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写真表現の役割について

写真の「自己表現」という枠組みにおいては、
写実という結果に対して納得性を遡及するプロセスが主体です。
一方、絵画はキャンバスに表現を付け足していくプロセスが主体となるため
同じ芸術という枠組みでも、表現をインプットする方法や分析方法が全く異なるのではないかと思うことが多くありました。

最近になって、細かい考察ができる知見とアウトプットする語彙を得れたのでここに記そうと思います。

前置き

この内容は、「映像の修辞学/ロラン・バルト」「寝ながら学べる構造主義/内田樹」の中で述べられた記号学的解釈を元に記載しています。
ところどころ言語学や記号学の用語を引用していますが、基本的には以下の意味として解釈いただいて大丈夫です。

■用語説明
シニフィエ:意味されるもの
シニフィアン:表現そのもの
ラング:言語そのもの
エクリチュール:書かれたもの
パロール:話されたもの
アナロゴン:相似物
当内容で用いた用語については、超訳となります。
正確にはもっと粒度の細かい意味がありますが、ここでは割愛しますのでご留意ください。


では本題に。
まず、写真とは何かという前提条件は以下の通りです。

■写真とは

写真は、2つの選択と2つの要素が、段階的に処理された結果の概念です。

ο選択
・空間の決定
・時間の決定

ο要素
・縮写
・二次元化

この選択と要素が決定されることによって写真となります。

処理のプロセスは以下の通りです。

1撮影者が被写体の構図を決定
2撮影タイミングを決定
3光学の倍率変更や、カメラの技術的制約により縮写
4フィルム(センサー)に投影されることで二次元化が発生

写真とは何かと問われれば、概念的な説明は上記となります。
昨今、カメラ技術の普及に伴い、自己表現として写真で感情を昇華することが一般化しています。(私もその一人です)
下記の内容は、写真において「表現」という含みを踏まえた作品展開がなされているこの現代において、写真の「表現」とはなんぞやという考察でもあります。


■写真の「表現」について

写真の「表現」は、製作者と鑑賞者の共示の結びつきのことです。
表現において、鑑賞者側に求められる撮影者側の要望は、「写真のメッセージの読み取り能力」です。

さらに細かくいうと、「メッセージの読みとりに心的エネルギーを投入した知のレベル」が求められます。

写真も絵画も、広義的な芸術作品全てにおいて、作品から得られる「イメージ」を鑑賞者側が抽出することで客体的感性が刺激されます。
その感性の刺激を得る活動を芸術とカテゴライズされているのです。

ここでは、「鑑賞者側のイメージ」とは、経験的な知の連関から生まれるものでありますよ。ということが言いたいのですが
細かい内容は、後述の「共示の種類(鑑賞者側に求められるもの)」にて述べます。


■写真が発信するメッセージ

写真には3つのメッセージがあります。

1.言語的メッセージ(外示性)
 →写真の視覚情報そのもののこと
2.コード化されたイコン的メッセージ(共示性)
 →写真から得る社会通念的共感
3.コード化されていないイコン的メッセージ(共示性)
 →写真から得る非社会通念的共感

2と3に、イメージがつきにくい場合は、下記のテクストの観点からだとイメージしやすいと思います。


■テクストの役割

写真の外示性からメッセージの意図を矯正(誘導)させることができるのがテクストです。
写真の表現において、テクストとの関連性は切っても切れません。

前述した「写真のメッセージ」の2と3のイメージがつきにくい場合は、以下がわかりやすいと思います。

「2.コード化されたイコン的メッセージ(共示性)」は、
SNSでよく見かける「雰囲気エッセイ」で成立することが多いです。

例)雰囲気エッセイの例

詩(テクスト)+写真(視覚情報的外示)でイメージを誘導します。
2の場合は、テクストはあってもなくても、そこから読み取れるコードは、社会通念的であるため共感を得る場合が多い傾向にあります。

次に「3.コード化されていないイコン的メッセージ(共示性)」は、
作品のステートメントとしての位置付けで成立することが多いです。
例えば、『全く関連性のない組写真に見えて実は、世界各地の同じ時間で撮影されたものである』というステートメントがあるだけで、鑑賞者側は全く違った見方をすると思います。
このように視覚情報だけでは製作者側の意図(表現)が伝わらないために、ステートメントとしてテキストを活用し共示性を得る場合のことを指します。

ステートメント例
その作品例

このように、テクストはイメージを共示する役割をもちます。

ロラン・バルトの言葉で言えば、テキストは「副次的シニフィエを吹き込む役割を持った寄生的メッセージ」です。
テクストは、製作者の視線の法律であり、一つのコントロールであって、投影力を前にしてメッセージの使い方に関する責任を負っています。
写真のイメージがもつシニフィエ(内容的意味)に対し、テクストは、抑圧的な価値を持っているというようにも捉えることができます。

ちなみに筆者は、この「シニフィエの矯正」が、客観性に対して非常に恣意的だと思うので、極力テクストを含まないアウトプットを意識しています。

まとめると、テキストが文化やモラルや想像力の負担をイメージに負わせているということになります。


■写真の外示性

写真における外示性は、視覚情報そのもののことを指します。
通常、主観と客観の結びつきにおいて、イメージの共有というのは最高度の理解度が必要とされます。

製作者側と鑑賞者側のイメージの共通理解度をより精度高く保つ方法において、
「外示性」の面で考えると、写真はどのツールよりも最高度の理解度を提供できます。

ちなみに絵画においては、ルネッサンス期以降の遠近法の発明により、より写実的描写技術が発達し、主体と客体の結びつきを近づけることができるようになりました。しかしこのような絵画や造形であっても、最高理解度には達することができません。

