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封建時代からの名残りとも言える、法的に存在しない仇討という、私はもはや日本の文化に組み込まれていておかしくないとすら解釈できる昨今の時局を俯瞰するに、報道とリテラシーの距離はかなりの長さだと実感しています。

仇討とは親兄弟が何らかの事情で憤死した際、武士階層に限って報復を認める慣わしが明治時代に法務制度の責任者だった江藤新平によって廃止されるまで、実に700年近く存在していた事になります。

物事の道理とは上位にあるもののみの制度や慣習であっても、知らずと自然に下位層にも流れていき、やがて同様の道理が浸透していきます。
つまり、日本人全体で仇討は共有された精神的概念であったと私は解析しています。
殺人を肯定する仇討への共感とは、親兄弟を思う肉親の情の深さと尊さが、広く教義的価値観にまで、日本人の精神的基礎にあったのではないかと推察されます。

現在の日本の刑法では非道行為を犯した者に、同様の非道な行為に該当するやり方を与える事で、犯した者への贖罪とはされておりません。罪に至った経緯を検証し、場合によっては情状酌量の余地が与えられます。殺人を犯す=死刑とは決して限りません。
古代のハンムラビ法典における目には目を、刃には刃をのようには分かりやすくないのです。
つまり、人間が人間を裁く自信の無さから来る、便利な言い方に直せば「人間は更生できる、再生可能である」この道理の前に厳罰回避の方向に一斉に踏み切り易い判断が生まれていると見ています。
故に今だに現在と言うべきか、被害者軽視の風潮は無くなる事なく、何故か被害者については自己責任で片付けられてしまう傾向が強いと感じて止みません。

封建時代に仇討を認めない、この価値観を改めるべきと発したのは鎌倉幕府の第3代執権の北条泰時と云われていますが、父親の仇討への厳禁を御成敗式目に定めた限定的なものであり、その他の状況には触れていません。

仇討はある種の申告制度ですので、お互い心構えもあったのだろうと思わなくもありませんが、闇討ち=テロルについては、これは本来、人道上同情を挟む余地は無いのです。
テロリストにどのような背景があろうが、その犯した人間は単なる殺人者であり、標的にさせられた被害者はその人物によってまだ過ごすことができた人生を断たれ、殺されてしまったのです。
よく原因について背景が取り沙汰されていますが、ケースとして、マスコミは広告収入と視聴率のために容疑者関連の対象団体を助長させていたのではないか。且つての二の舞に過ぎないのではないかと…結局、容疑者の目論見通りに世間の注目の的になっているのです。

私が最も憂うのは、長年日本人の精神風土に存在した仇討精神が、テロリズムと混在してしまい、加えて同情できれば殺人は肯定して已む無しとみる、その部分が仇討の要素にも触れる、現代人間主義に収まっているとしたならば、これは人間としての質感と時代が完全に退化している事の証左であると…言い過ぎかもしれませんが、この国は滅びゆく運命にあるのではと私には恐怖を覚えるに充分です。

物事を一緒くたにせず、深い洞察からくるリテラシーを持つことでしか安心は得られないと私は心から思います。

https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009010274_00000

大河ドラマフリークとして、赤穂浪士を描いた『峠の群像』は秀作です。
第一話が仇討として名高い高田馬場の決闘における堀部安兵衛の登場から始まり、吉良邸討ち入りで締めるという一年間のドラマ構成は見応えがありました。
やはり赤穂浪士で擦り込まれた仇討肯定に立つ、理由ありきなら是の構造はこうした馴染みからそこはかとなく潜在的に各々あるのかもと、いかがでしょうか。



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