『クリスチャン新聞』夜明け前&…今の「達成」
年初、思うところあり元職の元上司である守部さん(元クリスチャン新聞編集長)に電話し、1967年5月創刊の、週刊『クリスチャン新聞』の発端や、初期のことについて電話で聞き始めた。
聞いてすぐに、メモに基づいて、聞いたことを書いておきたいと思う。加えて、現時点でネットにて調べ得た情報と、そこから私が気がついたり推測したこと、解説も若干加える。
この時点でネットでシェアーしてしまうのは、今の時代に「正しい」、少なくとも相応しい進め方だと判断しますので、そうさせていただきます(登場人物のフルネームや正確な所属など、リサーチ自体をまだしていないことがあることをご容赦ください)。
クリスチャン新聞の発端はBG大会では「ない」
「福音をニュースとして伝える」とのビジョンから
いのちのことば社創設者であり、1950年の同社創設から1994年まで会長を勤めたのはケネス・マクビーティ宣教師であった。
実はクリスチャン新聞は、聖書や書籍発行をメインとする「いのちのことば社」が創刊し、こんにちに至っているのだ。
守部さんは電話で私の質問に答え、「マクビティーさんはジャーナリスティックな感覚があったから」と電話口で話し始めた。
イギリスに「The Christian」という新聞があったが廃刊になった。自分も、その編集長に会ったことがあるとも語った。
マックさん(愛称)は「何とか福音をニュースとして伝えることが必要」という思いがあったという。
守部喜雅さんがいのちのことば社に入社したのが1965年、25歳の時。
月刊雑誌『百万人の福音』はすでにあった(1951年11月『生命の糧』という名称で創刊。1954年11月、現在の名称に変更)。
しかし、その時点で守部さんは、クリスチャン新聞に関わるようなことは何も聞いていなかったという。
私が守部さんに話を聞く前に推測していたことはこうだった。すなわち、1967年10月に10日間にわたって、武道館、そして最終日は後楽園球場を会場に大規模な伝道大会「ビリー・グラハム国際大会」が開かれるので、その機関誌的な役割を担うことが発端だったとか、BG大会への教界の「盛り上がり」を受けてクリスチャン新聞というものが作られたのだと。
たまたま重なったビリー・グラハム大会
しかし守部さんは明確に「それは違う」と否定した。マックさんの「福音をニュースとして伝える」というビジョンが出発点だと強く言った。
私はさらに、「しかしマクビティーさんの胸中には、ビリー・グラハム大会のことがあったのではないでしょうか?」と訊いてみた。守部さんは「まあ、胸の内にあることまでは分からないけど」と言いつつ、「僕はマックさんの口からはそれは聴いたことがないな」と強く念を押した。
《はじめにBG大会ありき》では全くないということだ。たまたま67年にBG大会があった、というのが、守部さんの長年抱いてきた想いなのだ。
「良い知らせ」をニュースとして知らせるとは?
福音(原語でεὐαγγέλιον=エウアンゲリオン)との語自体が元々は、戦いの勝利や出産など、喜ばしいことを伝えるものという意味で、英語ではgood newsと訳されている。すなわち、「良いニュース」なのだ。
その福音を改めて「ニュースとして」伝えるとはいかなる意味だろうか?
