欲深さを浴槽で知る
どこまでも欲深い人間だなあ、と思う。
欲深いというか、欲多いというか。深い大きな欲ではなくて、ほんのちょっとした不満、願望。
東京で住む2つめの街に引っ越して初めて、実家のお風呂にはデジタル時計があったことを思い出した。
前に住んでいた家はギリギリ20世紀に建てられたもので、リフォームはされていたものの水回りは少しだけ古さが残っていた。
ユニットバスではないし湯船もきちんと浸かれるのでそこまで不便は感じなかったのだけれど、自動で給湯できないので、蛇口をひねってたまにご様子伺いに行くのが日課だった。13分くらいでちょうどいい湯量になるので、同じく日課だった、夜に見る朝ドラの録画15分がお湯張りのタイムキーパーに適していたのだけれど、朝ドラというものは本当に上手くできており12~14分の間くらいで泣かせにかかってくるので、結局中断できずにほんのちょっとお湯を入れすぎることもしばしば。水が無駄になってしまうのは良くないけれど、チラチラ見に行く無駄な時間に対して不満を抱くことは特になかった。
けれど、今の家はどうだ。
自動給湯だけではなく追い焚きも浴室乾燥機能も備わっている。
「なくても困らないけどあったら嬉しいもの」なポジションだったそれらは、引っ越しをして数週間で「なくてはならないもの」へと格上げされた。
使ってみると、もうこの便利を手放すことが出来ない。勝手にお湯が沸いているのはなんて楽なのだ。お湯が沸いた瞬間に入らなくても保温を保ってくれるなんて、気分屋の私にはありがたいことこの上ない。
そして、天候に左右されることなく洗濯ができる喜び。なんだか自然の摂理に打ち勝った気分にさえなってしまいそうなものである。
そうして新たな日常を手に入れ気持ちよく湯船に入っていたある日、不意に「いま何時だろう」と気になった。反射的に、壁についているデジタル画面を見る。なぜなら22年間住んだ実家にはその画面に常に時刻が表示されていたからだ。だが反射的に目を向けた後で思い出す。そうだ、この家には時刻表示が無かった。お風呂に時計が無いのは不便だなと、口に出すまでもないけれど不満がにじんだ。
いやいや、と思い直した。何がお風呂に時計が無いのは不便だ、と。心の中でもう1人の自分が茶々を入れてきた。
お前はついこの間まで2年間、時計どころかデジタル画面そのものが無い家に住んでただろうが。一度お湯を張れば冷めていく一方の蓋もない湯船で、何不自由ない顔をして満足げにお風呂に入っていただろうが。それがなんだ、少しでも「欲しいな」と思ったことのある水回り昨日はほぼほぼ手に入れたのに、たった3週間でそれに慣れきって次は時計が欲しいだと。どこまでも現状不満足な女め。今ある有難さにもう少し立ち止まって感謝しろ。
と、どこからともなく、というか私の内側が小言を吐いた。
そもそもなんで前の家では時間が気にならなかったっけ、と考えたときに、冷めていく一方の湯船で本とか読んでたら、最後は寒くて出るという流れになっていたからだ。まさに身をもって時の流れを感じていたので、全く予想もつかないほどの「いま何時だっけ」にお風呂で出くわすことが無かったのかもしれない。
そんな理由はどうでもいいのだけれど、確かに私はどこまで行っても現状で満足できていない。これまでの学生生活も、仕事も、対人関係も。進む方向が分からないときはよくあるけれど完全にその場に留まっていることはあまりない。
そんな人生に関わる大きなことを、こんなちっぽけな日常の不満で思い知らされる。
どこまで行っても、何をしていても、欲深いものだなあ、と思う。
そして今、風呂場にはアナログだけど時計を置いている。
一度気がついてしまえば、結局今ある有難さだけで生きることは、私には難しいみたいだ。