急須がきたら、家族になった
結婚祝いに急須をもらった。とてもかわいい。
いや、もらったというか、私の細かすぎる趣味趣向に対して適切なプレゼントを選ぶことをお手上げした友人ふたりが「この予算の中で欲しいもん教えて!」と言ってくれたので、間髪入れずに「この急須!」とお願いしたのだ。
これはティーポットとしても使えるし、「じっくり釜焼きすることでお茶の甘みと渋みが好ましいバランスで抽出されるように設計」されたというから、うん、お茶が美味しい。美味しく感じる。いつもより美味しいのは、急須がいいからに決まってる。
実家を出てからもうずっと、急須やティーポット、という類のものがずっとずっと欲しかった。
ただ、一人で暮らしてると、いらないのだ。
お茶を飲みたいな、と思ってもティーバッグで事足りてしまう。食洗機でもなければ、ティーポットは注ぎ口に詰まった茶葉を洗うのが非常に面倒。
しかしマグカップにティーバッグをぶらりと入れて、ゾゾゾとお茶を注いだあと、そのティーバッグの行き場にはいつも少し困る。
もう一度使うか? いやでも小皿に引き上げるとなるとまた無駄に洗い物が増える。5秒ほど悩んで「まぁリプトンの安い紅茶だし」とベチョッとゴミ箱に捨てたときに限って、二杯目が飲みたくなって少し後悔する。リプトンの安いティーバッグでも、1時間に2つ開封するのは少しためらう。
三度の飯よりもお茶が好きな母の遺伝か、紅茶も緑茶もとても好きなのに、ティーバッグのユーザーエクスペリエンスの悪さからついつい面倒になって遠ざかってしまうティータイム。
狭い狭いワンルームでの東京暮らし。家具は無印良品とかIKEAとかそういうところで「とりいそぎ」揃えていたものの、そのままの流れで安いティーポットを買う気にはなれなかった。だってそれは私にとっては心の贅沢品だから「とりいそぎ」では素敵なティータイムにはなりえないのだ。
「いつか運命のティーポットを買うのだ!」
と、なんだか憧ればかりが募ってしまい、なかなか買えなかった。7年間もティーポットが買えなかった。何事も憧れすぎるとこじらせて、タイミングを逃してしまう。
一度、マリアージュフレールの店頭に置いてあるティーポットの丸い愛らしさに魅かれるも、値段を見たら3万円で少しひるんだ。いや運命かもしれないじゃんと思ったけど、自分へのプレゼントに3万円はちょっと高い。正直にいえば当時は食費も切り詰めていたので、3万円はかなり高い。
でも店の前を通り過ぎては、もう一度ティーポットの姿形を確認しようとお店に入るものの、店員さんに「どの茶葉にしますか?」と声をかけられる。茶葉じゃない。でもその場の空気に耐え切れずティーバッグだけ買ってしまう。本当はティーポットを観察に来たのに。
そのうち結婚して二人暮らしになっても、飲み物といえば私も夫も、それぞれの好きなジンジャエールやコーラや飲むヨーグルト(飲むヨーグルトはすごく好き)をひとり飲んでいて、そこに「家族感」はなかった。たまに私が紅茶や煎茶を飲みたくなって、ひとりベチョっとティーバッグで注いで飲む。なんだかさみしい。子どももいない若者ふたりぐらし、家賃を折半するだけでは、家族の実感は伴いにくい。
だから友人たちから「この予算で何か!」と聞かれたときに、まっさきにティーポットをお願いした。昨年からスタートしたアメリカ暮らしに必要な包丁やまな板、お茶碗にお箸などの道具はひとまず揃っていたけど、ティーポットだけはまだなかった。
外国暮らしをする日本人の宿命か、やたらめったら日本のものが恋しくなるもので、夫がどこかで情報を仕入れてきた山形にある、菊地保寿堂という慶長9年(古い!)に出来たというブランドの急須をお願いすることにした。
この急須の登場により、ついに我が家にティータイムができた。
「お茶いる?」
「いる〜」
という会話はまさに家族のそれ。お茶があるとお菓子がいる。お菓子があると会話がはじまる。お菓子がおわっても、一度茶葉をいれると2、3回はお茶が楽しめる。「出がらしやからね…」と薄くなったお茶を飲むのも、まるで懐かしい家族の風景だ。実家では母の口から何度も聞いた「出がらし」という言葉、7年ぶりに口にした気がする。出がらし、いいなぁ。
結婚式を挙げるよりも、家賃を折半するよりも、家族になるということを感じる瞬間はふとした暮らしの中にあるよね。という、すごく小さな話。
次欲しくなるのはヤカンだろう。麦茶をガブガブと飲むその日はもっと、家族らしいんだろうなぁと想像する。
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