私自身、『クリスチャン新聞』のバックナンバーを紐解いていて、そのマックさんが抱いた夢が実現されて、「新聞」として多くの記事を生み出してきたという感慨を抱いている。
イエスは、「神の国は近づいた」「神の国はあなたがたの間にある」と言った。聖書に書いている通りである。それが良いニュースということの重要で中核的な要素である。
この「神の国」とはかつて2000年、当時の森喜朗総理が言って物議をかもしたものとは違う(というより、そういう系統の思想は聖書を真似して出てきたものではないの?というのが私の観点である)。
「神の国」のレイヤーを明確に活字にする
私の観点で聖書の言う神の国を解説すればこうだ。
例えで説明しよう。Photoshopなどといった画像ソフトをご存知だろうか。
そこでは、一つの「絵」を作るのに何枚もの「レイヤー」が重なり合っている。
神の国は、ダイナミックに動いている世界という壮大な「絵」に、レイヤーのようにぴったりと重なったものである。
時にそれは、神を信じる信仰の「目」をもって、しかも目を凝らして見なかれば判別できないほどかすかなものかもしれない。
一方それは、誰が見ても分かるほどの明瞭な色、かたちを示しているかもしれない。例えば、マザー・テレサのような人物の生涯や、故・大平正芳首相や矢内原忠雄といった人々が、彼らの持つ神の国の価値観をはっきりと表明しながら、世の中に大きな、強いインパクトを与える場合もあるわけだ。
クリスチャン新聞はその「神の国」のレイヤーのごくごく小さいものや薄いものまで、時々刻々の動きに従って、活字や写真として伝えようという目的を持ち、それはかなり達成されてきたと私は思う。
世界に「意味」を与える
また、その神の国レイヤーの作用によって、世の中で起こった出来事に(悪い出来事であれ良い出来事であれ)深い意味が加えられ、「見る目のある」人にはそれが悟られるようなこともしばしばあると思う。
そのような、世界に意味を与える視点の助けとなる仕事をクリスチャン新聞は果たしてきたというのが私の思いである。
(願わくは、その視点を持ちつつ、「クリスチャン」の系統のものが、より多くの読者を獲得し、社会により強い良き影響力を発揮する未来があって欲しいと願う。大げさに、私流に言えば、正義を希求する人々の寄辺となるメディアが『赤旗』と『週刊文春』しかないというのは何とも心許ないことではないか 参考情報 「歳末の風物詩 救世軍の社会鍋」内に戦前の『東京毎日新聞』について書いています)
カナダ人宣教師であったマックさん
ちなみに私がクリスチャン新聞現役記者の時代、確かいのちのことば社近くの歩道橋の上でマックさんに遭遇し、《こういう記事を載せているのをマックさんはどう思っているのかな》という思いを抱きながら、話した記憶がある。それ以外にマックさんと親しく話した記憶はないのであるが。記者らしく図々しく自己紹介をした後に、「こんな記事を今、私は取材して書いているところです」と話したのだった。
その記事は、社会的少数者の人権侵害の問題を巡って争っている裁判についてであった。マックさんの反応は《それは当然だ》という肯定的なものであった、というのが私の記憶である(「そんな社会派=当時の福音派においては総体的に、社会的な事柄に牧師やクリスチャンが関わることを良くは思わない風潮であった=みたいな記事を書いて」という反応もあり得ると思っていた)。さらに《さすがマックさんはカナダ出身の宣教師だけある》(私の理解ではカナダ出身の宣教師は、人権問題に理解の深い人が多い)という思いが、その時、私の胸中に強く浮かんだことも付記しておきたい。
試行錯誤の、しかし強い意志の進発
1966年にマックさんが発案したが社内で反対論多し
1966年(クリスチャン新聞創刊号の1年前)に、マクビーティ氏(愛称マックさん)が部長会議などで話を出し始めた、というのが守部さんの記憶である。
しかし、作成実務を実際に担ってくれる人がいない。
また、いのちのことば社内では反対論が強かったと守部さんは言う。「特に出版部長の舟喜さんが反対だった。だけど最終的にはマックさんの決めることなので……」
5人のサムライが集まる
そして当時、学生伝道団体「キャンパス・クルセード」で働いていた「関さんという人が編集長になれるのでないか、という話になってね」。
1966年暮れに話し合われ、67年5月創刊に至るまで6か月で準備した。
その出発時、5人体制だった。
内訳は、
①関栄二編集長。「関さんは積極的で自分自身、取材に入った」。意欲的に企画、執筆に取り組むことになる。
②最初の(専属)記者が、これまで百万人の福音で仕事をしていた鈴木忠雄(雄の字が?)氏。「からだが不自由だったが書くことに賜物があった」(守部氏談)。
③守部喜雅氏。元々、「私はレイアウトで入った」。「それにイラストも?」と私が問うと、「そうだね」と答えた。
④⑤販売や営業の担当者が2人いたが、守部さんはその名や働きの詳細については忘却したとのこと。
「新聞」について「素人集団」で創刊しおおせてしまった?!
