文楽 聖書物語「ヤコブ荒野旅」新作台本
口 上
ユネスコ世界遺産(無形文化遺産)である文楽(BUNRAKU)。世界の宝です。
1998年、公益財団法人・文楽協会が主催し、「なにわ賞」として、新作文楽の台本を公募しました。
私は作品を書いて、それに応募しました。
大きなテーマは「親を騙してでも、どんな手を使ってでも手に入れたい神の祝福。その神はどんな神か?」です。
今回、その台本【文楽 聖書物語「ヤコブ荒野旅」】をNOTEに発表します。
あらすじ
旧約聖書の創世記に登場するヤコブという人物の物語のなかから、一部を翻案しました。
登場する神がどのような神かの前提として、創世記に記された天地創造の物語を、三番叟の節に乗せて描いています。
古来謳われた「このよろこびが、外へ逃げてゆきませんように」という幸いの“正体”は、世界の救い主が共に居てくださることではないか、という祝福のパラダイムシフトをも謳ったと言えるかもしれません。
ヤコブは「家督の権」(長男の特権)を、兄エサウから奪うことを試み成功します。なぜ家督の権を手に入れたいのか、家督の権によって表される神の祝福というものの顕示などを絡めて物語が展開します。
家督の権を手に入れる過程で、家族の人間関係の複雑なもつれが露呈します。目的を達したとは言え、兄の恨みを買い、ヤコブは家を離れなければいけません。孤独な荒野の旅の途上で、人間の愚かさにもかかわらず憐れみ深い神の顕現に触れるヤコブでした。
天地創造の段(三番叟の節で)
(冒頭に、パイプオルガンで、ハイドンの天地創造の冒頭の和音が一音奏でられ、その音が完全に静寂に入る瞬間、太棹三味線の音が入る)
それ豊天つちの大乾坤、アダムとエバの人祖より、天つ神創りの主、み業の始め、天照らす光。
地はかたちなく空しうして、世は常闇の淵であり。
その時に一つの神、八百万を治め主、「光あれ」と仰せ給ふひとことばにて光あり。
神光見て良しとされ、光と闇とを分け給ひ、光を昼と闇を夜と、おん名付けも給ふなり。
とぅとぅ、ハレルハレルヤ、ハレル崇め奉りとぅ
誉めよハレルハレルヤ、ハレル崇め奉り とぅ
蒼の上の水、蒼の下の水、分かち給い、絶えず保ちたり、常に守りたり。神が千歳の岩なれば天つちの長らえよ。天の下の水、一所に集めたまひ、波とうとうとう
とうとうと鳴る波、海と名をば付け成して、乾く所も高陸や、地と名をば名付けたり。種持つ草の芽生え出で、実の成る樹々の生え出づる、いづれもみ神のことばにて。
照るは空のもの、日は照る神の仰せにて、されば栄えは神にこそ、月星ともに造りなし時節のしるしの面白や
星々の、星の数、たれが数えも極まらめ、見上げ思ふはみ手の業、日月星の歩みの大事、神の定めのとりどりに。
万代の水の内は群がる生き物の満ち満ちたり。上の水麗々と落ちて、地を潤し、海から蒼に帰るべし。翼ある鳥も造り給ひ産めよ増えよと宣ふ。家畜、這ふもの、獣生ずるも神の御計らいなり。
「いとよきかな、天つちの整いたれば、人を造らん我らに似せ」
地の塵より
男にぞ
女にぞ
「産めよ増えよ、地に満ちて、慈悲深く治むべし」
「おぉ見よおぉ見よ、ほふ悦びありや、悦びありや、我らの業は成りぬ、休らいてこの日を祝わんと思ふ」
ヤコブ家督の権を奪うの段
〽古今、やまとの邦のみ誇れるものとうたわれし桜花と、見紛うばかりに春爛漫に咲き出でし、時告ぐる花あめんどう。沃野は人の住まいなれど、荒野は厳し、その界に若木の花盛り。
羊追いつつ帰る途、イサクの僕ら口々に
「コリャお前はどない思う。イサク様の御嫡子は兄のエサウ様。されど家督を重んぜず、己の腹の赴くまま、娶りも親を軽しめて、主なる神の名、知りもせず、畏れも致さぬおなごに、恋は柳の虫、気に入ったとさっさと祝言」
