溢れるSNSとの付き合い方
この前、誕生日だったのだが家族からはほとんどお祝いされず(もともと淡白)にいたのだけれど、Facebookで知り合いのおじさん達から立て続けにお祝いをいただき、図らずもとてもウレシかった。
Facebookがもはやオジサンオバサン向けのSNSになっていることは周知の事実。私も一日一回、いいね!を押すためだけにアプリを入れている。いや、たまに演奏会の告知やInstagramからの投稿の連携で出したりもする。発信のツールとしては、私はこのnoteとTwitterが合ってるかな。インスタはたまに。動画とか出せるならインスタとかTikTokもやってみたいな。
一時期辞めてたりもした。再開したのは、生存確認と、オジサンオバサンでもたまに面白い投稿を続けておられる方もいて、意外と見ちゃう。まあクリティカルに必要な情報ではないのだけれど、コミュニティや(薄い)人間関係を維持するという一定の効果はありそうだ。実際、コロナが明けてきて久しぶりの出会いのキッカケになってたり。
リアルでのコミュニケーションが希薄になったこの時代、SNSでのコミュニケーションでも間に合ってるという人が多い。薄くて軽くてどうでもいいやり取り。見たくなければ見なくてよい。ちょっと前まで「ブロックは相手に失礼だ」とか言ってなかったっけ?
溢れにあふれた(自分のも含めて)どうでもいい投稿やコメント、キラキラした写真に、イチイチまともに反応していたら身体が持たない。だから縦にシャカシャカとスクロール。一喜一憂した頃もあったが、いつのまにか脳が順応していて、ほぼいいね!を押すロボットになってる。いや、ちゃんと見てますよみんな!
そう、それでいいと思うのです。このnoteも含めて、どうでもいい好きなことを、好きなだけ世に垂れ流すことができるなんて、ステキじゃないですか。有名になるとか、どうでも良くて(でもワンチャン有名になったらウレシイ)、幾多の人にとって価値のない、でも、自分にとっては欲を満たしてくれる。
バズるための法則があるとすれば、球を投げ続けることだろう。私が読んだ本(なんだったかな)の中でも、バズらせようと思ってバズるものなんて、ないらしい。結果として、バズる。だとすれば、球を投げ続ける中で、何か一つでも引っかかるかどうか。継続。習慣。
人の特性として、怠けることがある。私は怠け者だ。だから、継続性がない。習慣化ができてない。読書の習慣だけは、ここ10年の中で唯一、習慣化した習慣だ。あとはダメね。noteもなかなか、続かない。言い訳しはじめると、キリがない。でもいいんです。そういう怠け者の自分が、とてもとても好きなんです。ちゃんとできたらもちろん、「えらい!」と自分を褒めてあげます。できなくても、「大丈夫!」と励ましてあげます。そうやって、40代後半を、怠けながら、ときには褒めてあげながら、過ごしていきたいと思います。