守部さんも「新聞作成の方法」などの研修に行ったという。「当時は活字で組んでいたわけだからね」。
いのちのことば社は1950年より活字を組んで、書籍の出版をしてきたわけだし、ミニサイズとはいえ定期刊行物も出版してきたから、全社として出版物制作・発行に経験値を積んでいたとはいえ、大きな紙の大きさ(ブランケット判=1ページがA2サイズ=545 × 406㍉。見開きはその2倍となる)の、また週刊とはいえ「新聞」と称する性質・属性、ビジュアルのメディアを作ることは初めてであったわけだ。
活字によって印刷物を作るのに、一本一本の活字を、本や刊行物の形態へと組み合わせていくのに、次の2つのプロセスを経て作られていた。
新聞作成の文選、植字などの工程を含む印刷は、新聞印刷の専門業者に委託するにせよ、それに対応するシステムを自社内に構築しなければならなかったわけだ。
私も、1985年から2000年まで、すでに活字の時代ではなく「写植」による作成であったが、新聞印刷会社との関連において新聞作成をしていく複雑でスピード感のあるプロセスを体験したので、それが活字の時代には、より複雑・面倒で、タイトなものであっただろうことは容易に推測できる。
さて、守部さんが新聞作成技能についての研修に行ったことを聞いた私は少し驚いた。その抱いた感想は、《守部さんが若くて柔軟性があったので、クリスチャン新聞としてブランケット版の「新聞」のレイアウトや作成を行う技能を、いのちのことば社として摂取し得たというのか?》というものであった。
新聞作成のプロに手伝ってもらったわけではない
なぜなら、今回守部さんに電話インタビューする「前の」私の推測として、クリスチャン新聞創刊に当たり、また初期に、《誰かすでに「新聞」媒体を作り慣れた手練れの“仕事師”に手伝ってもらったのではないか》と思っていたので、そうではないことを知って驚いたのである。
また今のところ推測に過ぎないが、関氏が編集長に推薦されたということは、彼がキャンパス・クルセード在籍の時から印刷物(ひょっとしたら定期刊行物)を手掛け、その仕事ぶりや出来栄えが評価されていたということではないだろうか?
前身としての『福音ジャーナル』の存在
インタビューして、書き始めて後に気がついたが、実はいのちのことば社は『クリスチャン新聞』創刊に先立つこと7年、月刊で「ジャーナル」と名を冠した定期刊行物を、1960年から発刊していたのだ。その名も『福音ジャーナル』(同じく同社による『百万人の福音』とは別)。
クリスチャン新聞の公式サイトに、2021年において次のように明記されている。
確かに、創刊号(記載された発刊日1967年5月1日号。月曜日)の『クリスチャン新聞』「題字」の下に、ごく小さな活字で「昭和35年(1960年のこと)12月10日第3種郵便認可 通巻第76号」と記されている。
最初期の、発行サイクル定着への微調整
それと共に「毎月1回1日発行」とも記されている。日付は昭和42年(1967年のこと)5月1日(それは土曜日)である。しかし同年10月29日号から週刊で日曜日発行となっている。
そして、それまでの期間、移行的な措置が取られていることが観察される。
そのように記す根拠と実態を下記に記す。創刊号以来の号の、「題字」下の表記の変遷である
「週刊なんて無理です!」
準備の話し合いの中で若き日の守部さんは、「毎週はできない!」と主張したという。渋谷駅の近くの喫茶店でのことだった。電話で語る口調から察するに、強い、絶叫に近い主張だったようだ。
そこで、1967年5月1日付けで創刊号が出て、第2号は1月半後の6月18日付け。
私の推測では、「勢い」で実際に1回作ってみて、その大変さを改めて実感し、その反省や経験も踏まえて2号以降につないだのではないだろうか?
