【読書】「国土学」が解き明かす日本の再興 ― 紛争死史観と災害死史観の視点から
タイトル:「国土学」が解き明かす日本の再興 ― 紛争死史観と災害死史観の視点から
著者:大石 久和
出版社 : 株式会社経営科学出版 (2022/3/31)
単行本 : 312ページ
元建設省(国土交通省)官僚の「国土学」
著者は、京大工学部大学院出身で元建設省(国土交通省)官僚だ。昭和にはこういう志ある官僚がいたんだなぁ。いや今もいるのだろう。それを財務省の財政均衡主義が手足を縛っている。財政均衡主義はとっくに破綻しているのだが、マスコミはまだ財務省のポチに甘んじている。
本書は「人々の思考がいかに住んでいる土地に影響を受けるか」を国民国家の視点で(そうでなければ『国土』という言葉は出てこないだろう)、そしてインフラの視点で論じている。元建設省(今は国土交通省)OBだからこその観点である。今後本記事を読む人々のために以下では著者の出身省庁の記載が必要な場合は国交省と略す。
国土という切り口で、ここまで新鮮な視点が得られるとは。これは新しい文明論である、といっても過言ではない。それは『紛争死史観』と『災害死史観』という新しい歴史観・死生観に基づいている。
だがその分、「再興」についてのインパクトは正直いって薄い。この部分は今後もっと著者の専門であるインフラ投資の部分も含めて、深掘りしていってよい分野なのかもしれない。
外国や外国人と日本人の考え方の違いを知りたい人、これから海外に行く人、今後、移民時代に突入すると何が起こるのか気になる人、その考察を深めるための土台作りをしたい人には、ぜひ読んで欲しい一冊だ。
以下本記事の目次を掲載する。本書の骨子は『紛争死史観と災害死史観』まで読んでいただければだいぶおわかりになるのでは。実際に手に取ってみる際のご参考までに。
紛争死史観と災害死史観
最初にこの言葉を聞いたのは、著者が出演したYouTube番組だった。言い得て妙で、著者の本を読んでみたいと思ってきた。紛争死史観とはヨーロッパをはじめとするユーラシア大陸(含むチャイナ)で培われた歴史観であり、災害死史観とは日本で培われた歴史観である。愛する人、身近な人をどのように亡くしてきたかによって、歴史観、国家観、行動や言語の傾向にまで違いをもたらす、という。
簡単に言えば、一度に多くの人々が亡くなったのは、どのような時か。自然による災害で大勢の人が亡くなったのか。それとも人為的な紛争で大勢の人が亡くなったのか。それによって災害死史観が培われるのか、紛争死史観の国民性となるのか変わってくる。
官僚らしく、具体的にデータを出して事実を積み重ねて論考している。我が国の災害については、災害が集中した時期にどれほどの人々が亡くなったか、ユーラシア大陸での殺戮の歴史については、マシュー・ホワイトの『殺戮の世界史』などでどれほどの人々が亡くなったのか調べたとのこと。ホワイトによれば日本の戦国時代は「儀礼的な戦いの時代」なのだそうだp48。例えば戦国時代最大の先頭である関ヶ原の合戦でどれほどの人々が亡くなったのか。ネットで検索すると旧帝国陸軍が調べた資料によると8000人であるという。一方、イギリスとフランスの百年戦争でどれほどの人々が亡くなったのか。先のホワイト氏の調べによると、350万人!p70。一年間に関ヶ原の合戦規模が4〜5回ありそれが百年間続くのである!
