GENJI*REDISCOVERED 今日の源氏 『光る君へ』 10
いよいよ『寛和の変』、ドラマをカット順に追いつつ、 『源氏物語』からの引用は…、とか、考証的に…とか(散文的になりますが)。
東三条殿=右大臣家 兼家と息子たち。
晴明の「卦」でですか「23日、丑(うし)の刻でないと」との日取り、
花山帝の落飾の遂行の作戦会議。 道綱!も来て兼家の命を受けている。
「帝を寅の刻までに、剃髪させる。」 開始の 丑の刻 は、今の 午前1時頃~の2時間。「正子(ね)」の刻が24時で、2時間刻みの真ん中。=「ね」は、23時~01時までとなる。「丑」は01~03時。「寅」は03時に始まり、終わる05時 =夜明けには「卯(う(さぎ))の刻」となる。
「忯子の魂を沈め成仏させるために出家しようと思う」と帝が→義懐に。
猛反対する光臣・義懐に「さがれ!」と帝。(誰も自分に寄り添ってくれない!との孤独感と怒り、に)そこを空かさず 道兼「ご一緒に出家いたします」と。
寛和2年6月23日(もちろん旧暦→ 986年7月31日)は、「木星が天秤座を通過する日」 天体の動き が人の世に大きく影響を及ぼしていた当時
「占いの書に書かれてあることが、書かれているように動いて-起きる」(人心の)不思議。
息子たち其れ其れの役割、道長には「おまえは家を守れ。」と兼家。
この企みが露見した時は「父とは関わりなし。」と言えと。とは言うが、
道隆の世と、道長での存続との 見事な「二股」である。 …兼家は…。
琵琶を弾くまひろ。ー孤独や物思いを慰める方法…当時の女性が抱えて鳴らしたのが「琵琶」。
父が家に帰らぬ日々。「高倉の女のもと」と嘆く乳母 いと に、「生きてることは悲しい事ばかりよ。」とまひろ、気になって高倉の家を見に行く。
父の(妾への)思いは「一人で死なせるのは忍びない。」と。これに まひろ
「ご立派でございます」って? いくら「貴族たるもの妾の一人や二人…」の時代でも…。 せいぜい「お優しうございます」では…は現代の感覚か…。
もずひこが持って来た 道長~の文、和歌と漢詩での遣り取り…。
そう、これら『古今和歌集』等からの歌を見極めて、あらためてそれらの歌の事を調べたりしてると、このように「投稿」に遅延が起きてしまって…。
道長のセンチメンタルな選歌に、「あの人の心はまだ鳥辺野に。」と思う
まひろ。ー いま右大臣家は、帝をたばかる謀略に向け準備中…なのを知る由もなく。
まひろの返事の「陶淵明」の詩… からの 道長の「古今集」の歌からの…
は割愛。 この辺りの事の解説、書かれたり、話されている投稿多数。
そちらにお任せ→させてください。
まひろの「漢詩」返しに道長、行成に問う「どう思う?」と。
行成「歌に漢詩での返しとは珍しい。」「漢詩は「志し」を託している」のでは。と。 納得の 道長。
世間で言われてきた 紫式部と 清少納言の「ライバル」関係。でも、お互い直の面識や対立、遣り取りは無い。紫式部の 清少納言への 辛辣な批判 の存在で、後世「ライバル」どうしと誤認なのか、とにかく膨らまされて…。 紫式部にとって、なぜそこまで清少納言が「嫌なやつ…」だったか、一般的に言われているいくつかの理由より、自分は、「漢詩の知識」を使っての
手柄話しで 評価される 清少納言 だが、紫式部 にとっては「漢文学」は 自分の家の 専門分野で、清少納 の家は「和歌」が受け持ち。それなのに…周りが 漢文学の才で褒めそやすことが気にくわなかった。のでは。自分に降掛かる
「一という漢字さえ書けない」ふりをしようかと思うにいたる自分の漢才への世間の反応(ー仕打ち)を、清少納言に向けているのではないだろうか。
