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「不当な差別」っていう言葉のなかにある「差別」

宝塚市で教育委員を務めていた男性が、難病を患いながらも地域の小学校に通っている女の子の姿をオープンスクールの場で見てその保護者に「養護学校の方が合っているんじゃないの」と差別発言をしたニュースをうけ、ツイッターで様々な意見をみたんだよね。

そんな中で何度か目にした「不当な差別」っていう言葉。

これっておかしいんじゃないかな?って思うのね。

だってね、そもそも差別は不当なものであるわけで…。
この「不当な差別」っていう言葉は暗に

「不当ではない差別→許される差別」

の存在を認めてるように思えて仕方がないんだよね。これが差別を肯定する事につながってるんじゃないかなって。

「迷惑をかける障害者は差別されてもいい」「みんなと同じように学べない障害のある子は差別されるのも致し方ない」みたいにね。


「人は生まれながらに平等」と言うけど、私は「人は生まれてきた時点でみんな不平等」だと思うんだよね。と同時に「生まれながらに平等に”一人の人”として扱われる権利」を持ってると思う。

その「生まれながらの不平等」と「平等に人として扱われる権利」を埋め「公平」になる為に配慮が必要になるんじゃないかな。

障害の有無、性別の違い、人種の違い・・・、みんな違うように生まれてくるけど、誰一人そういう生まれながらの違いで差別されたり、排除されたりするんじゃなく、どの人も平等に「一人の人」として扱われるべきであって、そういう違いを認め合って助け合うのが差別のない、公平な社会なんじゃないかな。

What’s fair is not that everyone gets
everything equally, 

but that everyone gets 
what everyone needs.

これは、アメリカのインクルーシブ教育の根っこにある理念。

フェアっていうのは、みんなが同じだけ同じものを手に入れる事(Equality:上の絵)じゃなく、
みんなそれぞれが必要としていること(Equity:下の絵)を手に入れられる事。

この考え方の基本には「人は生まれながらに平等」ではなく「人は生まれてきた時点でみんな不平等だけど、生まれながらに平等に”一人の人”として扱われる権利を持っている」っていう考えがあるんだと思うのね。

だからこそ、その人が必要としているニーズはそれぞれちがって当たり前だから、「教育の場でもその子のニーズに合わせた教育や支援を提供しましょう」につながるんだと思うのね。

だからね、今、少しできつつある日本でのインクルーシブ教育の流れが、ただ単に障害のある子をなんの支援もなく障害のない子と同じ教室に放り込んじゃったり、ただ単に同じ場所にいる事にこだわるんじゃなく、「その子のニーズに合わせた教育や支援をその子・親・支援チームみんなで考えて提供しましょう」が大切に検討されてた上で実現していってほしいなって思います。

「不当な差別」っていう言葉が暗に意味する「不当ではない差別→許される差別」の考えがもたらす「みんなと同じように学べない障害のある子は差別されるのも致し方ない」っていう今まで当たり前とされてきた風潮がそもそも間違っていたことに気づいてくれる人が増えてほしいな、そんな想いを込めて書いた今日のnoteです。

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チャビ母
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