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「修論本」出版の道すじ①「完全無名」でもなんとかなる。約1年のスケジュール全体像


夢にも思わなかった「修論本」

私は日本で数少ない「修論本」の出版経験者の1人です。金春喜(きんちゅに)といいます。2020年2月に修士論文を書籍化したとき、25歳でした。

22歳で京都大学大学院の修士課程に進学したときの私の夢は、「いつか『博論本』を出すこと」でした。一般的に、大学院で書いた博士論文を「博論本」として出版することは、文系の研究者にとって1つの登竜門です。「博論本」を出版した実績は、大学教員として就職するための重要なアピール材料になるからです。

ですが、私にとってはそれ以上に「本」「出版」そのものが夢でした。小学生の頃、昼休みに校庭で鬼ごっこをするよりも、教員に勧められた文庫本を教室で読むのが好きで、当時の将来の夢は「作家」。自分の文章が活字になり、誰かの本棚に収まることが、私の憧れでした。

大学院で「社会学」という分野の研究をしたかったという気持ちも、もちろん本当です。ただ、その先にある「博論本」の出版は、研究そのものと同じくらい、大学院進学の大きな目的でした。

なのに、私は博士課程に進みませんでした。修士2年の夏に、「修士論文を書き終えたら民間企業に就職する」と決めてしまいました。博士課程で博論を書き、念願の「博論本」を出すという夢は、あっさり途絶えました。

大学院を出たら、新聞記者になる。そんな先行きが見えていました。ですが、このあと「書く仕事」に就くとわかっていても、「私が自力で本を出すなんて、もう無理なんだろうな」と、うすうす感じていました。

この時点では、修論をもとにした「修論本」を出すという発想は、まったくもって持てていなかったのです。

修士課程を終えて博士課程に進まず、大学院を出た人が「修論本」を出す例はきわめてまれです。就職活動や就職先での仕事の評価には必ずしもつながらないですし、前例が少なすぎるので、「『修論本』を出版してみたい」という考え自体を持てないのが実情です。

ちなみに、私が学んだ「社会学」の分野からは、過去にこんな「修論本」が出ています。

『希望難民ご一行様:ピースボートと「承認の共同体」幻想』古市憲寿(2010年、東京大学大学院で書いた修論が下地)

『AV女優の社会学:なぜ彼女たちは饒舌に自らを語るのか』鈴木涼美(2013年、東京大学大学院で書いた修論が下地)

『キャバ嬢の社会学』北條かや(2014年、京都大学大学院で書いた修論が下地)

「ピースボート」「AV女優」「キャバ嬢」ーー。キーワードだけでも中身が気になってしまうような本ばかり。これくらい「目を引くテーマ」でないと、「修論本」は出せないんだろう。私は当然のように、そう思い込んでいました。きっと、かつての私と同じように思っている院生も少なくないと思います。

ですが、なんやかんやあり、私も「修論本」を出せることになったのです。

私の「修論本」のタイトルには、「ピースボート」「AV女優」「キャバ嬢」のようなインパクトはありません。

『「発達障害」とされる外国人の子どもたち:フィリピンから来日したきょうだいをめぐる、10人の大人たちの語り』。これが、私が2020年2月に出版することになった「修論本」のタイトルです。


いままでの「修論本」に比べると、圧倒的におもしろみのない、ひねりもないタイトル。それでも、ちゃんと「修論本」になりました。

出版した「修論本」の発行部数は3000部。研究書の「多いもの」で1000部程度が相場と聞くので、学位論文をもとにした本としては、相当多く刷ったことになります。

これだけ多く発行できたのは、研究者だけでなく、多くの人に読んでもらえるように「一般書」として出版する計画だったためです。「一般書」にするために、修論の堅苦しい文体を大胆に書き換えました。

一般的に、「博論本」は研究助成を申請して出版助成金をもらうことで出版を実現することが多いため、印税が発生しないことがほとんどです。ですが、私の「修論本」では印税もしっかりもらうことができました。

もしかしたら、「選ばれた成功者」の話のように思えてしまうかもしれません。ですが、私は「修論本」を出版するまで、他の本を出版をしたことも、テレビや雑誌に出たことも、学会で注目されるスター性も微塵もないような、完全なる無名状態でした。

もし、いまこの記事を読んでいるあなたが、私の「修論本」くらい「地味」な題目の修論を書いているとしても、そしてあなたが現時点でいまいち注目されていない院生だとしても、「修論本」の出版を「夢のまた夢」とあきらめる必要はありません。

この連載では、私がどのようにして「修論本」を出版したのかを振り返っていきます。「修論本」になんとなく憧れのある人、「自分の本を出してみたい」という野望のある人にとって、少しでも参考になればうれしいです。


2019年1月~2020年2月までの
スケジュール

まずはざっくりと、私の「修論本」が完成して書店に並ぶまでのスケジュールをおさらいしてみます。

2019年1月

7日、修士論文を提出する。

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提出した修論は13万字を超えました。


11日、指導教官に「修論を出版したいので、助言をください」と相談する。

21日、指導教官が出版社の編集者にメールで連絡をとってくれる。編集者が私の研究テーマに興味を持ってくれたというので、指導教官を通じて編集者に修論をメールで送る。この日のうちに、編集者と25日に面談する約束がとれる。

