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「三つ子の魂百まで」とは、幼い頃に体得した性格はいくら年をとっても変わるものではないという意味のことわざですが、特に好きな感覚にはその傾向は色濃いと思います。実際、理由は分かりません。となると、やはり潜在意識における魂の歴史に起因するのかもしれないと私は考えるのです。

いわゆる生まれ変わり、輪廻転生を繰り返す記憶の彼方からという見方です。人生一度きり故に燃焼できる生き方をと思うのは正しい反面、だからといって快楽的に刹那で良いと推奨されないのは、単に社会規範に反しているからで片付けられません。それはやはり我々は何らかの指命をもってこの世に生を受けたのではないかと思うからこそ、無意識下において人は人に道徳を説こうとするのです。

もし指命感を持たない人たちのみで古今東西は果たして成立していたのだろうかとふと思索します。
結局、ある時は誰かが誰かの為に犠牲になったり、ある事を為すために栄達を求めず地道な礎の役割で一生を終えたりと、意識的にそうした方が良いと決心した数多の人間の思いが社会を構成していったのだと推察して止まないのです。

好きな感覚の理由からスケールの大きい形而上哲学、思想に至りますが、そう考えることは極自然な人間感覚でもあると思います。自分の好きな感覚から派生した職業、仕事を通して誰かを楽しませたい、喜んで欲しい、役に立ちたい、そうした思いをもつ人たちが様々交錯しながら、健全な社会が建設されてきた筈なのです。

今大事な事は自分の内面に向き合うことではないでしょうか。忙しさや目先に追われて、気付けば一日が過ぎる日々から、ほんの少しの静寂の中の読書、そして一日の反省と今日出逢った人たちへの感謝。
そんなことを心掛けるだけで良いのではと思います。

いつの時代もそうだったのかもしれませんが、不条理の中を生きているのが人間そのものだという諦念が、また自分が存在する理由でもあり、何をするかが問われているのでしょう。

SNSを見ていると、不思議だなと思うのは、立場なのか環境に基づくものなのかですが、それぞれの正義で溢れる割にはその正義への疑念には全く受け付けない世界、つまりココだけは明確なまでの強靭な個人主義で成立している事が分かります。

とにもかくにも私たちは不条理の中を生きているという事だけは間違いないのです。

先日、萩での撮影中、昼休憩時初めて行った「萩しーまーと」でのえび天丼。ホントに旨いとしか言い様がありませんでした。美味しいモノを食べると幸せを感じる今日この頃です…

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