のお仕着せを着たパラスが鼠男の舐めとっていた皿を取り上げ、狼男の方にどうしても目がいってしまうダナエーとすれ違う。
「彼もあなたのことが気になってたりして」
ダナエーは羞恥心丸出しで耳の根元までピンクに染め上げ、危うくデザートの乗った銀のトレイを控訴院長の頭上にぶちまけそうになる。みどり豆のムースとモッツァレラ 桃のタルト マカロン ハットルテ
今夜の主人公アデーレの皿にメッセ―ジカードが添えられており
゛今宵この春この十六夜の頃合い 吾妹子の真珠の首飾りを頂戴に参上仕り候
                      レディ・ピンクパンサー゛
 アデーレはデザートスプーンを取り落し、床に崩れ落ちそうになった体を狼男が咄嗟に支える。支配人エミーリエ・フレーゲが飛んで駆けつけてきて、騒然となった宿泊客たちを落ち着かせ、アデーレを部屋へと戻らせる。狼男が付き添ってエレベーターに乗り込むなか、取り残されたメーダ―・プリマヴェージは支配人の指示で飼い猫と同じ部屋、つまり狼男の部屋に連れて行かれる。今夜の主人公の突然の退場でディナーはお開き。男たちはカクテルバーの方へ移っていく。

「ルイジアナ・フリップ」
一番最後にバーに入った鼠男がスツールに腰掛けながら、人差し指をバーテンダーに上げて注文する。
「コニャックを」
割り込んだシュレーバーの姿を認めると、鼠男は
「おれの方が先だ!ルイジアナ・フリップを!」
「コニャック」
シュレーバー控訴院長は完全女性化を目指す自分にふいに訪れたディナーでの男性化、回春劇に頭が混乱し葛藤の渦の中でめまいを起こしかけていた。
「なんでもかんでもあんたの判決通りになると思うなよ。このホテルじゃあみんな平等。同等の客扱いを受ける権利がある。シュレーバーさんよ、ここじゃあんたとおれはサシで勝負できるんだ。宣誓規約・煩瑣な答弁・判で押した判例なんぞ糞くらえだ。シュレーバー! なぜおれを有罪にした?
無罪だったのに! おれはやっちゃいなかった。やってなかったんだ!」
「きみなどに構っている暇はない」
「答えろ!シュレーバー」
「やっていないことを立証するより、やったことを自白させる方が簡単だ」
「やってないんだぞ!」
「罪を償ったのなら、ひとり静かに暮らしたまえ。もう二度と間違いを犯さぬように」
「なんだと⁉ この詐欺師めが!知ってるんだぞ。先に判決ありきで裏で袖の下をもらっていることくらい」
ハイボールを飲んでいたキングフロイトがふたりの間に割って入る。
「まああなた、落ち着きなさい」
シュレーバーはめまいと吐き気を覚えながらコニャックを呷る。
「わたしは罪を犯し、世界は没落した。光の声は開口一番、わたしに向かって『くそったれ!』と発した。わたしが我慢していると光は『なーぜーくーそーをーたーれーなーいーのーかー』とわたしを責めた。わたしは罪を贖う。女性化して光と交合する。世界はわたしの精神から生まれた新しい人間たちで満たされるだろう」
スクリュードライバー片手にジャックアードラーが鼠男とフロイトの間に割って入る。
「ところであなたは何をやったんです?」
「おれはやっていないって、何度も言ってるじゃないか!」
ジョーカーユング牧師が残っていたベルモットを一気に飲み干して、鼠男の後ろにあった電話でコールナンバーを弾く。
「おれの後ろに立つな!おれはやったんじゃない。やられたんだ。嵌められたんだよ!」

狼男と今夜の主人公アデーレ・ブロッホ=バウアーが部屋のソファで手を重ね、見つめ合う。
「どうしてこんなにやさしくして下さるの?」
「世界中の誰よりもあなたが美しいから。あなたのように美しいひとには会ったことがない」
「わたしは不幸な女ですわ」
「わたしはあなたを愛します」
「あなたも不幸になります」
「自分の愛するひとを自分の力で幸せにすることができたら、それ以上の幸福はない」

狼男の部屋に追いやられたメーダー・プリマヴェージは、ベッドの上で飼い猫とじゃれあっていたが、すぐに飽きた。暇を持て余した子供は、棚に置かれたカルカン、チュール、銀のスプーン、ロイヤルカナンを全部出してきて開封し、フランス窓を開け放った。ホテル中の放し飼いになっている猫たち。豹。ピューマ。虎。寅。彪。ジャガー。チーター。ライオンまで集まってくる。すべての猫におちんちんがないのはなぜだろう。きっとホテルのコックさん、あの意地悪そうなお婆さんにちょん切られて料理の出汁に使われちゃったのね。かわいそうな猫たち。わたしもママにおちんちんをちょん切られたのよ。ママもママのママにおちんちんをちょん切られたんだわ。みんな女はちょん切られて、おちんちんを探してる。だから女は不幸なのよ。

そわそわと行ったり来たりして待つジョーカーユング牧師の部屋がノックされ、開けたドアから入って来たホテトル嬢ユディトが窓の外のネオンの光を背にして立つ。黒闇天女が一枚一枚服を脱いでいく。ジョーカーユング牧師はまんじりと穴が開く程女を見つめ続ける。その春の夜、牧師は玉虫に、ユディトはモルフォ蝶になった。

足の裏深く沈みこむブルーベリーヴェルヴェットの上を歩き、客室係ダナエ―がアデーレの部屋をノックする。
「お薬を持ってまいりました」 ドアが開かれ、錠剤と水の入ったコップをサイドテーブルの上に置く。ドア陰に身を潜めていた狼男は部屋を抜け出したところで、中庭のテラスからのぼる今宵の月に三魂七魄を持っていかれた。アデーレの部屋から出てきたダナエーは、月を見る狼男をお見かけしパラスの言った言葉を思い出した。
「彼もあなたのことが気になってたりして」
ダナエーは最初の一歩を踏み出す。
「あの‥‥狼男様。ちょっとよろしいでしょうか」
振り向いた狼男の双眸が獣色に光り輝き、ダナエーはその眼を食い入るように見つめながら
「わたしはあなた様をはじめてお見かけした時からずっと‥‥」
けたたましい狼男の哄笑が爆発し、ダナエーはあっけに取られて訳も分からず、哄笑し続ける狼男を見つめる。

ジョーカーユング牧師の部屋を二人はノックし続けたが、返事がない。酒に酔って潰れてしまったものとみて、キングフロイトとジャックアードラーは牧師抜きで計画を実行に移す。別館のボイラー室に用意したありったけのカルカンと銀のスプーンとロイヤルカナンを持ち込み、トラップを仕掛けた。

部屋の中を猛獣のように歩き回り、奇声を発して喚き怒鳴り散らし、懸命に男性化に歯止めをかけ押さえつけ抑圧し、完全なる女性化を果たそうとシュレーバーは、鏡の前でブラジャーを着けスキャンティを履いてハイヒールで踊り、躍起になって女を強調してみせたが、どうしても男性がムクムクと頭をもたげ、ついには怒髪天を衝く勢いでスキャンティの上から顔を出した。
シュレーバー控訴院長は光の声を呪詛し、
「太陽なんて淫売婦なんだ!」と破廉恥極まりないことを口走った。声は万国共通の普遍言語で
「なーぜーくーそーをーたーれーなーいーのーかー」と唱え続け、シュレーバーは嘔吐感に苦しみながら法衣に着替えると、白髪のかつらを装着しベランダから隣りのベランダへ。今夜の主人公アデーレ・ブロッホ=バウアーの眠る部屋のベランダに降り立つ。窓を開けると薔薇水の匂いが鼻を撃ち、興奮がMAXに達した控訴院長はベッドの上へ飛び上がって四つん這いになる。
「太陽なんて淫売婦なんだ!」 シーツを剥ぐ。