ユーラシア大陸周りで日本人だけが唯一「災害死史観」を持っていて特異であること。ほかのほとんどの国の人々は「紛争死史観」であり、そのことを自覚しなければ、相互理解はおぼつかないことなどが述べられている。この死生観、歴史観はどちらが優れているなどということではなく、お互いが違いを認識しなければ、無用な誤解を生み続けることになる。特に日本人はこの違いに自覚的である必要があるだろう。「ユーラシア大陸周りで日本人だけが唯一「災害死史観」を持っていて特異」なのだから。
国歌でわかる国家観と死生観
詳しい個別の議論については、本書を読んで欲しいのだが、国歌にこれほど違いがあるとは!すごく違いがわかるので、引用する。
本書からは離れるが、この歌は江戸時代には結婚式の歌だったことはご存知だろうか?おめでたい時に、今のおめでたさがいつまでも続くように歌われたのだ。源義経の想い人、静御前もこの歌で舞を舞ったという。初出は古今和歌集の読み人知らず「我が君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」。静御前の我が君はもちろん義経だっただろう。(念のため言っておくとさざれ石とは細石と書き、細かい石が集まってできた岩のことである。結構日本中、いろいろなところにあるようだ)。
「君」を天皇と解釈することもできるし、「日本国」と解釈することもできる。著者は「日本国が長く続きますように」という願いを込めた歌だと解釈している。「「さざれ石が巌となるまで」この国が永遠に存在し続けることを願う内容であり、「存続」こそが国家理念だからである」p54。この願いは災害によって家族や愛する人たちが亡くなっても、その死を受容し、(原則としては)残された人々が残された土地で生き続けることになった時の願いだ。災害死は怒りの持って行き場がない、誰かを憎むことも恨むことも、結局はできないのだ。受容するしかない。粉々になった石も大きな岩となって復活し再生して存続し続ける、君が代とはそういう解釈も可能な歌なのだ。
では紛争死史観の国の国歌はどのようなものだろう?紛争死史観の人々には、自分の愛する人々を殺した憎むべき相手が存在し恨むべき状況がある。
これはイギリスとの第二次独立戦争の時の歌だという。この歌にあるのは「国家とは勝ち取っていくものなのだという感覚」であり「続きゆく国がわが国だという日本流の感覚はほとんどない」p55。
これも戦いに勝利した歌だという。
これは出征部隊を鼓舞するための歌。「われわれ日本人の感覚では「これが国歌なの」なのだが、フランスでは「これが国歌なのだ」である」p57-p58。いや、日本人の感覚からすれば、まさに「有り得ない」だ。
フランス革命時の暴力。「「私は、これほどの残虐行為をしてまでも達成すべき価値があることなど、この世にただ一つもないと信じる」といっているが、これが日本人の感覚である。彼らはそうではない…からこそ、これほどの大量虐殺を行い、自由・平等・博愛を実現するためにはこれほどの殺戮はやむを得なかったと考えてるのである」p74。
著者はいう。
「正直なところ、これがわれわれの許容範囲だ。国歌というものはこのように、共通の価値観を歌い上げるものという感じなのだが、見てきたようにアメリカ、イギリスもそうではなくフランスは激しく異なっている。
紛争死史観がこれらの国では貫徹しているのだ、そして日本は確実にその外にいるのだ、と改めて感じ入るのである」p58。
では、東アジア近隣諸国はどうだろうか?本書にはないが、ネットで検索してみた。
wikiによれば、著作権とか転用とかあまり穏やかでない文字が並んでいるが、国の山河と愛国心を歌ったものであり、日本人にも理解できる。日本統治時代に作られたという経緯もあり、そうなっているのかもしれない。
だが「鉄甲をまとったごとく」とか「苦しくとも…国を愛せん」とか戦闘の匂いがする。また東京外語大訳では「日本海」となっているがハングル直訳では「東海」だ。国際慣習上すでに決まっている「日本海」の名称にわざわざ「東海」を被せ、歌詞の一番最初に持ってくる。黄海を西海として一番最初に持ってきてもいいはずなのに。ハングルを復活させた、恩ある国を貶めたいのか。ん?初めはうっすらと、そのうちはっきりと浮き上がってこないだろうか?そう、何を誰を「敵」と認識しているか、を。紛争死史観の国であり、何を誰を「敵」と認識している国であるかを私たちはよく自覚しておく必要があるように思うのだが…。
