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喪失を受け入れること、あるいは時間=空間 『大豆田とわ子と三人の元夫』(第7話)
(Tverより)
かごめ(市川実日子)の一件から1年、とわ子(松たか子)は一人暮らしを始めていた。生活を楽しもうと試行錯誤するとわ子は、公園で“謎の男”(オダギリジョー)と出会う。そんな中、とわ子はしろくまハウジングのオーナーが外資系ファンドに会社の株を売却しようとしていることを聞かされる。悩むとわ子を心配し、慎森(岡田将生)、鹿太郎(角田晃広)がとわ子のマンションを訪れる。一方、八作(松田龍平)は一人で旅に出ていた。後日、とわ子は“謎の男”と偶然再会し、ひょんなことから話題はかごめのことに。とわ子の口から親友への思いが止めどなくあふれていき…。
前回のかごめの死の直後から、日常を変わりなくこなしながら、どこかふわふわと現実を生きていないかのように見えていたとわ子ですが、それから一年経った今でも同じような感じに見えます。終盤になってわかりますが、それはやはり喪失がもたらす寂しさの持って行き場がなかったからでした。
とわ子はそもそも感情をあからさまに表現しません。しかし、それにしても親友を失ったにしては淡々としすぎていると、とわ子の周りの人間はもちろん、見ている私たちも感じます。
この辺りのとわ子の描き方を見ると、本作の脚本家は大切なものを失った経験があるのだとわかります。
どうにも現実感が薄れふわふわした感覚… ようやく「自分は寂しいのだ」と気づくけれども、まだ悲しさまで到達できない、あの感じ。
失ったものの存在が自分の中で大きければ大きいほど、“ふわふわ感覚”は長く続きます。喪失を受け入れられないからです。
そういう状況の中、娘がとわ子の実家で暮らすことになって、一人暮らしをすることになったり、会社が買収されることになったり、生活がざわつきます。
毎日ソファで寝るところ、とわ子の心境を表す表現としてすごくリアリティがありますね…
つくづく本作は大人のドラマだなあと思います。
色々な経験をして様々な感情を味わったことのある大人が思い当たるところのある心の動きの表れが随所にあります。
個人的に、坂元裕二作品はセリフ劇であるイメージが強かったのですが、本作で意外とそうでもないんだと感じています。
例えば言葉の少ない八作の存在が大きくて、とわ子と八作の間に流れる沈黙が深みのある感情表現になっていたり、とか、とわ子の表情とか。ソファで寝る日々とか。
誰にも話せなかった親友の喪失を、出会ったばかりの謎の男に話すとわ子。かごめは一人でどこへ行ってしまったんだろうと思うこと、かごめが死の当日にかけてきた電話に出なかったこと、一年経って時々忘れている時があり、また一人にしてしまったと思ったりすること、誰にも話せなくてひどく孤独であること。まだ若かったかごめの死について、人から「やり残したことがあったでしょうね、悔やまれますね」などと言われると、だったら私たち別に大人にならなくてよかったな、と思うこと。
「人間にはやり残したことなんてないと思います」と謎の男が答えて、続けます。
過去とか未来とか現在とか、そういうのってどっかの誰かが勝手に決めたことだと思うんです。
時間て、別に、過ぎていくものじゃなくて、場所っていうか、別のところにあるものだと思うんです。
人間は現在だけを生きているんじゃない。5歳、10歳、20歳、30、40… その時その時を人は懸命に生きてて、それは別に過ぎ去ってしまったもの、なんかじゃなくて、あなたが笑ってる彼女を見たことがあるなら、彼女は今も笑ってるし、5歳のあなたと5歳の彼女は今も手を繋いでいて… 今からだって、いつでも気持ちを伝えることができる。
時間と記憶についての考察です。
私は、時間を過去から現在を通って未来へと流れていくものとして捉えられず、空間的なものとして捉えてしまうのですが、だから謎の男の言っていることが実感として良くわかります。過去は過ぎ去ってしまった(=消えた)ものではなく、今ここでないどこかにある、という感覚です。例えば「亡くなったあの人は今も私の心の中で生きている」という代わりに、私は「亡くなったあの人は今もあそこで生きている」と思うのです。
謎の男はさらに続けます。
人生って小説や映画じゃないもん。幸せな結末も、悲しい結末も、やり残したこともない。あるのは、その人がどういう人だったかということだけです。
だから人生には二つルールがある。亡くなった人を不幸だと思ってはならない。生きている人は幸せを目指さなければならない。人は時々寂しくなるけど、人生を楽しめる。楽しんでいいに決まってる。
この部分は謎の男がとわ子に向けた言葉であると同時に、坂元裕二が私たちに向けた言葉であり、おそらく現在の坂元裕二作品の根底にあるもの、土台に当たる部分をそのまま表現していると言えるでしょう。
坂元裕二が、“小説や映画ではない人生”を映画やドラマにする試みをあえてしているのは、生きている人すべてに幸せを目指して欲しいからなのかも知れません。
このシーンの、謎の男の言葉にじっと耳を傾けながら表情を変えずに涙を流すとわ子は素晴らしかったです。
最後に謎の男の正体がわかり、さらに謎が増すという展開になりました。
次回も楽しみですね。