獣色の瞳に満月の虹彩を宿した狼男がアデーレの部屋に戻ったのは、部屋を抜け出てからそう何分も経っていなかったと思う。悲鳴を上げようと両手で口を覆った女の鳩尾を突いて、心神喪失した客室係の腰からマスターキーを奪うと、女をシーツにくるんでクリーニング用荷台に押し込んだ。ドアを開けると、鎮静剤を飲んだアデーレは穏やかな顔をして眠っている。
わたしのアデーレ 夜の星 夏の星座 世界の花嫁。そして仕事に取りかかる。サイドボード。クローゼット。机の引き出し。カバンの中。ベッドの下。下着の中にもない。どこだ? アデーレ、どこに隠した。バスルームのキャビネットを引っ搔き回していると、寝室の方から物音がした。しまった、目を醒ましたのか。どう言い繕おうかと考えながら狼男が部屋を覗くと、そこにはいつか見た原風景が展開されていた。
「ラブリー! ラブリー!」 白髪を振り乱した法衣の男がベッドの上で膝突き、アデーレではない ダッチワイフ『ラブリー』に女豹のポーズを取らせ後ろから犯している。狼男の原風景――ベビーベッドの柵の中から見た、パパとママの荒々しい夫婦の営み。白い狼が木の上に何匹もいる夢。既視感(デジャヴュ)の囚われの身となった狼男は、赤ずきんちゃんへと退行する。
「おおかみさん、わたしを食べないで」
シュレーバーはそこにいる赤ずきんちゃんに気づくと、やおらベットから飛び下り、乱れた法衣とかつらを整える。と、その時
世界中にあるキッチンの調理器具がいっぺんに引っくり返ったような音がホテル中に轟いて、宿泊客、ホテル従業員は一斉にドアから顔を出し、なんだなんだと音のする方、別館に走った。メーダ―・プリマヴェージは抱き枕替わりにしていたネコ科の動物たちがこぞってまっしぐらに駆けていくのにビックリし、逃げる赤ずきんちゃんの後を追ってシュレーバーも走った。
廊下に出てひとの群れを眺めていた鼠男は、シュレーバーを見つけると後を追って別館に向かう。誰もいなくなった本館のアデーレの部屋。キングフロイトとジャックアードラーのふたりが真珠の首飾りを求めて侵入する。あっちこっち引っ掻き回した末、浴槽の栓の鎖替わりにされた首飾りを見つける。
「そこのふたり、待った!」
意気揚々と出て行こうとしたふたりを、何者かが呼び止める。
「誰だ⁉」
ベッドの下から女が出て来て埃を払う。
「まったく、ひどい一日」
「おまえは‥‥」
「レディ・ピンクパンサー」
「そうか、あんただったのか。自作自演の狂言芝居だった訳だ。アデーレ・ブロッホ=バウアー」
「真珠の首飾りを狙う者が、どんな顔か見たいと思ってね。こっちは危うくエラい目に遇うとこだった。さ、首飾りをこっちへ」
「この借りはきっとお返しするよ。アデーレ」
「どうぞご自由に」

客室清掃に入ったパラスは荷台がやけに重いんで中身を確認すると、シーツの山からダナエーが出てきて思わず悲鳴を上げた。蚤の心臓がつぶれるところだった。赤ずきんちゃんに退行した狼男は、イチゴ摘みに出かけようと朝一番にチェックアウトしていった。アデーレ・ブロッホ=バウアーは飼い猫を抱える娘の手を引いてホテルを出た。フロントカウンターでハネムーンに来たヤンキーカップルが、熱い接吻を交わしながら住所と氏名と電話番号を記入している。手を空しくして帰るキングフロイトとジャックアードラー。ジョーカーユング牧師はこの夜このホテルその部屋その女を決っして忘れないだろう。ホテル支配人エミーリエから良い医者のリストと紹介状を受け取ったシュレーバー控訴院長は、新たに生まれ変わった気持ちで完全なる女性化を誓い握手を交わす。柱の陰から覗き見ていた鼠男は、自分の背後を気にしながらシュレーバーの後を尾ける。ホテトル嬢ユディトがラウンジで出された白茶「白毫銀針」とバターケーキを食べている。
「クリムトン・グランドキャットホテル。いつも変わらない人が来ては去って行く。何事もなかったように」

13番ホール クリムトン・トラピスト修道院

 あの失敗の後、ドラは先生に妊娠のことを話したが一笑に付されて、独居房に隔離されての生活を余儀なくされた。一日三度三度の食事はきちんと出されたが質素なもので、もっと子供のために栄養たっぷりな食事とモーツァルトの音楽、ガラガラの差し入れを頼んだが、受け入れてもらえなかった。子供の命。新しく生まれてくる未来の夢のためにも、脱出するしか方法はなかった。機会を秘かに窺うようになったが、日々重くなってくるお腹とつわりに苦しめられた。時折蹴り上げてくるようになった元気のよさに頬を緩めながら、チャンスが訪れるのを待った。一度、思いきり暴れ回って監使の腰にぶら下がった鍵を奪おうとしたことがあった。その時はあっという間に三人の監使に取り押さえられ、拘束衣を着せられて三日三晩放っておかれた。
今度は同じ轍を踏まないように、神妙な生活態度で模範患者であることを心掛け、次第に食欲がなくなっていく振りを装った。ただでさえどんなものにでも手を出して食べたい盛りの時期なのに、出される食事に一切口をつけずに残すのは死ぬほどに辛く、飢えと渇きに唇が震え舌が痺れた。えづいても胃酸だけがダラダラ口から滴って、しばしば立ち眩み動悸息切れが激しく、とうとう前後不覚に陥って倒れ、監使が駆け付けてきた。鍵を開ける音が遠くに聞こえた。
医局に運ばれていく途中、朦朧とする意識をはっきりさせておこうと指を嚙み、猥りがわしいレイプ妄想を抱いて精神を覚醒させておこうと頑張った。
絶対安静で眠らされた医局のベッドは中庭に面した窓際にあり、庭には使われなくなって久しい古井戸が残っていた。夜中を待って窓から抜け出し、古井戸の中深くに身を潜め、さらに二日待った。体力はとうに限界を越えて意識がとびがちになり、魂の力だけで井戸の内壁に爪を立てていた。日が沈むのを二度確かめた後、古井戸から出て門に向かった。案の定、捜索は病院内から外へ転じたようで、門番も駆り出されて小屋にいなかった。
それからどこをどう歩いただろう。揺れるカンテラの灯が見えると下水道の蓋の下、側溝の淵に体を沈めて、川伝いに上流へと遡り森の中を逃れていった。葡萄畑の間を縫って歩いていると、馬に乗った警官たちが突然前から現れて、もう駄目だと覚悟した瞬間、馬が水を求めて川縁へ下りていった時は天の配剤、神の御心に感謝し祈った。もうとうの昔に神の教えなど捨て、信じるもの頼るものなく生きてきたのに。ぼろぼろになり汚れた服のまま小さな村に辿り着き、そこの教会に入って祭壇の磔刑像の前に倒れた。

 目を開けると簡素な造りの薄暗い部屋の中で、壁龕(ミラーヴ)のくぼみを利用したベッドに眠っていた。気が付いたと知って入ってきたひとりの尼僧が、温かいサフラン入りのポタージュを差し出してくれる。はじめ、胃が食べものを受け付けようとせず、匂いを嗅いだだけで内臓がでんぐり返りそうになった。尼僧が胃の粘膜をやさしく労わってくれるお茶だと置いていってくれたものを飲んでいると、次第に食欲が戻ってくるのを実感し、恥ずかしながらお腹が痛いくらい鳴り出した。食堂(レフェクトーリウム)へと連れ出され、あつあつトロトロのオムレツを皮切りに、魚と野菜たっぷりのポトフをたらふく詰め込んで、最後は種々のフロマージュとマカロンで、お腹の子供ともども満腔の笑みをこぼした。イカのフリッターをつまみに赤ワインを飲みラジオを聴いていた、ここの賄い婦らしい老婆に
「ここはどこですか」と訊くと、老婆は壁に彫られた薔薇の花のレリーフを指差し、そのまま指を唇に当てた。
薔薇の花の下 sub losa 内密に
ここはトラピスト修道院だった。厳しい戒律を守って生活を送る尼僧たちに交じって、ドラもできることは何でもやり助けてもらったお礼の気持ちを返そうと頑張っていたが、お腹が目立って大きくなってくると、尼僧たちはドラに仕事を任せようとせず、中庭で育てている薬草(ハ―ヴ)に水をやることだけ許された。
ドラはお務めをしている尼僧たちから少し離れた所に立って、天窓から射し込む光でひとりひとりの尼の顔を改めて見ることができた。はじめ賄い婦だと思っていた老婆は、ここの修道院長でゴッドマザーだった。隣りに跪いてロザリオを爪繰っている女性はエミーリエ。紙に書いてくれた名前を見た時、どこかで聞いた懐かしいような苦しいような気持になったけれど、どうしても思い出せずにそのままにした。その隣りに跪くのが娘のダナエー。母親と違って内気でシャイで恥ずかしがり屋の、引っ込み思案な娘だ。ダナエ―の伯母にあたるユディトと叔母のパラスが、ゴッドマザーの後ろに跪いて十字を切る。ユディトが言ってみればマグダラのマリアに当たるとすれば、パラスはクリストフォルス。カルミナを歌うアデーレ。彼女が身体を拭いているところを通りかかった時、その背中の刺青には驚いたものだ。母親アデーレの隣りに跪いているメーダ―はまだ5才で、おちんちんに興味津々。今も磔刑像の腰布の下を覗こうと首をかしげている。ドラは7人の尼僧のいるトラピスト修道院内に匿われながら、自分の子供は男の子でも女の子でも、
「希望」という名前にしようと決めていた。