韓国のものとは歌詞もメロディも違うという。また第二国歌と言われている「金日成将軍の歌」を歌い、こちらはほとんどメロディのみが流れ歌えない国民もいるのだとか。またつい最近歌詞の一部を変更し、韓国から反感を買っているようだ。
これは確かに著者のいう紛争死史観の国歌だ。「我らが血肉で築こう新たな長城を」。どれだけ国民の血を流させるつもりだろう…。と日本人なら思ってしまう。
国土での体験が死生観と宗教を形作る
アニミズム→多神教→一神教へと進化する、という言説があるがp71、これは間違いである、と著者はいう。(著者だけでなく、一方向に進化するという説は広く否定されているようだ)。
災害で亡くなるときは、動物も人間も一緒だ。津波や土石流で流される時は、馬も牛も犬も人間も流されてしまう。「いや、人と馬は違う」と言っても「現に一緒に流されているじゃないか!」となる。ここから死を受容することや人間を極端に特別視しない死生観=災害死史観が生まれる。
逆に…紛争で一度にたくさんの人が亡くなる土地で暮らす人々は、まず、敵と味方を切り分ける。味方は同じ城壁内で暮らす人々だ。「選ばれた人々」であり、同じ神を信じ同じ神のいうことを絶対視する。もしそういった統率が取れなければ、そこから敵が入り込み皆殺しにあう。同じ城壁内で暮らす人々には市民意識が生まれ、公という概念が生まれる。一つの信仰、一つの理念のもとに集い、そこから外れたものには制裁を課す。それが紛争死史観だ。
チャイナの場合の信仰は何か。それは力への信仰である、と著者はいう。力があるものが何をしてもよい。なければ無惨に扱われても文句の一つも言えない。中国人の映画監督は「暴力は間違いなく、中国文化における一つの伝統です。中国人は暴力だけが問題を解決できると考えるようになったわけです」と述べているというp68。現在の中共、チャイナのジャイアニズムに繋がっていないだろうか?臓器の収奪、少数民族への虐待、宗教弾圧…。
本書では上記のことがもっとわかりやすく具体例を持って描かれている。ぜひ本書を読んでほしい。
命令語ともののあわれ
公と共
紛争死史観は一神教とともに、上記でも書いたように同じ都市で暮らす市民に共有される公という概念を発達させた。今一度、公とは何か著者の言葉を見てみよう。
そうして日本人には、そういう自覚はない、と著者はいう。では日本人を貫く論理はなんだろう?著者はそれは「共」であるという。
著者は「公」に対して「共」を当てているが、本記事ではよりわかりやすい「共にある」を「公」に対する理念として充てることにする。「共にある」ことは「通じ合う」ことを前提としている。そして「仲間との関係を極めて重要だと考え、その関係の中で自分の存在を規定していたということは、人称の多さでも証明される」p114。「通じ合う」ためのプロトコル、それが二人称なのである。(プロトコルはIT分野では通信規格、外交分野では儀礼、典礼と訳される)。日本語は並外れた多さの人称代名詞を持つ。
上記はまさに人称代名詞が日本人にとって『リアルタイムの通信規格』であることを表している。
下記はきっと様々な識者がことあるごとに述べてきたことだろう。それを改めて著者が述べてくれている。
このように説明されて、はじめてレヴィ=ストロースが述べた「日本人にはデカルトの『我思う故に我あり』は決して本当の意味で理解できないだろう」が理解できる。だって「誰かとの関係性の中で自分を規定する」「誰かとの関係性の中で自分が何者かがわかる」のだから。最初っから『自分』があって『公』とぶつかるまではどこまで行っても『自分』であり『自分の力』『自分の能力』『自分の考え』である人々。はじめっから『他者ありき』で「共にある」ことを是とする私たち。欧米人から見ると日本人は全員が共依存状態であるように見えると聞いたこともある。
これはどちらがよい、とか、悪いとかの話では、ない。私たちはだいぶ世界の他の地域の人々とは心のありようからしてどうやら大きく違うのだ、と自覚する必要がある、ということなのである。
命令語ともののあわれ
著者は一神教=紛争死史観の世界(チャイナ含む)は命令語の世界、災害死史観(=自然災害や死を含め、すべて(は神の一部であるとして)受け入れるしかない)の世界は、情緒語の世界であるという。
著者はここで「備えなどできるわけもなく」と書いているが、明治以降、だいぶ治水や道路工事、護岸工事などで「備え」への知見なども蓄積されてきたのに「プライマリーバランス黒字化」で予算を削られ過ぎているのが現状なのではないだろうか?