そして、同1967年6月18日号以降、しばらくは隔週で発行した。
しかし4か月後の10月29日号から「週刊」発行になったのである(バックナンバーを確認した)。
「お金」のことはいのちのことば社で持った。「初年度は500万円の赤字になった。当時の500万円だからねぇ……今(の貨幣価値)なら数千万円じゃないかな」(10年ほど後に「黒字」になったようである。その経緯については今後の課題である)。
読者の「興味」を探りながらの発刊、進展
1年の20大ニュース選定順位の根拠となった支局アンケート
私が訊き始めた、守部さんへの第1回目の電話インタビューで、もう一つだけ準備していた問いは「支局」というものの存在についてである。
その支局という語は、1971年から1978年のクリスマス・年末合併号掲載の「今年の20大ニュース」(一部、15大ニュース、重大ニュース)という特集コーナーの、断り書きにおいて用いられている語である。
「今年の20大ニュース」は、その年の重要なニュースを1から20まで冒頭に数字を付して順位をつけ、1項目につき平均10数字程度、ながくても20数時までで簡略に20大ニュースを箇条書きで記したものである(77、78年に関しては順位をあえてつけないことを謳い、一方、10項目の活字の大きい重大ニュースと、それに続けて10項目の活字の小さい重大ニュースを発表している)。
そして、「20大」の順位の根拠について、「支局へのアンケートに基づき」「厳正に選考した」と何年かにわたって説明文が付されているのである。
その「支局」の数として記されている数字は次の通りである。
すなわち450教会(最大時では631教会)を自紙の「支局」と称してしていたわけだ。
私が勤務していた1985年の時点ではすでに、「支局」と称するものは「大阪支局」1つだけだから、支局の概念が違うわけだ。
少なくとも1976年から78年、通年の企画として「北から南から」というコーナーがあり、全国各地、プロテスタント諸教派・諸教団の地域教会で起こった出来事を400字程度の「豆記事」で複数個まとめて紹介している企画があったり、それ以外にも、私が勤め始めた85年以降よりも、より細やかに「地方」の「小さい話題」の記事が出ている理由は、これら「支局」の存在あってのことだろうと私は推測した。
旧「支局」は販売戦略の側面が強かった
いずれにせよ、この450支局(教会)の存在は大変興味深い事柄である。そこで守部さんにその実態について尋ねたわけである。
守部さんは、その支局の件はあまり記憶にないとのことだった。
そして守部さんは支局という語を敢えて用いず「支部」との名称を使い、「せっかく新聞を作っても販売の問題があったので支部という名で(つながりを作り)広げたんだよ」と、支部(「教界20大ニュース」では「支局」と表記)は、販売拡張のため手法であったとの認識を語った。
しかし私は、「拡張」以上に、つながりの維持を積極的に行い、また全国津々浦々のニュース、情報がクリスチャン新聞に達しやすいシステムとしての旧支局(支部)であったとの感想を持ち、その面からも大変な興味を覚える次第なのだ。
郵便アンケートが数100単位で行われた
そこでもう少し、この支局について突っ込んで守部さんに質問し、「アンケート調査と言っても具体的にはどのような手法を用いたんですか」と訊いた。
その答えは、文書・郵便によるものが主であったとのことだった。アンケートに電話を用いることは「考えられない」とのこと。
ということは少なくとも78年に至るまで年に1回は、400~600教会規模で、教会対象の郵便によるアンケート調査を行っていたということになるのだろう。
アンケート実施の煩瑣な作業―自らの体験から
私自身、1995年後半に、同年1月の阪神大震災による諸教会、キリスト教団体、クリスチャン各人の被災と、地域に対する救援活動を受けて、被災地域内の諸教会(無教会主義集会含む)334件、団体(キリスト教主義学校、医療・福祉事業施設、YMCAなど)114件への郵便アンケートを敢行した経験がある。
この際、教会85件、施設33件、計118件(26%)から記述式アンケートへの回答を得て、紙面作成に反映(そのまま紹介、また特集記事として)した経験から考えると、創刊から70年代後半において、年末特集号関連を始めとしてアンケート調査が行われたことは「大変なこと」と思われる。
1985年時点では整備されていたオフコンでの宛名打ち出し
私が勤務し始めた1985年の時点ではすでに、オフィスコンピューター管理(といってもパソコンはまだ使用していない)によって、購読教会・個人の住所、宛名打ち出しが専用プリンターによってなされる体制が整備されていた。
だから、1995年の郵便アンケートの際も、営業(販売)部から、蓄積されたデータ(購読教会のみならず)による郵便宛名ラベルを提供してもらい、不足の分は『キリスト教年鑑』(キリスト新聞社)を参照して手書きで宛中書きをして補ったのだったと思う。
また、毎週の週刊新聞の発送は、印刷会社(廣済堂新聞印刷)に委託していた。すなわち、自分たちで毎週の新聞発送の実務を行うことはなかったのだ。
しかし新聞発送や宛名書きについて、もっと「昔」はどうだったのか?