14番ホール フロイトン・ロボットモンスター

 ゴッドマザーアリ婆率いるクリムトン一家が月に一度のピクニックに出かけ、おかか入りおにぎりを頬張っている頃、世界中の都市や街では未曽有の大惨事が襲い掛かっていた。遥か彼方の異星から送り込まれたロボットモンスター。鼠男ローマンが大便児を使用して都市を攻撃、世界は壊滅した。
鼠男ローマンは電波をローマン星に飛ばし、受像機の画面(テレビジョン)に映し出された指導役フロイトローマンに報告する。
鼠男ローマン こちらローマンXK2。指導役ローマン、応答願います。
フロイトローマン 5分遅刻だぞ、鼠男。
鼠男 仕方ありません。ローマン星とは重力が0・672も違うんだ。
フロイト それで、成果は?
鼠男 全滅させました。
フロイト こちらの調査局が調べたところでは、7人生存と出ている。
また嘘をついたな、鼠男!
鼠男 全滅させたと思ったが。
フロイト そんなことはどうでもいい。また嘘をついたことが問題だ。
鼠男 必ず、人類を皆殺しに。6人ですね。
フロイト 7人だ。間違えたな。それはおまえがひとり、残しておきたいという無意識の願望が表に浮かんで出てきたんだ。
鼠男 そんなことは全然思い浮かびませんでした。
フロイト みんなそう言う。わたしが指導するローマンはみんな言う。鼠男! まだ話は終わってないぞ、ちょっと待て。鼠男、ちょっ―――

鼠男ローマンは全世界でたった7人生き残った人類に向けて、最後通牒を突きつける。
鼠男ローマン 全世界の市民同胞よ。人類の生存者に告ぐ。観念して大人しく両手を上げ、白旗を振って投降してくるなら殺しはしない。やさしく餓死させてあげよう。しかし、両手を上げ白旗を振って投降する振りをしながらローマンに歯向かい、盾突き、バンザイ突撃してくるなら容赦はしない。
無駄な抵抗はやめろ。大人しく出てきなさい。お父さんもお母さんも死んでいる。隠れても無駄だ。ローマンは必ずおまえ達を探し出して、殺す。

リーダー・プリマヴェージ。5才になる女の子はロボットモンスターが基地にしている洞窟を、双眼鏡で観察していた。洞窟の奥からノイズを発して現れたローマンは、キングコングの着ぐるみの上から潜水用ヘルメットを被りおちんちんはなかった。隠れ家に戻ると、ゴッドマザーアリ婆がパイナップルパイを出してくれた。探索に出ていたそれぞれの女たちも帰ってきて、地球上に他の生存者0を報告する。ローマンとの対話の必要性を感じた家刀自ゴッドマザーアリ婆は、娘たちに街で通信機器の調達を命じる。隠れ家に運び込まれたガラクタの山から、トルティーヤを作る要領でテレビ電話の回線をローマンの電波に乗せた。クリムトン一家7人はテレビの前で横一列に整列し、鼠男ローマンに向かって一礼。「殺さないで下さい」と訴え、エーデルワイスを歌う。
鼠男は断固、拒否して対話を打ち切ろうとしたがエミーリエの娘、ダナエーだけをテレビの前に立たせ、1枚1枚服を脱いで見せるよう要求した。ダナエーは断固、拒否して回線を切ろうとしたので鼠男は
「ダナエーだけをローマンの所へ来させろ。ダナエーだけだ。そうしたら考えてやってもいい」と言ってテレビ会談を打ち切った。

鼠男ローマン こちらローマンXK2。XK2。
フロイトローマン どうだ、終了したか。
鼠男 生存者7人を確認しました。
フロイト 確認するのではなく、抹殺しろ。
鼠男 ひとり、サンプルとして残しておいては?
フロイト サンプルはもう一匹の猿を捕まえておいた。
鼠男 しかし、猿とはどうも違うようです。なにかこう‥‥
フロイト なんだ、はっきり言え。
鼠男 身体の底から込み上げてくるリビドー(性欲動)が、
フロイト リビドーだと⁉ ロボットにリビドーなどない!断じて。
どこでそんな言葉を覚えたんだ。リビドーだと⁉ ローマンに?
おちんちんも穴ひとつないのに?
鼠男 穴はあります。後ろに立派なのが。大便児を生み出すA感覚なら存在します。ここからうんちも贈り物もお金も言葉も子鼠も出て来るんです。
フロイト ふざけるな! 他人の学説を鵜呑みにして。惑わされるんじゃない。おまえはロボットだ。ローマンだ。ローマンにリビドーなどない。ましてやA感覚・V感覚など存在しない。
いいか、おまえは人類を滅亡させるためだけに地球へと派遣された。それだけを考えればいいんだ。猫一匹鼠一匹這い出る隙間もなく殲滅させるんだ。
これはローマン星の宿命だ。
鼠男 6人とひとりですね。
フロイト 7人だ。なんだその言い方は。気に食わんな。
ちょっと待て。まだ切るんじゃない、ちょっ――

ダナエーと他の家族が「行け」「行きたくない」「人類のために死ね」「死にたくない」「人身御供となれ」「嫌だ」「大義のためだ」「御免被る」と言い争っている間を抜けて、メーダ―・プリマヴェージは隠れ家をあとに洞窟へと向かう。通信機器の故障を直していた鼠男ローマンのそばまで来ると
「ダナエーお姉さまをどうする気?」と訊く。
「気になるんだ」と鼠男は答えた。
「おちんちんある?」
「ローマンにおちんちんはない」
「女なのね」
「女とは何だ?」
「おちんちんを取られちゃった方よ」
「そうかもしれない」
メーダ―は隠れ家に帰ると、まだ言い争っていたお姉さんたちの間に割って入り、「ローマンにはおちんちんがない」と報告する。それでダナエーも渋々行く気になり、身支度を始めた。エミーリエは残っていた数少ない花茶の中から「龍珠花茶」ジャスミンティーをふるまい、ゴッドマザーは巣立つ花嫁にコンフィした黒オリーブを巾着袋に入れて持たせてやる。パラス・アテネに猫耳カチューシャを着けてもらったダナエーは、隠れ家をあとに洞窟を訪れ「不束者ですがどうぞよろしく」と三つ指ついて挨拶する。鼠男ローマンは目の前に現れた花嫁を抱きしめようと手を伸ばした。ダナエーは悲鳴を上げ、
「おちんちんないって言ったじゃない」と泣き叫んだ。鼠男は夢中で強い力でダナエーを抱きすくめ「愛してくれ」と言った。愛という言葉はどこから来たのか。愛とは何か。おちんちんがないと愛せないのか。ローマンと愛とおちんちんが何か関係あるのか。鼠男には分からず煩悶しているところへ、ローマン星からの通信が入った。やむを得ずダナエーを殴り倒してロープで縛り、通信を繋いだ。
フロイトローマン はやくその人間を殺せ。
鼠男 できない。
フロイト やるんだ! これは命令だぞ。
鼠男 やらなければいけない。しかしできない。なぜなら、おちんちんがないからだ。
フロイト 何を考えてる。はやく殺せと言っているんだ。
鼠男 やらなければいけない。しかしできない。なぜなら、おちんちんがないからだ。
フロイト 血迷ったか、鼠男!
鼠男 指導役ローマン、愛とは何ですか。教えてもらいたい。
フロイト たわ言だ!愛など幻想に過ぎない。
鼠男 たとえ幻想、夢・まぼろしの作り事でも、心的には現実なのだと言ったのはあなただ。
フロイト 知らん!そんなことを言った覚えはない。
鼠男 ローマンは愛を信じる。たとえ夢・まぼろし、たわ言であっても。ローマンにも愛があるってことを。
フロイト 命令を聞かないのか。そっちがその気ならこっちにも考えがある。おまえの代わりはいくらでもいる。たわ言を口走るロボット、任務を果たさないローマンに用はない。

