長い余韻に浸りつつ -関西シティフィル第16回ファミリーコンサートレポ
演奏会の余韻が長い。はて。コロナ前ほどではないが非公式の打ち上げでも相当飲んだ。次くらいからは公式の打ち上げも可能になるのだろうか。その時は私が司会をやるのだろうか。二次会もあるのだろうか。はて。
先に断っておくが、この文章も、長い。お時間のあるときに読んでほしい。
ショスタコーヴィチという作曲家に触れたのは、恐らく小学生の高学年のときの、祝典序曲だったように思う。カッコイイ。ノリノリ。クラリネットも大活躍。当時は音楽の深さなどに考えが及ぶはずもなく、ただただカッコイイ音楽を好んで聴いていた。ジャズ組曲も早くに触れた。そう、その後中学生くらいになって、ショスタコーヴィチの交響曲第5番「革命」に触れた気がする。
アホな中学生にとってシンフォニーは退屈なものだった。シンフォニーよりは、カルメンとか、白鳥の湖とか、分かりやすいものを良く聴いていた。シンフォニーも「お勉強」で聴いていたし、ベートーヴェンのシンフォニー全集のレコードだけは何故かウチにあった。誰も聴いていなかった「お飾り」のレコードを、「お勉強」で聴いたりしていた。
全集は御多分に洩れずカラヤン/ベルリンフィル。あの有名な、決まったポーズ。一通り聴いたはずだが、たぶん5番と9番くらいしかちゃんと聴いていない。当時は7番4番8番などの魅力を感じていない。3番は辛うじて聴いていたかも。エロイカの名前に欲情していただけなのかも(笑)。カセットテープに起して、ウォークマンで聴いていた。聴き始めると大体寝ていた。
クラシック音楽ファンを自称する中学生としては、インターネットなどない状況下での唯一の情報源は街のレコード屋さんだ。なけなしの小遣いでCDを買いはじめた。はじめて買ったCDが、店員さんに勧められたカール・ベームのモーツァルトと、クーベリックの新世界だった。ベートーヴェンの魅力が分からないアホな中学生にとって、モーツァルトはともかく、新世界は衝撃だった。分かりやすいメロディ、分かりやすい展開、カッコイイ音楽、興奮を誘うテンション。
そんな風に少しずつクラシックを聴きはじめてしばらくのとき、確か吹奏楽部の顧問の先生にショスタコーヴィチの5番「革命」のことを教えていただいた。ショスタコーヴィチは朧げに名前は記憶していたので、早速CDを買い(確かムラヴィンスキー)、聴いた。中2か中3くらいだったかな。
意味ありげにはじまり、曲は進んでいく。3楽章まで聴いて半分以上寝ているときに、来た!「ダンドンダンドン」だ。はじめ、なにが起きているのか分からなかった。寝ぼけてたのだろう。そうだ、ショスタコーヴィチとかいう作曲家の革命とかいうコウキョウキョクを聞いている途中だった。オーディオがうるさすぎてボリュームを下げた。ビックリして、そのまま聞いていると、激しい音楽が続く。最後は金管の咆哮と、ティンパニの打撃が続く。
多くのショス5ファンがそうであるように、4楽章のカッコ良さに魅了された。今までに聴いたどの曲よりも、カッコイイ。カッコイイことは正義だ。大音量で大迫力。
当時、私は人数の少ない吹奏楽部で、トランペットの弟と音の大きさで本気で戦っていた。顧問の先生がトロンボーン吹きだったのもあって、大きい音こそが正義だった。もちろんクラリネットがいくらがんばってもトランペットに勝てるはずもなく、打ちひしがれていた。それでも大音量、大迫力は好きだった。誰よりも大きい音が吹きたかったし、できれば金管に勝ちたい。買ったような気になったときもある。まあ、バカな話だが。
バカな中学生のクラシック好きの心に、ショスタコーヴィチ の第5番「革命」は、突き刺さった。しかしショス5繰り返し聴くようになるのは、もう少し後の話。高校生くろいだったか。シンフォニーの魅力に気付きはじめ、クラシックを幅広く聞くようになり、あらためて触れた。今度は4楽章までひとつひとつ丁寧に聴いた。1楽章の激しさ、2楽章の仰々しさ、3楽章の切なさ、4楽章の怒り。そんなことを、今回はじめて自分が演奏するまで、持ち続けていた。
少し前の投稿でも書いたように、譜ヅラは意外とシンプル。シンプルだけど、何かある。いや、何もない?何かあるようで何もないような、不思議な音楽。今回、若きマエストロ松川創先生のご指導もあって、楽譜を丁寧に見た。丁寧にさらった。未だに分からないこともある。音符の裏に隠されているものにたどり着けた自信はない。しかし、譜面に忠実に向き合うことで、何かにブチ当たった気はする。
よく、謙虚であれ、という。何事にもそうだ。私はガサツな人間だし、謙虚であろうとしているつもりでも、そう行動できていなかったり、そう写っていなかったりする。だから、今回も、ガサツになっていたかもしれない。だからこそ慎重に、控えめに言おうと思うが、作曲家と、お客様と、ホールと、この演奏会を実行に至るまで支えてくれた関係者と、そしてなによりもかけがえのないオーケストラ仲間と、濃密な時間を、真剣に費やしたことで得られるものが、たしかにあった。
それが何だったかは、分からない。満足感といえば満足感だし、充実感といえば充実感。手応え。感動。一体感。琴線に触れた?何でもいい。何だか分からない。これを言語化できるなら作家になれるはず。少しチャレンジしてみると、客観が主観を飲み込むような、感覚。個人と社会、クラリネットとオーケストラ、指揮者とオーケストラ、オーケストラと観客、ホール。時空を超えた作曲家との対話。愛情のような、友情のような、何かに包まれた、感覚。溶けていく、感覚。
音楽だからこそ得られるものを、それもいつもと何か違う、得られるものが、あった。それが故の、余韻の長さなのだろうか。もう水曜日も終わるのに、二日酔いはとっくに覚めてるのに、まだ余韻に浸れるとは。さあて、そろそろ仕事しないと。でもこの長い余韻を、もう少し楽しみたい。
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