私はあまりその辺について「取材」したことがなく、ほとんど書けないことが残念である。
70年代まで社内で行われた郵送発送作業
しかし、1977年時点では、毎週の発送作業を「自分たち」(クリスチャン新聞、あるいは、いのちのことば社?内のスタッフ)で行っていたことが記事に明記されていた。下記の記事を参照されたい。
しかしその際の「宛名書き」をどのように行っていたかは私にとって不明である。
それにしても、自分たちの手作業で、毎週の新聞や、アンケートの発送作業を行ったというのは大変な驚異なのである。
しかしここまで書いて思い出したが、私が勤務していた1985年から2000年において、毎週の新聞発送は外注していたとはいえ、宣伝・案内(「広告を出しませんか」という内容など)文書の発送はオフコンによる宛名打ち出しを経て自分たちで行っていたことを思い出した(私は入職した1985年から2年ほどはクリスチャン新聞の営業部に勤め、広告営業に励んだので、その作業に携わる経験があった)。
いずれにせよ、『クリスチャン新聞』が、購読者であり、取材や文章依頼の対象である教会・組織、人々への組織的通信手段を有していたことは改めて考えると大事なことであると思う。
かつてのようなきめ細かな教会現場の記事と、歴史の堆積を
今日の『クリスチャン新聞』紙面を見るに、かつてのような各地方教会の「小さい」教会や人に関する記事は非常に少なくなっていると感じる。
インターネットの発達で、情報の発信も受信も容易になったとはいえ、キリスト教界においてはいろんな意味で多くの、情報収集、発信に関する「手落ち」があると思われてならない。
その中には、私が常日ごろ主張しているように、自分たちの教界で、その関連において世界で起きた出来事、発言、その影響といった、自分たちの「作った」また経験した“歴史”をインターネット空間上に残すことは大きな課題だと思う。
その思いを深められつつ、守部さんへの、クリスチャン新聞の歴史をたどっての、初回のインタビュー記事への結びとする。
おまけ
「おまけ」が大好きなクリ時旅人です。付録商法😁ですな。
1『クリスチャン新聞』という項目で守部さんがカトリックの辞典に2000字書いた記事がある
第1回目のインタビューの最後に守部さんは次のような耳よりの情報を教えてくれた。
「いのちのことば社の出した『新キリスト教辞典』には『クリスチャン新聞』のことはほとんど載っていないでしょう? だけど、『新カトリック大事典』の確か第2版には『クリスチャン新聞』の項目があるのよ」。
「出版は、有名な出版社<研究社>。30年くらい前のことだったかなあ。上智大学の高柳さんという人から突然電話があって、『クリスチャンジャーナリズムについて書いてほしい。そう、クリスチャン新聞について書いてほしい。内容は自由にお願いします』、って言われて2000字くらい書いた。福音版のことまで書いたんだよ」
初めて聞く話であった(いのちのことば社の辞典にはクリスチャン新聞に関する記載がほとんどないことを除いて)。
びっくりして、これからチェックしようと思っている。
幸いなことに研究社がネット版を有料で読めるようにしてくれている!
▼新カトリック大事典インターネット版
無料でも「あ」の項目は読める。有料になると全て読める
おまけ2 『福音ジャーナル』が全国の図書館に
週刊『クリスチャン新聞』の前身、月刊『福音ジャーナル』が、全号ではないが全国の図書館に所蔵されていることが分かった▼
おまけ3 『クリスチャン新聞』50周年(2017年)特集で、これまでのまとめ的感想や、未来への提言が語られていた
世界のキリスト教関係報道のベテラン専門家から、《『キリスト新聞』と『クリスチャン新聞』の合併》といった大胆提言!もなされています。20の項目にまとめられています。▼