23日、修論を読んだ編集者から、指導教官宛てのメールで「まだ書籍化は確約できませんが、『研究書』よりも『一般書』として出版する方向で相談したいです」とコメントが返ってくる。

25日、編集者と面談。一般書として出版する計画で合意し、編集者が出版社で会議にかけてくれると約束してくれた。私の任務は①修論の調査に協力してくれたインタビュー対象者たちに出版の許諾を得ること、②就職先の新聞社に個人的な出版が問題ないかどうか確認すること、③3月末までに、修論の本文を一般書向けに「論文口調」ではない文章に書き換えること。


2月

1日、修論の口頭試問。

3日までに、①と②の許諾や確認がとれる。問題なく出版の計画を進められることになる。

このほか、チュニジアへの卒業旅行を楽しむ。塾講師のアルバイトに明け暮れる。

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チュニジアにはネコがたくさんいました。


3月

四国、韓国への卒業旅行に打ち込む。

他人事とは思えない徳島のご当地カップヌードル。
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私は在日韓国人ですが、韓国に行くのは4回目です。


25日、卒業式。卒業旅行をしすぎたこともあり、③の「本文の修正」が思った以上に難航し、3月末までの脱稿が絶望的になる。

卒業式のあと、大学に住み着いているネコの
「へそ天」を拝みました。


4月

新聞社に入社。午前10時から午後6時くらいまで新人研修があるので、午前8時には会社近くのカフェに行き、研修の直前まで原稿の修正作業を進める。帰宅後も2~3時間は原稿と向き合うようにした。


5月

新人研修中だったものの、やや忙しくなり、原稿の修正作業に手をつける時間が4月よりも格段に少なくなる。出版社に私や「修論本」のことが忘れられていないかと心配になる。

研修中といえど、和歌山まで出張しました。
パンダは見に行けませんでした。


6月

5月に引き続き、原稿の修正がなかなか進まない。

26日、編集者から「早く出版できるように、近日中に打ち合わせをしませんか」とメールがくる。忘れられていなかったことにほっとする。就職に気遣って連絡を控えていてくれたとのこと。


7月

1日、この日までに修正した原稿を編集者にメールで送る。原稿の前半しか修正できておらず、後半はほぼ手つかず。編集者と打ち合わせの日程を調整するが、なかなか予定が合わない。


8月

編集者と打ち合わせの日程の調整をしつつ、少しずつ原稿の修正を進める。


9月

26日、編集者と打ち合わせ。1月に会った編集者とは別の「担当編集者」を紹介してもらう。「登場人物はAさん、Bさんではなく、仮名をつける」「前半の章を後半に移動する」「図表を増やす」など、具体的な助言をもらう。引き続き仕事の傍らで原稿を修正し、10月末までに担当編集者にメールで送る約束をする。

10月


これ以降はスイッチが入り、仕事以外の時間をなるべく「修論本」の編集のために使うように心掛けた。

20日、担当編集者に修正中の原稿を送付する。進捗の報告をかねつつ、助言を求めた。

29日、担当編集者からコメントが届く。コメントを踏まえて原稿の修正を進める。

30日、修正した原稿を担当編集者にメールで送る。原稿、図表、引用文献を3つのファイルに分けて送った。直後の3連休を挟んで原稿を再チェックし、改めて完成形の原稿を送付することを約束した。


11月

5日、完成形の原稿を担当編集者にメールで送る。

13日、担当編集者からメールで「『一般の人にも読みやすくなった』と編集部長からもOKが出ました。この原稿をもとにゲラを作成します」と連絡がくる。


12月

20日、担当編集者から「12月中に『初校』のゲラ(実物の本のデザインにした原稿)を送ります」とメールがくる。「紙媒体のゲラが出版社から送られてきたら、年末年始にチェックし、1月上中旬に返送してください」と手順を伝えられる。

27日、初校のゲラが宅配便で自宅に届く。担当編集者はゲラに青色のペンでコメントを入れていたので、私は赤ペンを使って返事を書いたり、自分で見つけたミスなどに目印をつける作業を進めた。ゲラは担当編集者からのメールで電子データ(PDF)でも提供された。


2020年1月

6日、初校のゲラを出版社に返送する。

10日、出版社から「二校」のゲラが届く。初校のゲラで指摘したりコメントをつけたりした部分が修正されている。各章の見出しのフォントなども整い、本らしくなってくる。返送の締め切りは20日。担当編集者からのメールで、仮タイトル『「発達障害」とされる外国人の子どもたち:日本に暮らす外国人児童の困難』が提案される。他にも7案、リストが送られてくる。私からは異論はなかったので、出版社に検討を任せた。

17日、担当編集者からメールで「『「発達障害」とされる外国人の子どもたち』がメインタイトルに決まりました」と連絡がくる。サブタイトルは3つの案が提案されたが、まだ検討中とのことだった。