「オォそれそれ、かたや弟君のヤコブ様、家督の権にご執心。いつかは己が御嫡子になるというてぞ折ねらう」
そもそも二人は双子にて、生まれる先より母親のリベカの腹のその中で相争いて「これはそも」
と、リベカが神に問いし時、神こたえて宣わく、
〽二つながらの国民が、汝の胎に宿りしぞ。二つの民汝の腹より分かれ出でん。一つの民は一つの民より強かるべし。しかして兄は弟に仕えんと
生まれはエサウが先にして、
「生まれ遊ばしたるその時は、『こりゃなんじゃ、赤うて毛深い子じゃわい』と名付けられたがエサウの由来とぞ」
「ホォ、それならヤコブ様は」と一人が問えば相方のこたえて言うよう、
「それがまあ。『これ待てわしが先じゃわい』と言わんばっかりに、兄様の踵(くびす)をしっかと掴(つか)んでご出生なされ、それがヤコブという名の由来とかや」
「ハハ、生まるる時よりかくなれば家督を欲し給うは道理なり。さて、それにしても腹減る匂い。どこから匂うてくるのやろ」
と見れば、木の元に座りおるのはヤコブその人、何やら鍋で羹(あつもの)を煮る様子。
「ひゃあ若旦那はん、そないなところで何しておわす。そないなうまそな羹作り、どなたに食べさせなさります」
「オォこれかい。これを仕掛けに家督をば、首尾ようわしの手に入るる」
「ぶるる、そやったら兄様に毒を食らわす算段で」
「あほなこと言うな。頭を使うは生きとるうちじゃ。早よあっち行っとれ」
と追い払い。
そこへ表れたるは例の赤い奴。野にて狩りするその帰り、疲れ果てたるエサウなり。赤い豆をぞ煮込みたる匂いに引かれてふうらりと、
「腹減った。オォ、何やら旨そうなあつものを鬱金の鉢巻き、気の回る弟じゃ。どれ、一口食わしてくれ」
と手を伸ばすを差しとどめ、
「食わせてやるにはやるが食う前に、呑んでもらいたいものがある」
「そりゃ何かの取り引きか。早う言え」と気の急く兄の目を見つめ、
「兄者の持ちたる家督の権、わしに譲ってくれまいか」
と言えばすぐさま、
「何やそないなことか。分かった分かった、いらんいらん。家督の権などこの今の」、
〽減りたる腹の足しになる、羹よりも何ほどの値打ちのありや、ありゃせぬと、譲り渡しし家督の権。一腕のあつものを重んじて家督の権を軽んずる、神の祝福軽んずる
〽目に見えぬことに鈍きエサウ、狡猾なヤコブにまんま食わされて、食うのみならず飲みもして、振り返りもせで
立ち去れり。
ヤコブ祝福をも奪い逃ぐるの段
〽なれそめの、
思いは遠に薄らぎて、糟糠(そうこう)の女房となるとても、熟(な)れ良き味の酔い甘い、余人の知らざるところなり。
年老いて、目も早や霞むイサクをば、リベカはその若き日に慕いてぞ、遠く親元立ち出でて荒野の途を駱駝にて、揺られ来たりて嫁ぎ入る、砂塵に霞むごときにぞ遠き日は早帰らねば、楽しみとては子の育ち。
〽子は鎹(かすがい)と言うものの、リベカはヤコブに思い入れ、イサクはエサウの肩を持ち、つながるものかは古夫婦。
天幕に居るを好みたる下の子ヤコブにリベカのこぼすよう、
「ノォお前は父さんをどう思う。長年父さんに連れ添うて、つくづく思うんやけれども、人の気質は裏表、人は謙虚ともてはやす、それがそのまま優柔不断、割を食うのは妻の役」
と昔語りを言い聞かす。
〽土地の者らに疎まれて、先代の残しし井戸を埋(うず)められ、新たに掘りたる井戸までも、取りあげらるるお人好し。されども先代アブラハムの、真実無心な信仰を神見そなわすお陰にて、ますます豊かに富み栄え、