隠れ家で待つ女たちはローマンから何の連絡もないのでじりじりしだした。
「あの子はまだまっさらだ」「ピュアそのもの」「もしものことがあったら」「おちんちんはないって言ったわ」「ローマンって名前からして気に食わない」「ローウイメンがいるってこと?」「ローマンがハイマンになった時が危険なのよ」「てことはおちんちんがあるってこと?」「わたしが囮になるからあんた達はダナエーを」とユディトが言って出て行く。
 縛められたダナエーの前でひとりのローマンは苦悶し、そばに落ちている巾着袋の中の黒い粒が何なのかも分からなかった。鼠男ローマンは頭を抱え呻いた。洞窟の入口に現れたユディトは誘惑の手招きを繰り返し、ローマンは糸を手繰られるようにして誘い出された。鼠男はユディトに黒い粒の意味を訊いた。
「それは征露丸TOいA錠剤だよ。それを飲むとおちんちんが生えてくるんだ」
嬉々として潜水用ヘルメットを取るのももどかしく外して、黒い粒を口にしようとした鼠男ローマンは、地球の酸素を吸って死んだ。

15番ホール クリムトン・キングの宮殿

 深紅の王の宮殿には真珠の首飾りがあるという噂を聞きつけて、有象無象が魅きつけられてくる。十二の宮が輪環を描き王が砥石車を回す。選ばれる者。脱落する者。穴に落ちる者。運命の白羽の矢が立つ者。敗れ去る者。
最後まで残った者が真珠の首飾りを得る。

 ムーンチャイルド

ハンス少年とメーダ―・プリマヴェージは宮女ダナエーに手を引かれ、宮殿内を案内されていく。                        月光の牢獄の錆びた鎖が 太陽の光に打ち砕かれ 道を歩めば視界が開かれる

 黒の女王

手術は見事に成功を収め、完全なる女性と化したシュレーバー控訴院長はさらなる高み、ワンランク上の女を目指す。光の声に気に入ってもらおうと。黒の女王となって宮殿を訪れ、女の最終兵器真珠の首飾りを求めた。

 帰って来た魔女

一輪の花を踏みつけながら 一本の永遠の緑の木を植えていた庭師狼男のもとへ
火の魔女エミーリエ・フレーゲと水の魔女ゴッドマザーアリ婆が帰って来た。宮殿から家政婦長パラスが飛び出し狼男の頭を押さえ付けながら共々、火の魔女水の魔女に心を込めた挨拶をし、第一の宮 白羊宮へと案内する。

 結婚詐欺

世界にふたつとない すばらしい真珠の首飾りをあなたに 
と誘われた未亡人アデーレ・ブロッホ=バウアーは、結婚詐欺師アードラーもとを訪ねた。男は女の手を取って深紅の宮殿に入っていく。

 操り人形の踊り

賢人ドラは黄色い道化師ユングを連れて、高級娼婦(ココット)ユディトの主催する娼婦の社交界デゥミモンドに呼ばれていく。黄金の首輪嵌めたユディトに出迎えられ、招待客は宮殿の中へと案内されていく。

 第一の宮 白羊宮 ♈

家政婦長パラスに案内されてきたアリ婆・エミーリエ・狼男は、ここで誰が一番早く高さ百メートルのビルヂング屋上から、闇の深淵にダイヴできるかチキンレースが行われた。一番最後に残った者。飛び込めなかった者。暗闇の中に白く蠢く原風景に足を竦ませ、手を戦慄かせて失禁し
「おおかみさん、わたしを食べないで」と懇願した庭師狼男が宙に持ち上げられ、どこか遠くに運び去られる。
ぼくはプリズムの船で風を追い 人生の苦楽を味わう

 第二の宮 金牛宮 ♉

ここでは超特大平底鍋で作られた鶏肉、エビ、ムール貝の入ったパエリア大食い選手権が開催された。これには象の図体蚤の心臓の家政婦長パラスも参加を希望し、受け入れられた。火の魔女エミーリエ水の魔女アリ婆はぺろりと超特大平底鍋の底を見せて平らげ、でかい図体の割に食が細いパラスは食べきることもできぬまま、パエリアごと猫まんまにされて勝手口に放り出された。

 第三の宮 双子宮 ♊

宮女ダナエーに手を引かれ双子宮に入ったムーンチャイルドのふたり、ハンス少年とメーダ―・プリマヴェージは即興で詩を吟うことを要求された。
 あれは月の子 川の浅瀬で遊び
 孤独な月の子 柳の木陰で夢を見る
 蜘蛛の巣が掛けられた 木々に語りかけ 噴水の段の上で眠る
 ナイチンゲールの歌声に 銀色に光る枝を振り 山の上で日の出を待つ
 あの娘は月の子 花園で花を摘み
 孤独な月の子 過ぎ去った時の余韻の まにまに漂う
 純白色のガウンをまとい 風に乗って 日時計の周りに石を並べる
 夜明けの幻と かくれんぼしながら 太陽の子の微笑を待っている
即興とはとても思えない詩の霊妙さ、完璧さにメーダー・プリマヴェージは嘉されて月へと上げられ、神々のために吟う。

 第四の宮 巨蟹宮 ♋

結婚詐欺師アードラーに手を引かれ、未亡人アデーレは恐る恐る迷宮へと足を踏み入れる。詐欺師が軽く手を上げ、オーケストラが演奏を始める。ゆっくりと迷宮が回転し始め、ふたりの手は離れる。迷宮から出てこられたのはひとりだけ。
静かな灰色の朝 未亡人は泣き崩れ 賢人たちは声を揃えて冗談に笑う

 第五の宮 獅子宮 ♌

アデーレはたったひとり獅子宮に入る。色とりどりのLEGOのブロック片が床一面に散らばっており、太陽の塔の組み立てを要求された。アデーレが作ったのは誰がどこをどう見ても黄金の男根(リンガ)像で、彼女の足の下に真っ黒い穴が開き、五濁の海へと堕ちてゆく。

 第六の宮 処女宮 ♍

高級娼婦(ココット)ユディトの案内で賢人ドラと道化師ユングが社交界(デゥミモンド)の中を歩く。そこではこの山で誰が一番大きくて立派なものを見つけられるか、松茸狩りが行われている。ココットユディトは招待客の接待も忘れて、あんまり夢中になって多くの松茸を手に取り匂いを嗅いで頬張ったために、深紅の王に罰せられ一生、食べても食べてもお腹から松茸が生えてくるようにされた。

 第七の宮 天秤宮 ♎

賢人ドラと黄色い道化師ユングは黒い女王シュレーバー控訴院長が来るのと行き合い、共に天秤宮に入る。部屋の中央の円卓に実弾が一発入った拳銃(リボルバー)が置かれている。
ひとり目は賢人ドラ 不発(カチ)
ふたり目は黄色い道化師ユング 不発(カチ)
三人目は黒い女王シュレーバー 不発(カチ)
二巡目、ドラ 手に汗握り 不発(カチ)
黄色い道化師 1/2の確率に 手が震える              運命のロシアンルーレット 不発
黒い女王は高らかに葬送行進曲を吟い ひび割れた真鍮の鐘が鳴り渡り
火の魔女を呼び戻す

