この記事は雑誌「1番近いイタリア」の巻頭エッセイからの抜粋です。
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村の言葉
「アーメン」永遠に続くかに思えた牧師の祈祷が、一同の唱和によってピタッとしまった。高い天井に声が吸い込まれ、人々も音を仕舞い込むようにして帰り支度をし、一人また一人と出口の扉から出ていく。私も周りにならって席を立つと、身長差のある老夫婦が私と訪ねていた友人セレナの元に近づいてきて「ボンジョルノ」と挨拶をする。声を出して良いのか分からない私は、一歩遅れるようにしてお辞儀しながら挨拶を返す。一緒に教会の扉を出ると、暗さに慣れた目には眩しいほどの朝日を受け、解放感に包まれる。改めて、はじめましての挨拶をする。セレナの叔父さんと叔母さんだった。まるで10年前から楽しみにしていたかのように私が来たことを歓迎してくれた。
4人でバールに入り、コーヒーと甘いブリオッシュを頂く。クラシックなチョッキを来たバールのお兄さんが注文を取りに来る。いつも教会のミサの後に通っているのだろうか、二人は泡なしのミルクを少し入れたエスプレッソを慣れた口で注文し、私は少し迷ってカプチーノにした。バールのお兄さんが去ると、叔母さんは私に向き直って、頭のてっぺんからつま先まで、まるで尊いものを眺めるようにして見た後で、5分前と同じような歓迎の言葉をくれた。叔父さんは同調するような口調で何やら二、三の言葉を発していたが、席が斜めだったせいで良く聞こえなかったからか、何を言っていたか分からなかった。
少し経ってコーヒーが運ばれてきた。こちらのバールでよく見る、水の入った小さなグラスがコーヒーカップの隣に置かれると、叔母さんはお兄さんにグラッパでないことを確認し、普通の水だと知ると少しがっかりしていた。私の耳に口元を近づけながら、大きな声で「朝からコーヒーにグラッパ入れると叔父さんに怒られてしまうから」という。「飲んでも良いのに」とセレナが笑う。後ほどランチの時間に叔母さん宅に伺うと言ってバールを後にした。
12時少し前に叔母さん宅に着くと、すでに部屋には湯気が漂っている。叔母さんは鍋の前で忙しく手を動かし、叔父さんは、私が小さい頃運動会で父が使っていたのと同じような、今どき懐かしいビデオカメラを構えて待っていた。「Bigoli co' la renga」という名前の、レンガという魚のオイル漬けをビーゴリというパスタに絡めた料理を作るということで、私たちは来る前に近所の行きつけの生パスタ屋さんでビーゴリを買って持って来た。ビーゴリはヴェネト州の郷土パスタであらゆる場所で食べられるが、ここヴェロナ周辺では非常に太い。何せ生パスタなのに茹で時間が24分もかかるのだ。茹で時間を言って手渡すと、叔父さんは目を剥いて「24分!?(近頃はガス代が高いのだから)バリッラで良かったのに」とジョークを言う。
そんな叔父さんを叔母さんは軽くあしらって、沸騰したお鍋にビーゴリを入れる。海のないこの村で手に入る数少ない魚がこのレンガのオイル漬けであった。叔母さんが思い出したように「Renga dice “mettimi in buon olio che nell’acqua ci sono stata tanto tempo”」という。訳すると、レンガは言う「私を美味しいオイルの中に浸けてちょうだい!なにせ私は長いこと水の中にいたのだから!」。ヴェロナ地域の人々が行くガルダ湖の周辺の名産オリーブオイルのCMだとか。私は手を叩き、3人は懐かしさに頬を緩ませる。
食事が始まる。ビーゴリは24分かけて茹でてもまだしっかりとアルデンテで、オイル漬けの魚の香りが全体に回って美味であった。セコンドに地元のサラミを熱々のポレンタに載せると脂が溶け、またこれが美味で、白に始まったワインもいつのまにか赤が進んでいる。温まってきた食卓に、叔父さんが訛りたっぷりの方言で「Aoi、イタリアで良い男を見つけなさい」と言い、地元の若い男の子の名前を上げ、叔母さんに紹介するよう言う。私がわかったわかったと答えていると、隣でセレナが叔父さんに、Aoiには明日ヴェロナに迎えにくる男の子がいるらしいと言う。すると叔父さんはテーブルをひっくり返すかのように「イタリアの男はダメだ」と言いはじめ、話題が変わってもことあるごとに繰り返して「イタリアの男はダメだ」と言い、笑いを誘っていた。
食事が終わり、叔母さんがコーヒーにグラッパを注ぐ頃になって、叔父さんが「ごめんね、気を悪くしてしまったかな。イタリアの男も良いと思うよ」と言う。私も「冗談と分かっているのだから何も気にしていない」と返事をすると、安心した顔をしたのも束の間、叔父さんは「ただし、ポー川の北なら。」と付け加えた。かくっとずっこけた。昔、イタリアの南北の嫌悪感情が今より激しかった頃、北イタリアの人々はポー川より南にはイタリアは存在しないと考えていた人も多かったとのこと。あまりにクラッシックな北イタリア人の回答に、私は狐につままれたような気分になり、会話の8割を強い方言で話す叔父さんの、貫き通された田舎っぺに笑いが止まらなかった。
オーブンから甘い香りが漂いはじめた。この地方の郷土菓子のリンゴのタルト「Bigolotto coi pomi」が焼かれている。ルイザ叔母さんは、3歳の時に母を亡くし、姉をはじめ親戚みんなの手で育てられたが、14歳の時に地元の有力家の養子になった。この養父母は彼女を我が子のように大切に育てる。年頃になると、地元の貴族の息子との結婚話が持ち出された。しかし、彼女はお金持ちだが背が低くて不細工なこの相手を好きになれず、一方で、毎日家の下を通っていたバスの運転手に恋をする。5年間、バスが通る時間になると家の2階の窓から下を覗いていた。そんなある日、友人を介して二人は知り合う。その後、結婚相手を巡り養父母と対立。泣いているルイザを見た姉とその新婚の夫は、自分の家に彼女を住まわせ、姉と姉の夫と暮らす。
20歳になった日、ルイザはついに養父母と縁を切り、バスの運転手セルジョと結婚した。貯蓄もなく、暮らし向きは厳しくも、ヴェネト地方の言い伝え「non c’è di cibo, vivono d’amore(食べ物はない。愛で生きている)」という言葉の通りの日々を送った。子供が生まれ、育ち、学校に通うようになった。そんな夫と子供たちのために毎週彼女が作っていたのがこのタルト。目分量でレシピなんてないけれど、リキュールを効かせて焼くのが、この村のこの家族の秘伝である。
「1番近いイタリア」とは
日本の食材でイタリア家庭料理を楽しむ通信。
遠い地の高級食材を使うのではない。
地元の恵みをたっぷりと頂く。
美味しい部分だけ食べるのではない。
皮も茎も全部美味しく食べる知恵がある。
お金をかけるのではない。
手間をかけ、愛情を込める。
そんな自然体なマンマの料理の美味しいこと、美味しいこと。
何を食べてもしっかりとした味があって、温かくて、これを’豊かさ’というのだと、ハッとしました。
そんな愛するイタリアの、各地のマンマに教わった知恵と文化を、日本の皆様に日本の食材でお送りします。
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