「神がともにある人と、敵(かたき)にさえも誉めらるる信心深き『いい人』なれど、気の弱きこと甚だし。そうそうこないなこともあったんやで」
と問わず語り、
「ある時二人でよその土地、食うを求めて移り住み、『この女は誰が妻ぞ』と問われし時に我が夫、『我が妻ならず。我にとりては妹なり』と、油は取れぬ胡麻の滓。なんでそないな嘘言わやしゃったか分かるかえ」
と問えば、
「そりゃ母上のあまりにも、見目麗しきを妬み受け、危害の加えられぬよう用心の上にも用心をしやしゃったのでありましょう」
「ホホ、それは嬉しきことを言うてくれる子じゃ」
とは言いながら、もしあの時に誰彼に、寝取らるることになりしかども、夫の身は無事安全であろうことぞと思い至り、我は夫の保身の具かと恨みに思いしことは口にせず。
〽其の時も、先代アブラハムのお陰蒙り、主なる神の導きにて、ことの次第を知り至る土地の顔役よりはことのほか、強き守護をぞ与えらる。
あれやこれやと思い返し、神の守りと祝福の確かに夫にありしこと、否み難かるまことにて不思議なるぞと思いつつ、
イサクの天幕に歩み寄りし時、内より声のもれ来たる、
「我が子よ」と
呼ぶ父に
「我ここにあり」と答える声はエサウなり。はっとして、息を殺して兎の耳。
「見よ我は早老いて、いつ何時もお迎えのあるかも明日の知れぬ身ぞ。ごほゝゝ」
と咳払い、
〽さればとて、我がため野に猟に出で、捕らえ来たれる獲物をば、我が好む美味に仕立て上げ、運び来たりて食らわしめよ。しかして後、我が祝福を汝に譲らん
と、言うはエサウの猟を好み、その獲物をイサクの好みたる故ならばこそ。
リベカ思いを巡らして、その場を静かに離れ出で、ヤコブを探して子細を伝え、策を授くる母ごころ。
「ただ今わたしの耳に入る、父上殿のお話しはエサウに向かいて語るよう」、
〽捕らえ来たれる獲物をば、かの美味にぞ仕立て上げ、運び来たりて食らわしめよ。しかして後、主の御前にて汝を祝福せん
と伝えし後、
「されば我が子よ、母の意見を聞き入れよ」と授くる策は、天幕の回りに飼いたる子山羊を取り、母が美味にぞ仕立ての膳を、携え父の前に至るべし」
「父上必ず召し上がりて、お前を祝し給うべし。さあ我が言うが如きに行うべし」
と言うを聞きて、
「兄者は毛深き猛者なるが、我は然らず滑らかなり。もし父上がわてに触って確かめたら、そんなんすぐにばれるは必定。そないなことになったなら祝福どころか呪われます」
と恐るも道理と母親は、
〽呪いを受くることあらば、母が呪いを引き受けん。然れば我がたくみの如、必ず必ず行うべし
母の一念怖ろしや。リベカはヤコブの持ち来たる子山羊をヤコブの好むところに味を仕立て、しまい置きたる上の子の上着を取り出で下の子に「さ、早う着。子山羊の皮も腕や首に巻き付けて」、
かくせば夫を必ずも、欺き尽くさんと心を回し、膳を我が子に託しける。
ヤコブは父の許に至り、
「父上」
と呼びかくれば、
「ここじゃ。せがれよ。わしを呼ぶのは誰じゃ」
と問う声に、
「長男エサウにござります。父上の仰せの通りに致すれば、体を起こして召し上がり、御自らの祝福をなにとぞ与えて下さいませ」
「せがれよ、野で獲物を捕らえ、膳に整え持ち来たるに、ずいぶん早いことやなあ」
「父上の信ずる神のお助けを受けましたれば」
とあくまで白を切るの腹、
「しからばわしに近づきて、お前の体に触らしてくれ。ほんまにお前がエサウか否かを見定めたい」
と言う父は、子の腕に触りてこぼすよう、
「分からんなあ。声はヤコブの声やのに、なんで腕だけエサウなんや」
と言えど祝福授くる心固め、
「ほんまにエサウやな」
「ほんまです」