 第八の宮 天蠍宮 ♏

天秤宮を出た賢人と道化師のふたりは、火の魔女と水の魔女に行き合う。
天蠍宮ではダイエット炎の一本勝負が行われた。一時間でのカロリー消費量を競う。熱量(カロリー)は脂肪を燃やすことで生まれ、それは筋肉量で差が生じる。駆け回り飛び跳ね縄跳び涎を垂らしトイレで気張り爪を切り鼻くそほじった結果、ほかのものは燃やせても自分の体脂肪だけは燃やせなかった火の魔女。エミーリエ・フレーゲが灼熱地獄(サウナ)の釜底で香ばしいおこげになる。

 第九の宮 人馬宮 ♐

残った三人は宮女ダナエーに連れられたハンス少年と行き合い、人馬宮へ入る。全裸の女性がモンローウォークで登場し、ヌードデッサンが試された。及第したのは4人 落第したのはひとり
ない所にあるものを描いた者。ないのにあるように描いた少年。恥毛生い茂る秘密の丘に馬並みのおちんちんを付け加えたからだ。
ぼくは前兆となるものを求めて走り この悪戯にまんまと陥る

 第十の宮 磨羯宮 ♑

四人は相撲部屋の稽古に参加させられた。水の魔女ゴッドマザーアリ婆 賢人ドラ 黄色い魔術師ユングは惜しげもなく裸体をさらけ出して四股を踏み、てっぽうを打ち、ぶつかり稽古に汗を流したが、ひとり宮女ダナエーは脱ぐことに抵抗を感じ、お腹を押さえて苦しみ出し仮病の腹痛を訴えて棄権した。手拭いで体の汗を拭く三人は、相撲レスラーに担ぎ上げられ保健室に連れて行かれるダナエーを見送る。

 第十一の宮 宝瓶宮 ♒

宝瓶宮に入るとピカピカに磨き上げられた三つのステンレス製システムキッチンの上に、世界中から取り寄せられた食材が彩り豊かに山積みにされている。料理対決は一時間一品勝負 季節は冬 テーマは水
銅鑼が鳴らされて各挑戦者、一勢にキッチンに向かう。そこはクリムトン一家刀自ゴッドマザーアリ婆の独壇場であり、腕の見せどころ。手早く下拵えを済ますと、天下のEX・VOオリーブオイル、にんにく、玉ねぎ、じゃが芋の黄金のクァルテットを鍋にぶち込む。黄色い道化師ユングは冬といえばやっぱり鍋だろうと、土鍋を用意する。材料は長ねぎ、木綿豆腐、海のミルク生牡蠣。一方、賢人ドラはというといつも饗宴に呼ばれる側であり、饗応する側に回ったことがなかった。感覚的なものを蔑む賢人として、美食などもっての外だった。冬といえばクリスマス?水ってどういうことかしら?
取りあえず、哺乳瓶と粉ミルクを用意してひと肌のお湯を沸かす。

一時間経過の後、銅鑼が鳴らされ、三者三様の料理がテーブルに置かれた。
水の魔女ゴッドマザーアリ婆が出したのは十八番 サフランでお米を黄色くした上に真っ赤に茹でた伊勢エビがどーんと乗ったパエリア。そこへ大根を雪のように擦り下ろして、なんともまあ幻想的な雪月花の錦絵。審査員として駆り集められたグルマンディーズ、グルマンド、美食家クラブ会員、ガストロノミストから感嘆讃嘆仰讃の声が上がる。黄色い道化師ユングが用意したのは冬の定番、海のミルク生牡蠣の土手鍋。くつくつと煮えている鍋の中から仄かに匂い立つのは味噌と隠し味に使ったガラムマサラだ。これを実食した審査員は思わず唸り声を上げて鍋から小皿へ箸が止まらず食が進む。
賢人ドラが出したのは、お米とミルクのとろーりキス味離乳食。研ぎすぎたお米が生煮えのカチカチで口の中でザリザリする。腐ったミルクの饐えた匂いが部屋中に充満し、「何を入れたのか」審査員のひとりが勇気を出して訊くとドラは、
「水というテーマにちなんで仔羊の膀胱をそのままミルクに加えてみたのです」と、隠れ食材に気づいてくれた嬉しさに嬉々として答えた。WCへと駆け込む審査員を尻目に、負けた者の料理の上にはハルピュイアが飛んできてうんちし、自分で作った料理を自分ひとりで平らげるという、哀しい現実に直面した。

 第十二の宮 双魚宮 ♓

黄色い道化師ユングと水の魔女ゴッドマザーアリ婆。
最後にババ抜きをして勝ったのはどっち?
黄色い道化師は演ずることなく そっと運命の糸を手繰り寄せ 微笑む
操り人形が躍る 深紅の王の宮殿で

悪魔の16番ホール マッドダナエー・マックス

 砂漠を縦断するルート16の公道上を、筋男アードラーがバイクの後ろに赤ずきん男を乗せ、一台の車を追っていた。V8エンジン、600馬力を誇るツイン・オーバーヘッド・カムを搭載した車には、ダナエー・マックスと助手席に飼い猫。筋男アードラーは執拗に車に接近しては離れ、運転席の方へ近づき女の金髪に触れようと手を伸ばし、とうとう車の前に回り込んだ。
悪罵と嘲笑のけたたましい奇声を上げて、アードラーが飛ばした唾がフロントガラスにへばりつき、唾液の汚らしい跡をつけた。唸り上げる奇声を発し歓び騒ぐふたり。ダナエーの放ったショットガン一発が火を噴き、赤ずきん男の頭が吹っ飛ぶ。筋男は泣いた。へちゃげたトマトピューレのこびり着いた顔を歪め、ぱっくり割れた赤ずきんちゃん男のザクロ頭を抱き寄せて。筋男は泣いた。

水を求めて砂漠を彷徨う巡礼者(ピルグリム)ダナエー・マックスは、蜃気楼の涯て砂に埋もれたヘリコプターと、朽木のそばに転がる死体を見つけた。近づいたダナエーに死体が首に巻き付けたコブラを突きつけ、
「銃をこっちに放ってよこせ」と命じる。ダナエーは腿の外側に装着していたショットガンをホルダーから抜き、コブラの首根っこを掴んで離さない死体に向かって放る。自分の車まで歩かされる。
「自爆スイッチを切れ」死体がダナエーを銃で小突く。ダナエーは跪いて車体下の起爆装置スイッチを切る振りをしながら、そばに隠した銃に手を伸ばす。
「小賢しい真似をするんじゃない。小利口な小娘ならそこへ銃を隠し持ってるかもしれない」と、死体に図星をさされて自爆スイッチを切る。死体が車のドアを開けると、ダナエーの飼い猫が死体の顔めがけて跳びかかり、引っ掻いた拍子にコブラが死体の手から逃げていく。
「助けてくれよ、ね? いいものがあるんだ。ここから5キロ先に製水施設があって、オアシスから湧き出る水を湯水のように使ってるんだ。あんたならそこを奪って一生、左団扇で暮らせる。あんたとおれでさ、ね?やろうよ。置いてかないでよ、こんなところに!コブラが戻ってきたらどうすんのよ!」
朽木に両手を縛られながら喚き散らしている死体を残して、ダナエー・マックスは先に進む。

