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単なる山師かイノベーターか

クルマの後部についている「63」と表示された電光表示。何のこっちゃ?という図ですが、今日の私のこのNOTEは、ひょっとしたら、全国のどのクルマにも、このような外部向け速度表示メーターがついている今日があったかもしれない、というお話しです。

デロリアンならぬ一般車を安全なクルマに改造しようとした

映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」に登場したドク博士は、かっこいい車、デロリアンをタイムマシンに改造してしまったが、全国の自動車に、今走っている速度を表示する電光掲示を取り付けようというアイデアを実現化しようとしたのは三浦工業貿易社長の稲尾三郎さん(79)。辻堂ホーリネス教会(神奈川県藤沢市)の長老さんでもあった。

クリスチャン新聞1981年2月15日号に掲載された。

本題と関係ないが、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」で
デロリアンがタイムマシンになった瞬間(読者サービスですw)

「走るクルマの速度を外に表示すればドライバーの良心が発揮される」という着想

その目的は、交通事故を減らすこと。
稲尾さんの考えでは、「自分の運転する車の速度を車外に表示すれば制限オーバーすることはできない」。
交通事故を少なくするには「制限速度を守るという運転手の良心に訴えるのが一番」という作戦だ。

その着想をかたちにして、前田直治さん(ナザレ兄弟社社長。青葉台ナザレン教会員)が発案し、稲尾さんが開発してしまったしまったのだ。

名づけて「自動車車外デジタル電光表示速度計」。

記事では稲尾さんが家の室内にいる写真だが、おそらく、実際に、車輪が回転しているクルマから電線を家の中まで伸ばして、それを記者に見せたのだろう。
惜しむらくは、やはりクルマの外部にこの装置がくっついている横に稲尾さんが写っている写真をゲットして欲しかったw。

表示メーターを持つ稲尾さん

全国のクルマに実装されれば事業規模40億円

稲尾さんの構想だと、全国の自動車にそれが実装されれば交通事故は減り、事業規模40億円と見込まれる。
それで自分の会社も大いに儲けることができる。「このおカネを交通遺児や難民、そして世界宣教のために使って神様のお役に立ちたい」

今この記事を読めば、何ともはや、「山師」的な発想だと感じてしまう。

運輸省の認可や、交通安全協会の奨励まで得ていた――具体的な取り組み

しかし当時、稲尾さんはかなり具体的に行動し、またかなり「いいところ」まで話は進んでいた。そこは事業家である。単に空想話に終わらない。

1977年の装置完成後、路上走行車への実装は運輸省(当時)の認可も得ており、80年11月には、審査の厳しい全日本交通安全協会の奨励を受けた。

牧師をやっている長男(稲尾三浩氏)も自車に実装して走っている。それを含め5台のクルマで実装実験中だが「結果は上々」
「目下」、この装置が標準装備となるべく「道路運送車両規定の改正を関係方面に申請している」。

当時、大型トラックには、速度表示灯が実装されていた

「そんなこと絶対起こるもんか?」とお思いだろうか。
実は(このクリ新記事にも指摘されているが)、当時、全ての8トン以上のトラックは前面の屋根の正面に、3灯式の速度表示がついていたのである。

いすゞ・HTS12Gキャビン上にある速度表示灯

これは1967年に義務づけられ、40km/h以下は1つ点灯、40km/h~60km/hは2つ点灯、60kmを超えると3つ点灯表示が自動的にされるようになっていた。

これは交通戦争と言われる事態を受けて、そこには多くの子どもが含まれる悲惨な交通事故死者を減らそうという切実な目的があったわけだ。
(現在、その規定はなくなり、製造する大型トラックにもはや装着はされていない。その代わり、スピード制限装置(リミッター)装着が義務着けられている)

毎朝、子らを守るため交通指導員に立った牧師

ここで思い出すのはクリスチャン新聞1968年4月21日号に載った、登校の
子らを交通事故から守るため、自ら路上に、交通安全指導員として立った牧師
さんの話である(「68年 子らの交通指導員に立ち、地域社会の信望を得た牧師」)。

NOTE「68年 子らの交通指導員に立ち、地域社会の信望を得た牧師」

この辻浦定俊牧師さん(日本同盟基督教団・杉戸教会牧師)が止むに止まれぬ思いで交通指導員に立ったのと同じ理由で、大型トラック速度表示灯は義務付けられたのだし、稲尾三郎もまた、全車に「車外表示速度計」の装着を構想したわけであったのだ。

