ななめ上の女たち1〜元乳母のマッス『あるじ』(1925 監督:カール・テオドア・ドライヤー)
マンハッタン在住の岡田育さんの著書「我は、おばさん」を元町映画館林さんから勧められ、読む機会があった。「おじさん」に比べて、言われたくない言葉のようになっている「おばさん」を、我々の手に取り戻す。そんな気概の中、古今東西の様々な小説、映画より、血の繋がりのある叔母さんから、全く血の繋がりはないが、親や親戚とは違う風通しの良さや、進むべき道をさりげなく示してくれる”ななめ上の存在”となるおばさんに注目している。子どもの有無に関わらず、これから若い人たちに対してどんな存在でありたいか。そのヒントがこの”ななめ上の存在”だなと思った。
そんなときにこれぞまさに映画のなかで”ななめ上の存在”を見つけ、これは岡田さんじゃないけれど、見つけるたびにメモしていけば、何か見えてくるのではないかという気がして、久しぶりにNoteを開いたのだ。
無声映画の傑作『裁かるるジャンヌ』で知られるデンマークのカール・テオドア・ドライヤー。以降も重厚で、キリスト教的世界観のある作品をトーキー時代にも作り続けてきたわけだが、『裁かるるジャンヌ』の前に作られた『あるじ』はずいぶん毛色が違う。本当に細やかな家庭内での描写からパワハラ夫、ヴィクトルのもと、ひたすら耐えながら家事に子育てにと奮闘する妻イザが描かれ、100年前の話とは思えない、ある意味今でもあるあるなのが残念ではあるが、そんな夫婦像が描かれ、高尚な映画を観ているというより、自分ごとのように感じられるのだ。
そんなことぐらい自分でしろ!と言いたくなるような細かいことまで難グセをつけるヴィクトル。ある日、息子の宿題で暴君の意味を問われ、それを説明しているうちにイザは夫が自分に対して暴君のようにふるまっている現実に直面せざるをえなくなり、張り詰めていた心が壊れてしまう。(映画では詳しく語られないが、ヴィクトルも失業中だった)
そこで力を発揮するのがヴィクトルの乳母、マッス。度々アップになるその表情の豊かなこと!サイレント映画なので表情がものをいうのだが、それにしてもである。ヴィクトルの傲慢な態度を見逃さず、イザの代わりに夫子どもの面倒を見るので、ゆっくり休むようにと共依存状態のイザを、ヴィクトルから離し、ヴィクトルを厳しくしつけていく。妻に対するリスペクトや感謝の念を忘れ、体裁ばかり気にし。自分が妻より優位に立ちたいがための今までの行動をビシビシ指摘、ななめ上の存在のなんと頼もしいことよ。
イザが回復して戻ってきてからも、簡単にはヴィクトルに合わせず、いくつかのトラップを仕掛けて、心底改心しているかを見定める。ハッピーエンドというより、ここがようやくリスタート地点に立ったという夫婦の物語。日頃はお手伝いとしてイザたち家族を見ていたからこそ、彼女の危機を救うことができたマッス。中盤以降は主役並みの活躍ぶりだった。公開当時、フランスでも以降のドライヤー作品に比べて非常に評判がよかったと、本作を伴奏した鳥飼りょうさんは解説されたが、自分の境遇を重ねていた女性客も多かったのではないだろうか。息子が宿題で読んでいた原作では、もっとコミカルな描写があったそうだが、ドライヤーの脚本・演出により、緊迫感のある室内劇になっている。レンズから覗いたような映像効果も相まって、オーソドックスに見える家庭劇にも、そのセンスが垣間見えた。以降も女性の受難を描き続けてきたドライヤーだが、本作ではその受難を女性同士の連帯が救う。「わたしの目の黒いうちは」じゃないけど、おばさんたるもの、それぐらいの凄みが必要なのだ。