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知性は力だー小林エリコ『わたしがフェミニズムを知らなかった頃』(晶文社)

本書はある種、奇妙な構造を持っている。筆者はこれまでにも『この地獄を生きるのだ うつ病、生活保護。死ねなかった私が「再生」するまで。』(イースト・プレス)『家族、捨ててもいいですか? 一緒に生きていく人は自分で決める』(大和書房)『わたしはなにも悪くない』(晶文社)等、自身の虐待被害・自殺未遂・精神障害・生活保護受給といった過酷な体験について書き続けてきた。しかし、その中でも本書はそのような「重い」経験がスルスルと読めてしまう。このような不思議な読書体験を可能にしているのは、本書が「私がフェミニズムを知らなかった頃」の経験を「フェミニズムを知った後の私」が振り返るという第三者的な視点が強く押し出されているからだろう。

筆者は、上記の書籍に綴られたような過酷な経験を経て、精神病院を退院し、上野千鶴子の著作『女ぎらい』と出会い、衝撃を受ける。「私がフェミニズムを知らなかった頃」の体験は「フェミニズムを知る前」に経験したものである。例えば、本書では、DVを繰り返す父や兄とそれに耐える母という家庭から感じた「フェミニズムを知らなかった」当時から抱いてきた失望感や閉塞感と「母は家族のケアをするのが当然で、家族に快適な環境を提供し続けるのが母の役割だと思っていた。…なぜ男ばかりが家事から解放されているのだろうか。」(34ページ)という「フェミニズムを知った後」の問いが並列して書かれている。教師や電車内での痴漢被害・二次被害の不条理さも「痴漢や露出行為が男性から女性へのものばかりだと考えると、男性はきちんと頭で考えているのだろう。力の強いものは弱いものをいたぶる。」(45ページ)というフェミニズム的分析があらかじめ併記されている。

なかでも特筆すべきは、筆者がデイケア施設に通っていた頃から8年も交際していたという「よっちゃん」とのエピソードだ。筆者が衝撃を受けたという上野千鶴子の『女ぎらい』では金と権力で女性を所有しようとする男性が登場し、その構造を鋭い切れ味で分析されている。しかし、本書では筆者の家に通うのに使う有料道路の30円すら請求してくる程お金のないよっちゃんは、金と権力なしに女性を所有しようと画策する。スカトロや児童ポルノのAVをわざわざ筆者に見せたり、筆者の家に入り浸って夕飯やインターネット回線にタダ乗りしたり、少し出かけただけの筆者に嫉妬に狂って大量のメールを送ったり、かと思えば他の女性とセックスしたい等と筆者の前で平気でうそぶいたり、開いた口が塞がらないような言動に枚挙の暇がないよっちゃんであるが、その姿にどこか滑稽さを感じさせるのは、「フェミニズムを知った後」の筆者が両者の関係性を構造的に分析し、問題の所在を明確に把握し、俯瞰的な視点を持って描いているからだろう。

本書から浮かび上がるのは、知性は力だ、ということだ。筆者の経験は、多くの人にとって直接受け取るにはあまりに重く、つらい。目をそむけたくなるような酷い現実である。しかし、筆者が「フェミニズムを知った後」に「フェミニズムを知らなかった頃」の体験を“知性化”することによって、ある種の「軽さ」を持って受け止められるような「スルスル読める」エッセイに昇華させている。これは世界の理不尽さを体現しているともいえるかもしれない。弱者の個人的な経験やそこから生じる痛みは、生のままでは耳を貸してもらうことすら難しい。とはいえ、フェミニズムはそのような抑圧された人々に理不尽な世界で戦うための武器を与えてきた。個人的なことは政治的なことであること。攻撃され、傷つけられカオスとなった心と感情に名づけをし、言葉を与えること。そして、それを共有し、連帯を生み出し、共感を広めること。

そのようなフェミニズムの活動が一つ実を結び、圧倒的弱者であった一人の女性に生きる力を与えた結果が本書であるといえるだろう。もちろん筆者のような体験をして這い上がることは並大抵のことではない。誰も彼もに両手を挙げてオススメできるロールモデルとは言い難い。しかし、そのような女性が「いる」世界と「いない」世界では雲泥の差である。本書を読んで目を覚まされる読者も多いことだろう。筆者が上野千鶴子の『女ぎらい』を読んで、覚醒してきたように。是非、バトンがつながれる瞬間を目撃してほしい。(文筆家・複数愛者)


※図書新聞2021年7月24日号より転載



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