見出し画像

振り回されてきた現象に名づけることで、自己を取り戻していくーぼくらの非モテ研究会『モテないけど生きてます』ー

強烈なタイトルの書籍に出会った。『モテないけど生きてます』このタイトルからは「モテない、すなわち(社会的)死であるところ、なぜか生き延びてしまっています…」という極端な価値観を伺わせる。しかし、極端とはいえ、この感覚には男女問わず多くの人に身に覚えがあるのではないだろうか。夜道で一人帰路につくとき、シャワーを浴びているとき、コンビニ飯を貪りながら、「モテないけど、生きてるなぁ…」と。

近年、女性の社会参画や経済的自立の広がりの一方、(男女の平均賃金の格差は未だに大きく、日本のジェンダーギャップ指数は世界120位であるのだが、)男性正社員の収入減少や非正規雇用の増加、生涯未婚率の増加など、男女を取り巻く状況は大きく変化してきた。そんななか、「男性」という特権的立場を「奪われた」と感じる男性、いわばマジョリティとしての男性像からは周縁化された男性たちの苦悩にスポットライトが当たる場面も増えてきたように思う。社会学の一分野である男性学はこうした社会的変化による男性たちの「生きづらさ」を研究対象にしてきた。また、インターネット上では2000年代以降、恋人がいない苦しみや性経験がないという悩みを揶揄する「非モテ」という言葉が頻繁に見かけられるようになっていく。


ー身に覚えがありすぎて他人事とは思えないー


この「非モテ」という言葉はもともと当事者たちが自虐として使い始めた。しかし、最近「非モテ」という言葉が憎悪と暴力を匂わせる不穏な言葉として認識され始めている。一部の男性たちが「非モテ」という言葉を介して、恋人がいない不遇に加え、自身の身体や性格上の欠点に基づく自己否定、権力性をもつ「マジョリティ男性」への妬みや僻み、そして女性に対する攻撃的な言説を発信するようになっていったからである。英語圏の国でも、類似する現象が「インセル」として認知されるに至った。

このような背景を踏まえ、性自認が女性であるわたしは、本書を一種の“お勉強”として手に取った。完全に“他人事”の現象として、“異文化研究”のつもりでいた。

しかし、そのような「我—彼」の二項対立的な思い込みは本書を読み進めるにつれてあっさり崩れ去る。

「ぼくらの非モテ研究会」の主催者である西井開さんは会の発足や運営にあたって、ウーマンリブ・メンズリブ団体、障害者コミュニティ「べてるの家」を参照しながら、「非モテ」男性の当事者研究を実践していく。本書はその苦労や葛藤と共に、実際に会に参加してきた「非モテ」男性当事者たちの「語り」を掲載していくことで、「非モテ」当事者研究の場を読者が体験できるような構成になっている。そこで紹介されている当事者たちのエピソードがとても他人事とは思えないのだ。

多くの語りで共通するのは、幼少期・思春期に“選ばれない側”の人間であるという思わされるような経験である。両親から否定的な言葉をかけ続けられた。仕事で忙しくかまってもらえなかった。同級生に容姿や吃音についてからかわれた…このような経験は、女性であるわたしにも大いに思い当たる節がある。人生の初期段階で出鼻をくじかれた人間は、成人し、身の回りの世話が自分でできるようになり、ある程度の経済力や社会的地位を得たとしても、どうしても自意識が「モテない」側に陥って抜け出せない。そして自分は所詮「モテない」のだ…という自意識は次第にとぐろを巻き、過剰な防衛としての攻撃や挙動不審に転化されていく。身に覚えがありすぎる。

しかし、非モテ研が秀逸さはこれら一つ一つに名づけを行っていくことにある。【コナン妄想】【挽回の筋トレ】【「進研ゼミ」の内面化】【セルブス・スネイプの研究】【A子ちゃんの迷宮】…言葉遊びのようでありながら、振り回されてきたわけのわからぬ現象に名づけることで、自己を取り戻していく過程は感動的だ。

わたしたちはどのような性自認かにかかわらず、人生のどこかで、自分ではどうしようもない不本意な体験をすることがある。それが一回きりの不幸な体験で終わればいいのだが、心に思わぬ傷が残り、じくじくと膿んでしまうことがある。しかし、それらの傷を一つ一つ取り出して外在化し、名前をつけて眺めてみれば、少しずつ付き合っていけるようになるのかもしれない。抽象論や過度な一般化に拘泥することなく、あくまで「俺たちの苦悩」を俺たちの手で主体的に取り戻し、回復していこうとする取り組みは、“彼ら”の取り組みというだけではなく、“わたしたち”の取り組みでもありうるだろう。


出典:図書新聞2021年05月29日3497号

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?