丘の上からダナエーが見た製水施設はその時、ならず者の集団に取り囲まれていた。築かれたバリケードを登って来る野郎どもを、施設内の住人は門塔に置かれたポンプから汲み上げたばかりの汚染水を放水して防いでいる。目を転じると、施設から南西へ2キロ離れた方角に、逃げるひとりの老婆にハイエナのように群がる一団がいる。ダナエー・マックスは車をハイエナの群れの只中に突っ込ませ、族(うから)を蹴散らし老婆を車に乗せてやる。老婆は感謝の言葉を繰り返し、
「施設に無事、戻ることができたら大ご馳走を出して恩を返すよ」と約束した。
突然、出現した一台の車に泡を喰ったならず者どもは、鉄仮面男フロイトの乗る車の周りに寄り集まる。弱いから固まっているのではない。キングを守るために穴熊の作戦を取っているのだと自分で自分を慰める。キングが
「ええい、暑苦しい! もっと離れろ。散れ、散れい野郎ども!」と叫び続ける。その隙に門を塞ぐバリケード替わりのバスが移動し、開いたスペースにダナエーは車を滑り込ませた。老婆は車から跳び下り施設内の住人たちと熱い抱擁、接吻を交わし無事を喜び合う。デカい図体をして怯えた目をくるくるさせた女が
「だから危険だって言ったのに」
「たとえ1%の確率しかなくても、震え慄いて何もやらないよりはまし」
「マンマ! わたしのことを言ってるのね。わたしへの当てこすりなのね!」
銃を掲げ持つ不敵な面構えの女戦士(アマゾネス)が鼻をクンクン言わせ、ダナエーの周りを嗅ぎ回る。
「こいつも敵かもしれないよ。外の連中と同じ匂いがする」
「わたしを助けてくれたんだよ。敵なんかじゃないよ」
「どうだか。誰だって水がなきゃ生きていけないんだし、こいつだって水が欲しくて助けたのさ」
門塔の上で放水していたリーダーの女が降りて来ると、喋っていた女戦士が急に黙り込む。
「それで、どうだった? トレーラーの方は」
「うん、どうにか動かせそうだ。けどねえ、随分遠いんだ。あそこまでガソリンを運んでいって、乗って帰ってこられるのはパラス。あんたしかいないよ」
「じょ冗談でしょ。ひとを見た目だけで判断しないでよ」
「ああ、そうそう。見た目は象だけど心臓は蚤ですものね」
「ユ、ユディト。それがどうしたってのよ。象も蚤も一生に搏つ心拍数は同じ。小便時間も21秒で同じなのよ」
「それとこれとどういう関係があんのさ」
「まあいい、まあいいよ。とにかく、お客をおもてなしするのが先決だ」
ダナエーはそれまで黙って聞いていたが、発言の機会が巡ってくると
「水が欲しいんだけど、もらえる?」
「それはまたあとで考えましょう」
「ほら、やっぱり水だ。水が目的なんだ。みんなそうだよ。誰も他人のことなんてこれっぽっちも考えちゃいない。自分の事だけさ」

この施設のゴッドマザーアリ婆は約束通り、大ご馳走を出してきてダナエーと飼い猫をもてなしてくれた。貴重な水をふんだんに使って10時間コトコト煮込んだ牛テール。牛フィレ肉のフリッター。牛すじ肉のピリ辛煮。施設内で栽培された西瓜、メロンを切った断面も瑞々しく。ペティグリーチャムをぺちゃぺちゃ食べている猫を鼻を垂らした女の子が不思議そうに見ている。ダナエーが一頭の牛の饗宴に与っているところに、外からハウリングする拡声器のキンキン音が鳴り響き、大音声のマイクテストが繰り返された。
施設内の住人たちが外に出ると、鉄仮面男フロイトを筆頭にならず者の男たちが集結して熱気ムンムン。腋臭と加齢臭とリビドーで蒸れ蒸れムラムラ狂おしいほどに燃え上っていた。男どもの中にかわいい赤ずきんちゃん男を喪った筋男アードラーが目を血走らせ、門塔の上に立つダナエー・マックスを見つけると、隈取りの双眸を見開き舌舐めずりする。ロバ耳着けた阿呆ユングが嬉しそうに飛び上がって手を振り、土埃まみれの眼鏡を光らせ祝砲をぶっ放す。
あまりの臭さに女たちは、シンクロナイズドスイミング(アーティスティックスイミング)用ノーズクリップでガードする。洟垂れアマッ娘が抜け抗を通って施設内から門の外へ這い出ると、ならず者たちめがけてブーメランを放る。あらぬ方向に大きく逸れて見上げた俺達の空。調子をぶっこいたロバ耳阿呆ユング。戻ってきたブーメランを取ろうと掲げたユングの指がスパリと斬れてボトボト地面に落ちる。ブーメランをキャッチする洟垂れアマッ娘。地面に落ちた指を慌てて拾うロバ耳阿呆ユング。馬鹿笑いと失笑がどっと上がったならず者たちを、腕ひと振りで静めた鉄仮面男フロイトがマイクを掲げて演説を始めた。
「われわれの時代は不幸だ。資源は涸渇し、信じるものはなく、頼れるのは己ひとつ。生きのびるか、野垂れ死ぬか。死にもの狂いで今日一日の飢えと渇きを癒す日々。明日をも知れぬ命に戦々兢々と怯え暮らす毎日。われわれの時代は不幸だ。
こんな時代にあって不届き千万、何人たりとも許せぬのは、万民に与えられた水を独占し、飢え渇いた者にひと滴たりと分け与えようとしない極悪非道の輩。自利を貪る我利我利亡者。おまえたちのような者だ。なぜ、天から与えられた賜物、地から湧き出ずる贈り物、泡から生まれたヴィーナスを、おまえたちは分け与えようとしないのか。それは誰のものでもない。万民のための水なのに。
なぜ、おまえたちは拒むのか。呪われよ!サタンの子め。呪われよ!サタンの娘たち、呪われよ!一日だけ猶予をやる。大人しく女々しく黙ってしおらしく、恥じらいながら、三歩下がって三つ指ついて施設を明け渡すなら、おまえたちを見逃す。しかし、飽くまでわれわれ神の軍団アダム騎士団に歯向かい抵抗し、自己の利益の最大化を追求してやまない猫耳族のままなら、情け容赦、手加減匙加減はいらぬ。徹底的におまえたちを襲い犯し嬲り輪姦し手籠めにし殲滅して回る。一日だけ待つ。
主の万軍。アダムの肋骨。大地の恵みに接吻を!」

「水を分けてほしいの」
「あなたも見たでしょう。あのならず者の集団、無知蒙昧の男どもの群れを。ここはいずれ奴らの手に落ちる。もうここにはほとんど水が残っていない。オアシスは枯れ砂漠に戻る。それまでにできるだけの水を積んでこの地を離れたいと思って、わたし達は製水を蓄えてきた。自然の水が飲めなくなって半世紀。浄水し、精製しなくては飲めなくなって以来、わたし達はここで生きてきた。あなたも知ってるように、この先半世紀経ってもまだ放射能が残る」
ふたりの会話を聞いていたユディトが銃を肩に割って入る。
「あんたがトレーラーを運んできてくれるなら、水をあげてもいい」
「パラスの仕事じゃないの」
「あんな蚤、猫に食われちまえばいい」
「トレーラーを運んでくれぱいいのね」
「でも、とても遠いのよ。ここから南西に5キロ行ったところに乗り捨てられたトレーラーがある。後ろの壊れた荷台部分を外して、牽引車を運んでくる」

その夜、ガソリンの入ったポリ缶を棒の両端に括り付けにし、両肩に担いだダナエー・マックスは出発した。ゴッドマザーアリ婆は幸運の黒オリーブを口に含ませてくれ、女戦士ユディトが門塔の上からうなずく。ならず者への威嚇放水が始まる中、夜陰に乗じて裏手から出る。洟垂れアマッ娘が飼い猫を抱えて門の外まで尾いてくる。ダナエーが怖い顔をすると、娘はそこで猫の手を振って別れる。そしてダナエーは南西ではなく、別の方角に向かう。

砂漠の砂に埋もれたヘリコプターを掘り出し、ガソリンを注入してやる。機体から見下ろす夜の大地に、朽木の根ごと引きずって歩く死体を見つけた。死体をヘリコプターに乗せ、牽引車のある南西へと飛ぶ。
死体の操縦するヘリが上昇しはじめ、旋回し飛んでいくのを見届けると、ダナエーは牽引車のイグニッションキーをひねった。

夜明け間近の最後のまどろみに堕ち込んでいたならず者の群れの、眠りを醒ます牽引車の爆音が轟き渡る。晴天の霹靂の仮面男、寝耳に水の愚者の群れが右往左往し、やっぱりキングのところに固まってお乳を欲しがる。また別の爆音が今度は空から、ある愚者は耳を塞いで目をつむり、ある愚者は「お家に帰りたい!」と泣き叫ぶ。門が開いて牽引車が施設に入っていくのを、ならず者たちは指を銜えて見ていた。筋男アードラーは空飛ぶ機械を初めて見た子供のように口をぽかんと開けて、上空を旋回するモノを鳥だと信じた。ロバ耳阿呆ユングに至っては、落とした指をくっ付けるために抑えておかなくちゃいけない手を離し、空飛ぶ豚に手を振った。
パニックに陥った群れの中心で鉄面皮を貫く鉄仮面フロイトは腕を組み、平静を装いながら心の中で何度も最後の審判、怒りの日をもう少し先延ばしにして下さるよう、人差し指と中指を絡め合わせグッドラック(幸運を!)
神に懇願し、地に額を打ち付けひれ伏していた。