当の 清少納言は、父の歌人としての 名声がプレッシャーで、(かつ、その歌風の 特徴も 醒めてみていたのか ) お仕えする 定子中宮に「歌は詠まなくてよい」という許可、承諾まで得ていた 次第。(も『枕草子』に書かれてある) 歌詠みの娘が 漢詩の知識での勤めを褒められ自分で賞賛の記録を流布していること、への「なにアレ」という事。そんな (下品な人と「才媛」括りで) 同じにしないでくれる? という ( 周りへのイライラもが膨らませた) 怒りではなかったかと思ったり。
東三条殿、詮子との謁見から帰る 源隆明娘 明子姫。 詮子の地固め「二つの源氏とつながっていく。」準備。
道長、姉詮子に「23日は内裏から出るなと」父の仰せ伝える。
そういう「政変」の企てのプレッシャーが高まる中、道長、文通のまひろとともに「また会いたい。」と、満月の夜、例の六条の廃院に。
抱きつく道長。口づけ。「一緒に都を出よう。」「藤原を棄てる」とプロポーズ。
道長は、今始まっている-これから起こる一族の企てから逃げたいと思っているから…なのだろう。(この本では。)
「うれしゅうございます。」は本当だろうけど、上級貴族の家で生れ育った
道長に、自活生活は無理…なのを知っている、貧乏が嫌なほど分かっているまひろ「偉い人になって、よりよき政を」「高貴に生まれた理由。あなたの使命は別のところに。」と。道長に「おのれの使命はたせ。」 私は「都で見つめつづける。」宣言。 それでもまだ「一緒に行こう」と道長。
で、(驚きの)展開。 ま、平安時代の男女は、まず直接の関係を持ってからの婚姻が手順であった(事前の「歌」のやり取りはあったにしても)から、道長と 紫式部が プラトニックな関係(だけ)であったとは言えないだろうけど。 この展開、「大石本」にまたノックアウトされました。
史実からだと、この年、紫式部は14歳と考えられている。
事後の廃屋の屋根のほころびから見える月 は、『夕顔帖』で 夕顔が 最後の宵に見た光景…となるのでしょう。
涙する まひろ「しあわせでもなくし悲しくても泣く」「どっち?」「どっちも。」「幸せって悲しい。」 … ですね。
23日 深夜、 右大臣家の面々「梅壺」に集結。
花山帝、変装の女房(の上着を披いでの変装)姿で出る。「月明かりが明るすぎる。」と。これは『大鏡』などに記載のあると。
で、また、撮影現場に「校正」者さん居ない問題。
23日の月は、いわゆる「下弦の月」 明るいと言っても「半月」です。
そして、「月の出」は、ほぼ「真夜中」。「丑の刻」おわりギリギリの
午前3時頃 はまだ 東の空の 中ほどにあって、清涼殿の前の廊下ならば
御身体が(半月の)月光に照らされたかもしれませんが、TⅤ映像の様に
路面を照らすような角度まで「月」はまだ昇っていないのです。
「玄輝門」までの「弘徽殿」と「登華殿」の横を行く時など(まさか、
西側の藤壺、梅坪、雷鳴壺 とのど真ん中を行くのではなく、弘徽殿~
登華殿と続く軒下の通い段を使うだろう…と思われる(フィクションでも)(この段(犬走)は、官人が通勤、登殿に日日使っていた-枕草子にも)
各々御殿の屋根で、月の光はとうてい道を照らしてはいなかったのに。
花山帝を連れ出して、全ての門に鍵をおろして、「内裏封鎖」!
隆家と道綱は、帝位移譲の「印」一式を運び出してしまう。
道長→関白邸に、帝、出奔と知らせに走る。
阿部晴明の邸前を「花山帝を乗せた車が通りました。」は清明奇談の一つ。
剃髪完了。寅の刻。作戦計画完了。
朝の朝廷。蔵人所。昨夜…というか、早暁に起きたことを知る由もない面々、
突然の「摂政」宣言の兼家。驚嘆の秋山実資、父為時。
まだ政変を知らないまひろ。でつづく。
10回 『月夜の陰謀』 というタイトルから、花山帝は「月の光」を
浴びながら内裏を出なければいけなかった…のでしょうが、「二十三夜」
の「月」=「下弦」の半月の夜= 01~夜明けまでを『月夜』と呼ぶ
のかな…と、いささかの(間違いではないものの)無理を感じる事でした。
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