また、2024年1月2日の航空機事故の際に、「危機への備え」の日本流が世界的に評価されたのではないだろうか?数分間ののちに爆発炎上するJAL機の中で乗客も乗務員もパニックに陥ることなく全員が無事に脱出した。それは日頃からの訓練を積んだ乗員と、訓練を積んでいるであろう乗員を無条件に信頼した乗客と、パニックという「自分勝手な行動」が無意味であることを知り尽くしている乗客、そして乗客を落ち着かせる言葉や声掛け、声のトーンなどといったものが元々日本語に備わっていた…からではないだろうか?これが乗員が命令口調だったらどうだっただろう?炎上までの数分間、爆発という事態を『敵』とみなす人々が乗客の中にいたら?あの場で命の選別をする人はいなかった。災害時に敵も味方も、ない。「意地悪されたから助けない」とか「〇〇人だから助けない」とか。何か普段と全く別の原理が働いている。そして日本人であれば「避難訓練」などでよく知っている状況だ。
これは「だから日本人は優れている」と言いたいわけではない。このJAL機の状況は、地震後の津波や豪雨時の土砂災害の状況判断と似ていたのではないか?日頃、ありうる災害への「避難訓練」は行なっている。何か、そうしたものと重なっていたのではないか?紛争ではなく、災害に対処するように培われている何か、があるのではないか?ということが言いたいのだ。
日本語は避難の時にもぴったりの言葉であり、さらに平安時代以来「われわれは、相手に対する思いを微妙にかつ、曖昧に表現し、それとなく相手に伝える能力を磨くため、言葉を選び、それを駆使して和歌などをつくってきた」のであるp199。
1995年から始まった没落
本書では1995年を時代の変わり目として特別に取り上げ、出来事をひとつひとつ挙げて考察している。この頃30代を過ごしていた私にとって印象深いのは、阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件、それからWindows95の発売である。受け入れ難いほどの大惨事であった大震災と、「同じ日本人がどうして」と思わずにはいられなかったテロ事件。それまでパソコンは会社ごとにかなり個性を発揮していたものが、マイクロソフトという一社のOSに収斂されて行く。著者によれば1995年は名目GDPのピークであり、財政危機宣言が出され、この年以降インフラ投資がどんどん減少していったという。また小選挙区制が導入され死に票が増えていった。
日本再興のために
本記事の冒頭でも書いたが、私の受け取る力が足りないためか、文明論としての『紛争死史観』と『災害死史観』の考え方のインパクトに比べて、再興部分の印象は薄い。それでも印象に残ったことを挙げていくと…
財政再建至上主義からの脱却
コーポレート・ガバナンス(=企業統治)改革の失敗
時価会計を不況時に導入=>含み損の源泉へ
株主資本主義への偏重=>三方よしの経営へ
短期的な利益への過度な集中
非正規従業員の増大
個性偏重から集団での強みを活かす方向へ
過去を見直す
先の大戦での失敗の研究
GHQ史観ではなく日本人の独自視点で
インパール作戦、ガダルカナル、ミッドウエーなどp184
いずれも行き過ぎたグローバリズム、つまり国土を取り替えが効くものとする考え方からの転換と関係がある。ということはまさにこれからが国土学の出番といったところだろう。今後の研究の深まりに期待したい。
一番最後に著者は、江戸時代元禄年間にいかに幕府がインフラを整え、人々が飢える心配がなくなり、文化芸術が栄えたか、述べている。奇しくも昭和40年代は盛んに『昭和元禄』と言われていた。為政者が日本国全体のことを考え、インフラを整えることで人々が富み文化芸術も栄えていく。この国にはそういう法則らしきものが現に存在していることが見えてくる。(ま、それが資本主義、といったもののベースなのであるが、昨今為政者も国民もこう言う大原則を忘却しつつある…)こういったことをもっと深掘りしてく必要があるのでは、と感じた。
引用内、引用外に関わらず、太字、並字の区別は、本稿作者がつけました。
文中数字については、引用内、引用外に関わらず、漢数字、ローマ数字は、その時々で読みやすいと判断した方を本稿作者の判断で使用しています。
おまけ:さらに見識を広げたり知識を深めたい方のために
ちょっと検索して気持ちに引っかかったものを載せてみます。
私もまだ読んでいない本もありますが、もしお役に立つようであればご参考までに。
著者 大石 久和の本
大石久和のYouTube
さざれ石
レヴィ=ストロース 月の裏側
マシュー・ホワイト 殺戮の世界史
株主資本主義からの脱却
https://www.murc.jp/wp-content/uploads/2023/07/contribution2023-07_01.pdf
内閣府:新しい資本主義
キッシーが言うと胡散臭い…💦
https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/atarashii_sihonsyugi/pdf/ap2023.pdf
グローバリストど真ん中がいってることだからなぁ。
キッシーの新しい資本主義の元ネタと言われているらしい…
この本がまとまっていて充実しているとのこと
全く関係ないが…
このアニメ、大好きなので…
noteからお祝いをいただきました。
よかったら見てみてください。
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