「そやったら獲物を持っといで。食べてから祝福しよう」
と膳を取り、勧めらるるまま酒をも受く。その後、いよよ、
「近づきて口づけせよ」
と命ずるまま、親しみの最も深きあいさつが、欺きの極みとなりてなおもまた、祝福ほしさの一念に、ためらいたれど口づけす。
イサクはヤコブの上着を嗅ぎ、
〽ああ、我が子の香ぞかし。主の祝し給う野の香りの如し。願わくは神、汝に天の露、地の良きもの、及び多くの穀と酒とを給わんことを。諸々の民、汝に仕え、諸々の国たみ身を屈めん。汝兄弟らの主となり、汝の母の子ら汝に身を屈めん。汝を呪う者必ず呪いを受け、汝を祝する者は祝せらるべし
と祝福すること結びに至り、ヤコブ立ち去るすぐ後に、エサウが狩りより戻り来て膳を整え入り来たるも、残る祝福あらずして、エサウの叫び悲痛なる、
「父上、我の祝福はいづこにありや。この我をも祝し給え」
と泣きぬれば、イサクの曰く、
〽ああ、汝の住処は地の良きものより離る。天の露よりも隔たりて、世過ぎに頼るは己が剣、しかして汝の弟に仕えん。然れども汝つなぎを断ち払い、頚木を振るい落とすべし
エサウのヤコブを憎まんこと、父が逝きたるその後に、必ずヤコブを殺めんと思い定むるほどにして、その覚悟、母の耳にぞ達すれば、リベカはそっと使いをやり、下の子呼び寄せ諭すよう、
「お前の兄さんはお前を殺し、恨みを晴らそうとしてるんやで。そやからお前はこの地を離れ、ほとぼり冷めて帰れるまで、母さんの故郷ハランにお逃げ。そこに私の兄さんのラバンがおるから頼ってお行き。帰れるようになったなら、母さんが人をやって知らせるさかい、それからすぐに帰っておいで」
と言い含め、
夫には、エサウの嫁らを愚痴にかこち、
「ヤコブまでもがあないな嫁を、もらわんならんことになったら、私は死んでしまいたい」
と泣きくどけば、イサクは思案、
かつてリベカを娶りし時、リベカが遠く親元を、立ち出で荒野を駱駝にて、揺られ来たれる故郷の、ハランの地に一人行き、ラバンの娘を娶るべしと、ヤコブに命じ、
然してヤコブ旅立ちぬ。
〽母は涙に暮れつつも、いずれ愛しき我が子をば、呼び戻す日も来たらんと一縷の望み繋ぎたる、
己がたくみの愚かさと、優柔不断な夫のため、かかる別れと成りけるも、
神の祝福頂きたる、我が子に必ず幸あらんと、夫婦並びて手を振り、砂塵に姿かすむまで、見送らん、
「さらば、さらば」
と。
ヤコブ荒野の出奔、みつかいのきざはしの段(讃美歌動画入り)
〽石を枕に夢枕。無辺天涯の荒野にて、漆黒の闇、満天の星。懐かしき家(や)を捨て置きて逃げ来たる、兄者の怒り、母者の泣き、衰えたもう父のおん姿、
あれやこれやがぐるぐると、心の整理もつかぬまま、ただ闇雲に、歩を進む。
「兄者にあるいは殺められんとするところを、そこは母上の機転にて、落ち伸びること早十日。せやけど目につくもんは、味気も色気もなき岩ばっかり。寂しい、恋しい、母上殿」
はた、追い剥ぎや荒き獣の狙う隙間のありもせん、常に心の安らがず、おかしなりそな我が心、
「兄者を騙し家督の権、手に入れたるは首尾万端、とは言うても、その顛末がかくもまた、大儀なものとは」
夢にだに、思わざりける荒野の旅。
〽日も暮れなば、石の枕、仮寝の夢にも、家(や)を偲ばん
とて、
まどろみ行きたるうちに、何者かの気配はせん。ハット驚き見るほどに、
何と、満天の星のおおいかけたる天蓋の、その頂きより、
懐かしき淡き光に包まれて、きざはしの、天から地に達したる。
その上を、天の使いら昇り下りするを見て、「これはそも、いかなることぞ、この土地は」とうち眺むれば、
主なる神、畏れ多くも枕辺に立ちて宣まわく、
