中村文則著『何もかも憂鬱な夜に』感想
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中村文則著『何もかも憂鬱な夜に』集英社文庫
お気に入りの一冊なので、感想を残しておこうと思い書いています。
あらすじ
感想(ネタバレを含む)
印象的なシーンはいくつかありますが、一つ挙げてみます。
山井の控訴期限が明後日に迫る日、刑務官である「僕」は山井の元を訪ねます。
「なぜ、殺したんだよ」という「僕」の問いに、山井は時間をかけて「セックスがしたかった」と答えました。そして、「俺は、そういうところにいたから」「昔から、生まれてから、殴られることにも殴ることにも、慣れてたから」と語り始めます。
山井は「僕」と同じく施設で育ちました。
「僕」の育った施設の施設長について、次のような描写があります。
「僕」のいた施設の施設長はこういう人です。
施設へのアダルトビデオの持ち込みについて、一般的にはどこの施設も許されないはずです。
施設には様々な生育歴の子どもがいますから、刺激的なものの持ち込みを禁止することは直接、子どもを守ることに繋がるのです。
しかし、「僕」のいた施設の施設長はそれを取り上げませんでした。
アダルトビデオを観る自由を尊重したのです。
一般的に施設がアダルトビデオの持ち込みを禁止することも、子どものことを考えてのことですが、「僕」の施設長も「僕」のことを考え、笑って許しました。
おそらく山井は、子どものためにアダルトビデオの持ち込みを禁止する一般的な施設で育ったのだろうなと思います。
どちらが正しいかとか、愛があるかとかということではなくて、似た境遇で育った「僕」と山井との違いは、彼らの周りにいた人の違いということになります。
話は戻って、山井は「僕」に、「俺は、そういうところにいたから」と語り始めます。
「そういうところ」というのは、山井が次に述べた、「昔から、生まれてから、殴られることにも殴ることにも、慣れてたから」ということと捉えられますが、私はもう一つ、「アダルトビデオを取り上げられる環境で育ったから」というようにも感じました。
アダルトビデオを観られなかった奴は皆性犯罪者になると言っているのではありません。
ただ、周りにいた人による関わり方の小さな違いの積み重ねが、「僕」を刑務官に、山井を未決囚にしたのではないかなと思うのです。
その考えに至ったとき、結局人は環境で決まるのかと落ち込みました。
しかし、この小説には、「僕」の施設長の言葉として次のことが書かれています。
そして、恩師からこの言葉を受けた「僕」が、死刑を役割として受け入れている山井に伝えた言葉を紹介します。
そしてもう一つ、施設長が「僕」に伝えた言葉があります。
これらの言葉を、私は、自分がどんな人間であったとしても、それとは別に、命を尊重することができる、と解釈しました。
また、「人間」は自分ではどうにもならないこともあるけど、その「命」は自分でどうにでもすることができる、と解釈しました。
私はこれらの言葉が、今までのどんな言葉よりも勇気づけられました。
そして、命を尊重する方法として、施設長及び「僕」は芸術作品に触れることを挙げています。
芸術作品は全ての人間にたいしてひらかれているからです。
私は芸術、広く言えば創作に触れた経験は多いほうだと思います。
ピアノやチェロを弾きましたし、読書もします。絵画も観ます。
しかし、その感想を言語化することをあまりしてきませんでした。
この小説を読んで、創作に触れ感想を持ち、言語化しようと了見を広げることを通して、世界で生きていくことの意味、命を尊重するということをしていきたいと考えました。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
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