誰も見たことのない、二人だけが辿り着ける「高み」を提示ー上野千鶴子・鈴木涼美「往復書簡 限界から始まる」
本作において、上野千鶴子に「ぶつけられる」ことになった鈴木涼美は、今日最も取り扱いの難しい作家の一人である。
エーリッヒ・フロム『愛するということ』の翻訳者であり、法政大学名誉教授であった父と児童文学者である母に「愛されて育」ち(本書324頁)、知性と経済力を手にした、大胆な書き手である鈴木涼美は、修士論文を基にした『「AV女優」の社会学 なぜ彼女たちは饒舌に自らを語るのか』でのデビュー以降、『身体を売ったらサヨウナラ 夜のオネエサンの愛と幸福論』・『愛と子宮に花束を ~夜のオネエサンの母娘論~』・『すべてを手に入れたってしあわせなわけじゃない』・『ニッポンのおじさん』と順調に著作を重ねてきた。週刊誌に元AV女優であった過去をアウティングされながらも、それすら逆手に取り、自ら消費者の期待に応えるような性的な記号を纏った外見と男性の罪悪感を軽減するに余りある「主体性」を感じさせるキレのある物言いで、着実に読者と獲得している。
一方で、彼女が何かを書く度、発言をする度、いや、そこに「存在する」だけで、特に女性間にじっとりとした怨嗟と分断が生まれてきた。それは当然である。その怨嗟と分断は、なにも鈴木氏の挑発的な文体だけによるものではなく、まさに男女の不均衡の構造の反映だ。わずかながらにとはいえ女性の社会進出が促進されつつある現代社会においては、一部の女性にとって鈴木氏のような「エロス」と「知性」の両方を兼ね備えた、「すべてを手に入れた」女性はロールモデルであり、憧れの存在でもありうる。しかし、上述したように男性からは女性が「主体性」をもって自ら進んで「エロい」スティグマを背負う女性は、自らの加害性への罪悪感を軽減すると同時に「よりおいかけがいのある獲物」(本書28頁)として、男女の不均衡を温存する存在がいてくれることは好都合なのだ。ゆえに、そのように男性たちが鼻を膨らませて彼女を評価することを快く思わない女性もいる。男性たちが揶揄するような単純な「嫉妬」によるものだけではなく、そのような女性が祭り上げられ、男女の不均衡が保存されることに利用される危機感があるからだろう。彼女たちは、男性たちが「ほら、あんなに優秀でエロスも備えた美しい女性がいるのに、君らときたら…笑」と蔑むことを苦々しく思い、その恨みは鈴木氏のような「完璧な」女性にも向かう。女性であるというだけで本来美点となるべき特性が、他の弱者を踏みつける分断のために利用されてしまう。このように彼女を取り巻く状況は、彼女のコントロールの範疇を超え、混迷している。
本書は、その点について、鈴木氏本人によってじっくり語られている点が興味深い。自身の発言や存在がフェミニストへの攻撃材料として利用されてしまったことへのやるせなさや後悔、自身が「自ら進んで」負ったスティグマへの評価、それでもなお「女」の書き手として自らを人前に晒す仕事への葛藤…このような彼女の語りを引き出したのは、もちろん上野千鶴子という聞き手があってのことだ。一面から見れば、鈴木氏の在り方は男性中心社会の中で「得をしている」といえる。しかし、この「エロス資本」が実は「資本」ではなく、「負債」であることを看破できる人間はどれほどいるだろうか。鈴木氏の「したたか」ともとれる「主体的」な振る舞いに「ウィークネス・フォビア(弱者嫌悪)」を読み取ることができる人間は?このような指摘は、一見、上野氏から鈴木氏への厳しい批判ともいえるかもしれない。しかし、そのような指摘を経てはじめて、鈴木氏は自身が置かれている立場の複雑さや男性と女性との板挟みの状況について語ることができる。「エロい」こと、「知性」があること、「主体的」であることが、男性中心社会において別の誰かを踏みつけるために利用されている、しかし決して男性よりも優位に立つことは許されていないという葛藤や痛みを吐露することができるのは、男性による女性の支配が単純な二項対立には落とし込めない、複雑かつ狡猾な構造を持っていることを鋭く批評し続けてきた上野氏だからこそだ。鈴木氏個人を「戦犯」にすることなく、あくまで男尊女卑の構造の中で必死に生き残ってきた仲間の一人として捉える上野氏のまなざしは、鈴木氏の語りをどれほど自由にしただろうか。
二人の往復書簡は誰も見たことのない、二人だけが辿り着くことのできる「高み」を提示する。弱者と弱者を争わせる狡猾な構造によって男性に分断され続けた女性たちが、知性と言語能力によってその仕組みを見抜き、今一度紐帯を結び直す可能性を提示する。キレイだから、エロいから、賢いからといって救われない女性たちに寄り添い、狡猾ではあるが典型的な男性中心社会のトラップの攻略法を教えてくれる。本書の終盤での上野氏から鈴木氏への言葉に思わず涙しそうになった読者は少なくないのではないだろうか。わたしたちが立場を越え、分断を越え共闘することはあまりに難しい。それでもなお、馴れ合いではない連帯への希望を二人の知性と誠実さに見出したいと思う。(文筆家・複数愛者)
出典:図書新聞2021年10月23日号より転載