ひょっとしたら稲尾さんはクリスチャン新聞を購読していて、この辻浦牧師のことを知っていたのかもしれない。

「自動車車外デジタル電光表示速度計」の全車装備構想は実現はしなかったが、そういう世の中にまだ「ない」が、新しいものを発想し創造し、広めていくというイノベーションの精神と、またそれを具体的に着実に進めた稲尾さんの発想と手腕を大いに誉めたいと思う。

メンソレータムを開発したA.A.ハイド氏との共通点

ついでにクリスチャンの起こしたちょっとしたイノベーションとして、「メンソレータム」の存在を上げておきたいと思う。

クリスチャン新聞2014年9月14日号 連載「ヴォーリズ召天50年 神の国の種 芽吹いて」第5話 <「一家に一つ」メンソレータム秘話 100年の物語>
そこに掲載されたハイド氏の写真。光景は近江兄弟社の工場(開設当時)

メンソレータムは、現在はロート製薬の商標であるが、日本で最初は、滋賀県の近江兄弟社が持っていて、戦前から超有名な塗り薬として売れていた(現在、近江兄弟社は「メンターム」として製造・販売している)。

40過ぎで再起、成功を果たしたハイド氏

その薬をアメリカで開発し、大ヒットを飛ばしたA.A.ハイド氏のことである。20世紀初めのことである。
キリストを熱心に信仰するハイドであったが、大きな借金を負ってしまう。
40歳過ぎで再起を図り、メンソレータムを開発。これが大当たりした。

収入の10分の9を神のため=世のため人のために使う生き方

そして彼は、自分の収入の10分の9を神様の働きのために捧げてしまう、そんなライフスタイルを実践していた。

メンソレータム(現メンターム)のみならず、建築設計事業、学校、病院、福祉事業等で知られる近江兄弟社の創設者、W.M.ヴォーリズもハイドから援助を受けた。

戦前、琵琶湖を走る「ガリラヤ丸」という船を近江兄弟社は伝道の事業のために運用していたが、そのおカネをぽんと出してくれたのはハイド氏なのであった。そのほか、なにくれとなくハイドはヴォーリズを支援した。それはヴォーリズの、日本において事業を興しながら、クリスチャンの生き方を実践する生きざまに共感したからだった。

メンソレータムの日本での販売権を近江兄弟社が得たとはいえ、1920年当時の日本では全く無名の薬であった。

その知名度を上げ、お客さんの手にとってもらうためにさまざまな奮闘があった。そして不動の地位を築いた。

その物語を私は、クリスチャン新聞2014年9月14日号に、連載「ヴォーリズ召天50年 神の国の種 芽吹いて」第5話 <「一家に一つ」メンソレータム秘話 100年の物語>の中に書いた(連載の、他の話も読みたい方はこちらから)。

世のため人のためになる事業

ハイド氏と同様、稲尾氏も、ベンチャーな、イノベーションの精神に満ちた人であった。稲尾さんは当時79歳だったのである。

そして、その成功したい動機は、世のため人のためになることだった。
交通事故を減らし、その犠牲者を減らしたいということだ。

また得られた富を稲尾さんは「交通遺児」「難民」そして世界宣教に使いたいというビジョンを持っていた。

79歳にして「電子発電」の研究に取り組む稲尾さん

記事の結びに稲尾さんは、電子の中のエネルギーを取り出す「電子発電」の構想を持ち、実験室まで作ったことが記されている(いやはやドク博士も顔負けである)。全く新しいことに取り組んでいるのだ!

79にもなって「先が短い」のに、そんなことをやって何になるんだ、という思いは稲尾さんには全くないようだ。
好奇心のかたまり、探究心のかたまりである。

永遠のいのちを見すえているから年齢がいっていても若い

イエスが言うように、イエス・キリストの救いを信じる者は、永遠のいのちに入れられ、死んで後やがて、復活の身体を与えられて新天新地に生きることになる。稲尾さんの生きざまは、そのことを信じて生きている、クリスチャンの事業家の面目躍如というべきだろう。


クリスチャン新聞1981年2月15日号


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