牽引車から降りたダナエーは真っ先にゴッドマザーアリ婆に飛びつかれ接吻され、ユディトからは「疑ったりして済まなかった」と謝られた。パラスは貯水タンクの陰から恨めしそうに顔を半分覗かせダナエーを見ていたが、空から降下してきた飛行機械の方へ関心を移した。洟垂れアマッ娘が猫とダンスしている。ダナエー・マックスは
「約束よ。水が欲しい」と言った。
水を差すこの言葉にエミーリエは
「わたし達と一緒に来ない? 水はたっぷりあるし。それにひとりじゃ、寂しいもの」
「悪いけど、わたしは行く」
冷や水を浴びせられてお祭り気分が一気に醒めたみんなを残し、ダナエーは自分の車を置いているガレージに向かう。

「ねえ、これにわたしを乗せて飛んでってくれない? どこか遠く、だれもいないところ。できるんでしょ?」
「ああ」
「お礼ならたっぷりする」
「そっちの気はない」

施設内の住人が離脱の準備に慌ただしくする中、ダナエーは車に水の入ったポリタンクを積み込む。死体が声を掛けたそうに車の側に寄ってきたが、何も言わず通り過ぎる。ゴッドマザーアリ婆が幸運の黒オリーブを口に含ませてくれ、熱い抱擁をする。洟垂れアマッ娘に飼い猫をやる。門を開けてもらい威嚇放水の中、車を発車させた。

復讐の車、忘れようにも到底忘れることなどできない車が施設から飛び出してくるのを見た筋男アードラーは、何とも言えないおめき声を上げて仲間を置き去りにひとり、バイクのアクセルを吹かした。はだかの王様、鉄仮面男フロイトは
「戻ってこい!アードラー! そんな雑魚は放っておけ。大事なのは製水施設だ。戻ってこい! おれの命令が聞けないのか。ジャック!」
ひとり離反すれば自分もと、つねづね機会を窺っていた有象無象の群れが続き、ロバ耳阿呆ユングも釣られて右手の指を左手で抑えながら仲間の車に便乗していく。ダナエーの車は水の重さでスピードが出ず、すぐに愚者たちに追いつかれて前後左右を挟まれる形になる。視界が遮られ、前方にトラップが仕掛けられたことに気づかなかった。撒かれたガソリンで車がスリップし道路脇の岩に乗り上げて横転した。そのまま崖下まで転がり落ち、谷底で止まった。誰もが死んだと思った状況で逆さになった車の窓から、血だらけの顔を覗かせ、挟まった脚と手を力ずくで引きずり出す。ダナエーは意識朦朧とする中、這って岩陰に隠れる。踊り調子で死体を探しに下りてきたロバ耳阿呆ユングが車内を覗く。誰も乗っていないと思った瞬間、自爆装置が作動し車は火柱を噴き上げて大破した。

岩山の向こう、モクモクと上がる黒煙を見た死体が密かにヘリコプターを飛ばす。

「いやよ!絶対に。嫌ったらイヤ!死んでもイヤ!」
「あんたしかいないんだったら!」
「イヤイヤイヤイヤ、嫌!」
「戦うのも嫌、運転するのもイヤ。どうしようってのよ!」
「わたしはこの人と飛んで逃げるの。青い鳥になって。どこか遠くへ、だれも悪い男のいない、楽園の大地へ。女護ヶ島へ逃げるの」
「何寝言言ってんの⁉目覚ましな!」
女戦士ユディトが思いきりパラスの頬を引っ叩く。パラスはじんわりと目に涙を浮かべ、死体の胸に飛び込んで泣きじゃくった。
「どうする?」 エミーリエが溜め息をつく。
「仕方ない。わたしが運転する。タンクの防衛はユディト、あなたひとりで頑張って。わたし達が出た後、マンマがメーダーを連れてバスで逆方向へ走る」
「わたしが運転する」 足を引きずって現れたダナエー・マックスを、エミーリエが抱き止める。
「そんな体じゃ到底運転なんて無理だ」
ダナエーはエミーリエを押しのけて牽引車の運転席に座る。各自持ち場へ散ろうとすると、ゴッドマザーアリ婆がみんなを呼び止める。ひとりひとりにとっておきのデザート、マカロンをひとつずつ今日のラッキーカラーに合わせて配り幸運を祈る。洟垂れメーダーがマカロンくわえたドラ猫を追いかけて、施設内を奔走する。エミーリエは運転席に座るダナエーにショットガンとスラッグ弾を三発、手渡す。
アリ婆がバスを移動させ、馬鹿丸出しのならず者の群れの前に施設内が露わになる。

灼熱の砂漠に施設内から巨大なタンクローリーが姿を現す。無知蒙昧の愚者の群れの中にも感性を失わなかった珍しい者がいて、
「美しい」とつぶやく讃仰の声がした。
「ええい!この世に美しいものほどまやかしに満ちたものはない。美しい仮面の下に、ひとはドロドロとした醜悪極る目を覆いたくなるほどの不条理な世界を抑圧して生きている。そのような妖しく蠢く魔物の群れの世界を抱えてひとは生きていくしかないのだ。美しいだと? 確かに美しい。しかし醜いものもまた美しい。苦しいことも蜿蜒と続けられているうちに快楽へと変化するように。醜も美へと昇華する。
見よ!オン・パレードのはじまりだ!」
鉄仮面男フロイトの乗るエコエゴエロSエンジンを搭載した車のフロントには、命令を聞かなかった筋男アードラーが磔にされエンブレムとなっていた。ならず者の群れがそれぞれの車を駆ってタンクローリーを追う。パラスと死体は空飛ぶ機械で製水施設を脱出し、ゴッドマザーアリ婆がタンクローリーと反対方向へバスを出そうとした時、隣りにメーダーがいないことに気づいた。