※その反面、絵画は、1800年代にゴッホやゴーギャンをはじめとする印象派の台頭により、自然と絵画の中間に「内面的感性」を描写することで芸術の新たな価値創造が生まれ、写実とは違った絵画特有の表現方法が発達しています。


星月夜(糸杉と村)/フィンセント・ファン・ゴッホ 1889年制作

それが「芸術的魅力」であることもさることながら、ここで言いたいのはそういったふうにカテゴライズされる表現技法と写真には、外示性において大きな違いがあるということです。

絵画は読み手の解釈に対して「普遍性」がありません。しかし、写真においては純度100%の理解を提供できます。
なお、写真における外示性の表現技法は、主題や構図、アングルなどの選択作業のみのことを指します。


■写真の共示性

外示性については、前述した通り、写真そのものが視覚的ラングそのもののことであるため、そこに共示性の入り込む余地はありません。
ここでは、写真における共示性については、「人間による写真への介入」と解釈します。
共示は写真に対し、第二の意味を上乗せすることであり、写真生産の様々な次元で形成されています。

具体的な共示性を提供する技法は以下の通り

ο技術的処理
・色味
・ソフトフォーカス
・長時間露出

ο割り付け
・構図決定
・被写体との距離
・場面構成
・光線

技法は様々ですが、これらは写真の構造には属しておらず、厳密に言えば前述したとおり人間による介入です。

これらはイメージ全体の中で不連続で遊走的に散りばめられることでイメージを構成します。


■共示の種類(鑑賞者側に求められるもの)

上述した製作者の技法はアプトプット側の話でしたが、写真における表現とは冒頭の『■写真の「表現」について』で述べた通り「製作者と鑑賞者の共示の結びつき」がないと成立しません。
そのため、表現には幾許かの鑑賞者側に求められるものがあります。

認知的な共示
写真のシニフィアンは、アナロゴン(相似物)の部分から複数共通的に選ばれます。

知覚的な共示
これは写真から得る自然的でも人工的でもない。歴史的・文化的である点のことです。
写真から得る感動は、自身の経験・価値判断から生まれます。経験していないことも同様に「未経験という経験」に含まれます。

まとめると、作品を見た時点での鑑賞者の「知」に依存しています
このことを踏まえた上で、写真における共示の読み取りはラングのように、その分野の記号を学んで初めて読み取りができるようになります。
※このことを深掘りしていくとカントの認識論やアプリオリの話にまで行き着くことになりますがここでは割愛します。

例えば、以下の写真を見てみましょう。

この写真を見て
・赤いタクシーが点在している
・漢字の看板が複数見られる
・高層ビルが建ち並んでいる
・漢字の看板のわりには、白人の写り込みが多い

このような読み取りの連関でこの写真は、香港かな?中国の都心部かな?と連想されます。(認知的な共示

また、構図という写真分野の記号の「知」を鑑賞者が得ていた場合、
写真の中の対角線がそれぞれ一番奥の開放された道路の先へ繋がっているという気づきを得てより写真を楽しむことができます。(知覚的な共示

この「読み取り」の元となる認知能力が鑑賞者側に必要とされ、またその能力が豊かであればあるほど作品から共示を得やすくなります

このように、読み手の教養と知識という歴史的、文化的「知」に基づき共示の認識が成り立っています。
そして、読みを行うことで快感を得るように、この種の情報をできるだけ多く含むことによって、より教養のある写真とみなされます。
それは、昨今の高尚とされる有名写真家の決定的瞬間的写真や報道写真においてよく使用される技法です。

知覚と認知の感性のレベルを上げることで、鑑賞者としての楽しみ方も醸成することができる。
写真に限らず芸術分野において、作品の「楽しみ方」は作品が高尚であればあるほど、このような教養に依存していきます。


■写真の魔術的性格

最後に、写真の魔術的性格・魅力について述べます。
写真は「モノがそこにある」ではなく「そこにあった」という意識を据えます
そのため、直接的な場所 と 先行する時間 というタイムスリップが起きます。
写真は、幻想として生きることは決してありません、目の前にあることも全くありません。
このような性格を魔術的としています。

写真の一回性については、芸術分野において「アウラ」と呼ばれますが、
これについては、今後細かい考察を述べたいと思います。


こうして、過去に存在した一つの現実を所有できる点が写真の魅力です。

写真は「外示」メッセージのみによって作られており、在り様を完全に説明します。
そこに人間の意志の介入によって共示を得て、芸術に昇華されます。
写真のパロールとエクリチュールは文字通り不可です。
なぜなら記述するということは、外示のメッセージの中継物、すなわち第二のメッセージを付け加えることであり、そのメッセージはラングから取り出されるので、どんなに正確性を用いようとしても写真の現実との相似性と比べると、共示になってしまうからです。


以上
視覚情報としての写真が、表現としてどのような要素を含み、昇華されているかという話でした。

この内容は記号学的分析を多く含んだ内容であるので、別の分野の観点からの考察だとまた違った意見が出ると思います。
そのような内容があれば是非教えてほしいです。

写真は、魔術的性格を持ちます。
この性格は、人生においてより多くの楽しみ・幸福の源泉となる可能性を秘めています。


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