アスペルガーの子の七夕の願い
何年か前の七夕の日のこと、アスペルガーの息子が「願いが一つ叶うとしても、僕はアスペルガーのままでいたいし、生まれ変わってもアスペルガーがいい」と言った事があるんだよね。
じゃぁ、七夕の短冊の願い事は何にする?ときくと、
「みんながアスペルガーの事をもっと理解してくれますように」と。
求めているのは「自分の障害を無くす」というより「周囲の人の理解」なんだよね…。
息子はよく言うんだよね。
「自分のアスペルガーの部分がなくなってほしいとは別に思わない。アスペルガーのせいで大変になる事もあるけれど、自分がアスペルガーだったおかげで ”え?こんな事俺にとっては当たり前の事だけど、それがスペシャルで凄い事なの?”っていった得なこともいっぱい経験できてる。だからただただ、アスペルガーのままでも普通に暮らせる社会になってほしい」って。
障害のある人の「障害」ってね、肉体的・精神的な障害(Impairment・Disability)そのものよりも、社会との関係性の中で生まれる「生きにくさ(Handicap)」が「障害」なんだと思うのね。
よく「”障害”じゃなく”障がい”又は”しょうがい”って書いてください!しょうがいのある人は害じゃないんだから!!!」ってお叱りのコメントをツイッターにいただくんだけど、
私は「障害」という生きて行く上でのバリアが、「人」にあるんじゃなく「環境」にあると考えているから、「障害」という表記をあえて使っているんだよね。環境が障害のある人が生きやすいようにさえあれば、障害はもはや障害では無くなると思うから。
だから「生きていく上で社会の障害(バリア)に困らされている人」という意味で、私は「障害のある人」だと思うのね。
例えばね、あなたの前に「壁」が立ちはだかって一人で登ろうとしても登れなかったらどうしますか? 多分、
◆壁を取り除こうとしたり(バリアフリー)
◆通れる穴を開けたり(環境的アプローチ/バリアフリー)
◆登りやすい機材を見つけ使い方を教えてもらったり(アシスティブテクノロジー)
◆違う道を探したり
◆土台になるものを探してきてそれを置いてみたり
◆誰かに登るのを手伝ってもらったり、
そういった工夫をしようとするよね。で、これらの工夫が無理ならきっと諦めるはず。
この例でいうと、壁が障害(バリア)。あなたに障害があるんじゃなくて、環境側に障害があるでしょ。で、◆の項目は周囲の人や環境調整でできる「支援」と支援教育やセラピーなどで障害のある人が得たスキル。
障害のある人ってね、自分の持つ特性ゆえにこういった「壁」が日常的に立ちはだかっている状態なんだと思うのね。だから障害(壁:バリア)に直面した時に、支援が得られずやりたかったことを諦めることもしばしば…。
で、この「壁」っていうのは、
◇物理的な環境:段差など「ある事」による障害(バリア)
手すりなどの「ない事」による障害(バリア)
◇偏見・差別
◇無理解・無関心
だと思うんだよね。
だから障害のある人が必要としているのは、環境側の調整や支援、そして周囲の人の理解だと思うのね。
だからこそ、
「みんながアスペルガーの事をもっと理解してくれますように」
「アスペルガーのままでも普通に暮らせる社会になってほしい」
いつの日か息子が七夕の短冊に書いた願いが叶う日がきますように。