〽我は汝の父アブラハムの神、イサクの神、主なるぞかし。汝が臥すところの地は、我之を汝と汝の子孫に与えん
〽空の星を数え見よ。汝の子孫、この星の如く増えまさん。西、東、北、南へと蔓がるべし。天下の諸々の族、汝と汝の子孫によりて幸いを得ん
〽我汝とともにあり、凡て汝が往くところにて汝を守り汝をこの地に再び率き戻るべし。我は汝に語りしことを成し遂ぐるまで汝を離れず汝を捨てじ
と。
ヤコブ言うよう、
「主なる神、このところにおわしますに、我それを知らず。ここは天の門なり、ここは神の家なり」
と夢は覚めぬ。
ヤコブは朝夙に起き上がり、明けの明星に照らされつつ、枕に眠ねたる石を取り、石の柱と立てなして、きよき膏(あぶら)を注ぎし後、
「この土地の名をベテルと名付けん。ここは神の家なれば」
と乃ち誓いを立てて言いけらく、
「神もし我とともにいまし、この行く路にて我を守り、パンを食べさせ着物を着せ、父の家まで安らかに帰り着くこと得せしめ給わば、主を我の神とせん」
と祈りて後に出立せり、
荒野の途を、足取りも確かに。
口には賛美を頂きて。
〽おー、はれるや。おー、はれるや。喜びありや、喜びありや、主なる神、このところにいますことを思う。
製作のねらい(文楽協会に提出したもの)
江戸にキリスト教はありませんでした。キリシタンが抹消されたからです。
もしキリシタンが抹殺されていなければ、必ず聖書を題材にした床本が書かれたことでしょう。なぜなら聖書は、人間味あふれる物語の宝庫なのですから。
キリシタンの弾圧、殉教から四百年が過ぎました。もし聖書義太夫というものがあるとすればどのようなものか、試みたのが今回の応募作品です。国際化の時代に、日本人が描く聖書の物語は案外面白いかも知れません。
文体としては、現代的な感じの関西弁が、古典を擬した語り口のなかに溶け合うような工夫をしてみました。
「現代関西弁」一方では、何かしっくりこない感じがするし、古典を擬することには限界があり、それができても新作の表現にふさわしいのか。自分なりにいろいろと悩み、未熟ながら今回のかたちに落ち着いたのです。
時間の制約から、話の展開や推敲が不十分なまま応募することを申し訳なく思います。
作者のいいわけ
怖いもの知らずで、文楽協会主催の新作文楽台本募集「なにわ賞」に応募しました。
文楽について全くの初心者が見よう見まねで書いた台本。
結果は、見事落選でした。
捲土重来(けんどじゅうらい)を期そうと考えたのですが、翌年から募集自体が休止になってしまいました。
江戸時代のしゃれことばなどもずいぶん調べて入れてみたのですが、お気づきだったでしょうか。
最後の段「ヤコブ荒野の出奔、みつかいのきざはし」など、もっと手を入れ、描き込むべきところ、時間が足りませんでした。
少なくとも、あと1,2段入れたかったところです。
ある方からは、「戯曲である以上、もっと“どんでん返し”が必要ではないか、とのご指摘。まことにごもっともです。
賛美文楽・文楽聖書物語「創世記」と謳うかぎり、前後の物語も拡充されていくべきところ。そのような意欲が湧いてくれば取り組んでみたいと思います。(1998年しるす)
(2023年追記)「なにわ賞」はなくなったので再トライの機会はなくなった。
しかし、豊竹呂太夫師匠(当時、英大夫師匠)による本格的な新作文楽(多く含むゴスペルin文楽)がこの頃から活発化していった。
SNSの今の時代、再びささやかなりともこの本を世に問えることを感謝します。
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