19日、二校のゲラを出版社に返送する。本文に追加したい文章などをまとめたワードファイルを担当編集者にメールで送る。出版社内で検討中とされていたサブタイトルとして「フィリピンから来日したきょうだいをめぐる、10人の大人たちの語り」を提案する。

23日、担当編集者からメールで「サブタイトルが(私が19日に提案した)『フィリピンから来日したきょうだいをめぐる、10人の大人たちの語り』に決まりました」と連絡がくる。

24日、「三校」のゲラが自宅に届く。今回で校正作業は最後になる。返送の締め切りは1月31日。

30日、チェックを終えた三校のゲラを出版社に郵送する。

31日、担当編集者から本のカバーと帯のデザインの見本がメールで届く。帯に載せるキャッチコピーとして、デザインに記載されているもの以外に2つの案を提案されたが、最終的にデザインの通り(「外国から来たその子、本当に『発達障害』ですか?」)になった。私からは、表紙のイラストの微修正をお願いしたかったので、メールでその意見を伝えた。


2月

5日、私からの注文を反映した表紙のデザインが、担当編集者からメールで送られてくる。献本する宛先などの心当たりを聞かれたので、知り合いの研究者など数名の名前と所属を伝えた。

7日、担当編集者から書誌情報を載せたAmazonの商品ページのURLがメールで送られてくる。本当に売り出されるというリアリティに胸がどきどきする。

10日、朝日新聞社が運営している「じんぶん堂」という書評を掲載するWebメディアに本を紹介する記事を載せると報告を受ける。出版社が運営する「Webあかし」には、「試し読み」として「修論本」の「まえがき」を掲載すると報告を受ける。

12日、「Webあかし」に「修論本」の「試し読み」が掲載される。(その記事はこちら↓)

「試し読み」はとても好評で、2022年3月までにFacebookの「いいね」を約700件もらった。

18日、本のサンプルが10冊、自宅に届く。表紙の質感や本の重さをはじめて体感し、うれしさで夜もなかなか寝付けない。契約書も同封されており、印税などの取り決めが細かく書かれた書類にサインと捺印をして、後日返送した。

22日、25歳になる。

27日、担当編集者からメールで「3月中に『じんぶん堂』で本を紹介する予定」と連絡がくる。(その記事はこちら↓)

同時に、朝日新聞、毎日新聞、読売新聞、日本経済新聞、北海道新聞、中日新聞、東京新聞、西日本新聞の1面の広告(さんやつ)に「修論本」の広告が載ると報告を受ける。2月29日~3月4日の期間、全国紙は日付が重複しないように掲載された。

28日、発売日を迎える。

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書店で私の「修論本」を見つけ、いたく感動しました。


次回から、じっくりと振り返ります

次回以降は、こんなテーマで書いていく予定です。(変更になる可能性もあります。)


②「まだ1冊もない本」を書く。スタートラインは編集者との出会い

「作家になりたい」という小学生の頃の夢だけでは、きっと挫折していた「修論本」。私が「どうしても修論を出版したい」と思った理由に踏み込みます。

「修論本」を出版するための「スタートライン」でもある、出版社の編集者に修論を読んでもらうまでの経緯についても振り返ります。私は指導教官に編集者を紹介してもらう「おんぶにだっこ」式でしたが、それ以外の方法も提案します。


③「読みやすい本」の書き方って? 「論文口調」どう直す?

「修論本」を「一般書」として出版することになったはいいものの、どうしても「本研究は~~である」という「研究者らしい」文体から抜け出せません。大手の新聞社の記者として働き始め、限られた時間で原稿を書き直すという作業に終わりが見えず、焦る毎日。

そんな日々に「突破口」が見えたのは、逆説的にも、私が大学院を抜け出て「一般人」としての感覚を身に着け始めたからでした。「修論」がどのように「修論本」に生まれ変わったか、原稿そのものを見比べてみます。


④働きながら本を書くには? とにかく「孤独」は間違いない

原稿の修正に明け暮れた10か月間のうち、8か月は新米の新聞記者として働きながらでした。フルタイムで勤務しながら、どうやって時間を捻出し、原稿の完成までこぎつけたかを振り返ります。

会社員として「修論本」の出版を目指す上では、いろいろな意味での「孤独」がつきまといます。膨大な作業のすべては、他でもない自分が、たった1人で行わなければいけません。けれど、「孤独」は、それだけではなかったのです。


⑤ついに書店に並ぶ日。風が吹いたら、飛べるところまで飛ぶ!

ゲラが出来上がり、どんどん「本」の形に近づいていきます。そんな出版前後には、不安が絶えませんでした。いつ、どこから叩かれるかと思うと、おそろしくて眠れません。

そんな日々の終わりが見えたのは、予想以上に前向きな反響が大きかったからでした。日本での出版経験を踏まえ、今後の発信のプランについても明かします。


※「修論本」出版後の展開を先回りする「番外編」も同時進行で書いていきます。


ご連絡はお気軽に→ chunfi222@gmail.com

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