「見られたい自分」が透けて見えるから嫌悪感を抱く
嫌いになってしまった友人がいる。二人の関係性を決定づけるような喧嘩をしたわけではない。ふと友人の運営するSNSを見たとき「もしかして自分はこの人のことが嫌いなのでは?」と思ってしまったのだ。
嫌いだと思ったツイート一つ一つを引用することはできない。それら不快なツイートを総括すると、「見られたい自分」が透けて見えるとでも言おうか。
これは例え話だが、「これから勉強!」とカフェを背景にシャーペンとノートが写った写真がタイムラインに流れてきたとする。
けっ、どうせスマホばっか見てちょろっと勉強したふりして終わるだけだろ。そう思ったそこのアナタ!友達になりましょう。
「勉強をする自分」を見せたいこの投稿に私は嫌悪感を感じてしまう。見せたい気持ちがあるならば、「勉強してる自分って偉いでしょ?褒めて!褒めて!」ぐらい言ってもいいのではないか。それだったらかわいいし、いいねを押して、なんなら抱きしめてあげたっていい。
自分の喉元まで出かけている感情を隠しながら、あえて言わないことによって、喉元の感情を悟らせようとする。想像させようとする。こうしたタイプの投稿がほんっっっとに嫌いで気持ち悪い。あー思い出しただけでむずむずする。椅子に縛り付けて、爪を一枚ずつ剥がして、指を一本ずつ折って、喉元にある感情を引きずり出してやりたいくらいだ。
それにしても、どうして拷問してやりたいくらい嫌いなのだろうか。
こういうとき、自分でも驚くくらい醜くて、腐ったに感情が眠っていることを私は知っている。だから、なぜ嫌いなのかを自分に問い詰めてみることにした。
自分「なぜ嫌いなの?」
心「直接言わないから」
自分「なぜ直接言わないことが嫌いなの?」
心「なんかむかつくから。とにかくむかつく」
自分「なぜむかつくの?」
心「こっちが相手の感情を言わされているから」
自分「どうして言わされていると嫌なの?」
心「言った言葉が自分から湧き出たものではないから」
自分「君は自分から湧き出た言葉以外話さないの?」
心「話すこともあるけど」
自分「じゃあ、言わされたっていいじゃない?」
心「・・・いいのかな? だったらなぜむかつくんだろう。
自分「・・・」
心「もしかして、うらやましいから?」
自分「おめでとう」
心「えっ?どういうこと?」
自分「羨望や嫉妬。こうした感情が君の嫌悪感の正体だ。君も本当は感情を直接言わない投稿をしてみたいんじゃないの? 実際、本の感想を書いたりしてるじゃない。それは”本を読んで思考する自分”を相手に想像させようとしているんじゃないかな?」
心「ぐぬぬ」
自分「それを匿名ではなく、実名で投稿し、いいねを得ていることが君の嫌悪感にさらに拍車をかけいるんだと思うけど」
自分、恐るべし。ただ、「うらやましい」「自分もやりたい」というゲームを欲しがる小学二年生みたいな感情がこじれた結果、拷問をしたいという危険な思考にたどり着いてしまった。
と、このように「嫌い」をほじくり返してみると、大概は素直でない自分につながっているのです。「同族嫌悪」ってほんとよくできた言葉だなぁと思いました。
追記:現在、その友人と連絡を取っていません。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?