不毛の大地を貫くルート16をひた走るタンクローリーの上部にはエミーリエ。後方の柵内にユディトがそれぞれ汚水放射器を背負って敵が近づいてくるのを待っていた。牽引車とタンクの連結部に猫を抱えたメーダーがしがみつき、牽引車の中に入ろうとよじ登る。磔にされても復讐を忘れることはない筋男アードラーが地獄にも届けと恥も外聞もない雄叫びを上げる。鉄仮面フロイトは深く頷き、アードラーを解放するよう命じた。
「行け!悪魔の仔よ。血と肉と魂を喰らう鬼を父と母に持つ仔よ。地獄帰りの出戻り亡者よ。識閾下に棲まう欲動の翼を力強く飛翔させ、悪魔の性力を解放しろ。おまえの権力への意志。男性的抗議を魅せてくれ!
ジャック・アードラー!」
宙に羽搏いた筋男アードラーが仲間のバギーに乗り移り先頭をひた走る。タンクローリーが視界に入ってきた。女戦士ユディト、エミーリエが放水器をジェット噴射させ汚染水を迸らせる。身体にもろに汚染水を受けバギーから転落しそうになりながら、アードラーは虹の輪環を抜け運転席に近づく。そこにははたして、地獄から生還したもうひとりの出戻り亡者ダナエー・マックス。筋男は泣いた。赤ずきんちゃん男を憶って笑った。泣き笑いの顔で大爆笑した。血走った眦(まなじり)からこぼれる紅い涙が風に吹かれ、アーードラーは牽引車へと飛び移る。
ダナエー一発目。ショットガンに込めたスラッグ弾を筋男めがけて放つ。上半身をのけ反り首が捻じれて空を向く。アードラーは片腕で排気筒を掴んで体を引き戻し、ルーフの上へ出ようと手を掛けた瞬間、先に上にいたメーダーに咬まれた。おめき声を上げる異形の筋男と目を合わせたメーダーは、一緒になっておめき声を上げる。アードラーにしっかり掴まれた手を外そうとしてまた咬む。猫は窓から助手席にすべり込んで脚を舐めている。格闘しているルーフを見上げながら、ダナエーはショットガンを撃ち込むこともできず運転する。牽引車上の筋男に気づいたエミーリエが、集中放射を浴びせる。衝撃を体に受けたアードラーがボンネット上に転げ落ち、フロンドガラスを蹴破ってダナエーの腕を掴んだ。喜色満面奇声を発する蒼白い舌のアードラーの顔が近づき、ダナエーの頬に触れる。ダナエーはハンドルを切って気色悪い汚物を振り落とす。
助手席の窓の外に見えたメーダーを中に入れてやる。サイドミラーに映り込む鉄仮面男の影が大きくなってくる。後方で頑張っていたユディトの放水タンクが底を尽き、最後の噴水放射をやり終わると、女戦士は無知蒙昧のならず者の車にダイヴした。噴射が勢いを失いホースの先からまったく水が出なくなると、阿呆王の愚民どもに取り囲まれたエミーリエは躊躇なく手榴弾のピンを抜いた。後方で起きた強い衝撃を受けてスラッグ弾がボンネットを転がり、フロントグリルの縁に引っ掛かって止まった。
「メーダー!弾を取ってきて!」
そんなことを言われたってか弱い女の子メーダ―は、猫を抱きしめ首を振る。
「はやく!」 無理無体にフロントガラスから押し出されたメーダ―は、四つん這いでボンネット上に出る。吹き荒ぶ砂塵の中をゆっくり、ゆっくり前へ進み、あと少し、あともう少し。手を伸ばして掴み損ね、もう一度伸ばして掴もうとしたメーダーの目の前に、血だらけで泡を吹く復讐の悪魔がフロントグリルから飛び出してきて、顔を近づけた。絶叫するメーダ―を車内へと引きずり込む。
ダナエー二発目。スラッグ弾をアードラーにぶち込む。前方へ回り込んだ鉄仮面フロイトがダナエーに向かってもろ腕を広げる。必死の形相で握りしめているメーダーの手の中から最後の銃弾をもぎ取り、ショットガンに装填する。構える銃口に鉄仮面フロイトの姿が近づく。ボンネットに転がる亡者が立ち上がり、背中を貫いた三発目のスラッグ弾が鉄仮面を割った。ジャック・アードラーとキング・フロイトは師弟愛の死の接吻に悶えた。エコエゴエロSエンジンを搭載した車は牽引車に粉砕されて大破、タンクローリーも横転しタイヤを空転させた。
ダナエー・マックスは運転席から出て猫を抱えたメーダーに手を貸し、ルート16に降り立つ。空回りするタイヤが石臼のような音を立て、罅割れたタンクからこぼれ落ちる砂漠の砂が時を刻む。

ゴッドマザーアリ婆が運転するバスは二百個のポリタンクに入った精製水を乗せ、沈む夕日の向こうにある楽園に向かって走った。空飛ぶ機械に乗ったふたりも同じ楽園に向けて夕日の中を飛んだ。

第17番ホール クリムトン・フーガ 金魚亭

 金魚亭 今日のおまかせメニュー
 ワカメとあさりの酢味噌和え
 卯の花と分葱
 新じゃがと牛肉の煮物
 穴子の茶碗蒸し
 南瓜とひじき、カイワレ大根のマヨネーズ和え
 豆腐とわかつきの澄まし汁
 豆ごはん

「でも、やっぱりダメ。ちょっと前まで狼男と結婚したいなんて言ってたのに」
「あら、いいじゃない」
「でも、やっぱりはしたないし。ダメよ、わたしなんか」
「傷つくことを怖れてここで逃げたら、一生逃げ続けて生きていくことになる。それでもいいの?」
仲居さーん お銚子もういっぽーん
「はーい。ね、逃げちゃだめ」

「自分でもよく分からないんです。なぜ、認められないのか。
①才能がない。
②才能はあるが努力が足りない。
③生まれて来るのが早過ぎた。今の世の人の感覚・観念が追いついていない。死後に発見される天才。
自分でも①なのか②なのか。ひょっとしてもしかするとあわよくばそれともまさかの③なのか。分からないんです」
「勝手に悩んでなさい。認められようが認められまいが、新しくて面白ければそれで充分。あとは時が解決する」
仲居さーん お銚子もういっぽーん
「はーい」

「結局わたしは、言葉の復権を求めたのだと思う。かつて言葉は魔法であった。ひとを癒し、殺した。昔、あれほど権力を恣にしていた言葉の力を取り戻すために、わたしは心血を注いできた。われわれは今、言葉の「魔法」を理解しかけている。言葉とは、一方の人間がもうひとりの人間に影響を及ぼそうとする時の、もっとも重要な道具ではないか。すると言葉は、それを向けられた相手に精神的変化を惹き起こすための有効な手段となる。だから言葉の魔力は病的諸現象、とくに精神状態そのものに原因のある病気を克服することができると主張しても、もはやなんの不思議もない。魔法使いは呪文を唱え、ひとの心を意のままに操ろうとした。わたしは言葉という道具を用いて対話を重ね、抑圧された無意識の世界の解釈を試みた。そこに大きな違いは存在しない。世界が新しく解釈される時、世界は美しい」

第18番ホール ラスト・クリムトンホール テーバイの七将

 クリムトン一家の誹謗中傷と詐欺に対する、黄金の騎士ジャック・アードラーの防衛

 クリムトンの七将は難攻不落の城に向かった。世界の中心に位置する大地のへそに建設された円形城塞都市、テーバイには七つの門があり七人の敵将が待つ。臨月間近の妊婦ドラがしおらしい態度で詫びを入れ許しを請うと、フロイト先生は「うんうん」頷いてドラを許し、城に招じ入れた。ドラの手引きでクリムトンの七将はかすり傷ひとつ負うことなく、城塞都市の門前に立った。
フリフリ膝丈の花柄ワンピースに猫耳カチューシャを頭に着けたメーダ―・プリマヴェージ。第一の城壁 太陽の門頭に立ったハンス少年とおちんちんを見せ合い、歓声を上げた。
鬱金、紫磨金、閻浮檀金のローブ・デコルテに身を包んだアデーレ・ブロッホ=バウアー。第二の城壁 饗宴の門の上にかつて愛した男を見た。狼男が月に吠える。
黄金の兜、メデューサの頭を嵌め込んだ鎧をまとうマスクウーメン。象の図体・蚤の心臓のパラス・アテナ。第三の城壁 洞窟の門前、大山鳴動して鼠男一匹現れる。パラスが鎧兜を脱ぎ捨ると下には猫耳付き黒マスク、ポリ塩化ビニール樹脂ボンテージ。ヒールキャットとなって鼠男の尻尾を嚙み千切る。
朱雀と胡蝶を金糸銀糸で縫い込んだ絢爛豪華の西陣織に身を包んだエミーリエ・フレーゲ。襟抜き艶めかしくしゃなりしゃなりと。高木履で8の字描いて。第四の城壁 ゴルゴーン姉妹の門上、完全女性化したシュレーバー控訴院長が現れ美を競い合う。われこそは光の声に相応しいもの。品を作り、媚びを売り、手招きする。「わたしの精神から生まれた新しい人間たちは、没落した世界に大きなシュレーバー像を建設した。毎月4日と16日には黒オリーブを供え、光の声に耳傾け祈りを捧げるのです」
黄金の首輪嵌めた傀儡子ココットホテトル嬢ユディト。第五の城壁  パシパエーと牡牛の門下、忘れられない夜。ホテルの小部屋。ジョーカーユング牧師と再会を果たす。
裸体が透けて見える金砂子のネグリジェ、真珠の首飾りを着けたダナエー。第六の城壁 メルクリウスのサンダルの門頭に立つ黄金の騎士ジャック・アードラー。第二歩目を踏み出す。
「ずっと前から‥‥ずっと前から、好きでした」
黄金の雨下垂る太陽の騎士に抱かれ、ダナエーは言葉の木に宿る命を夢見た。
文金高島田に角隠し、金襴緞子の帯締めて白無垢をまとったクリムトン一家刀自ゴッドマザーアリ婆。第七の城壁 プロメテウスの門下に鉄仮面男フロイト。抽象と具象。意識と無意識。言葉と料理。絵画と夢が昇華され、結婚し、接吻し、臨月間近の妊婦ドラから希望が生まれた。

                              了









 


いいなと思ったら応援しよう!